安達家臣時代

直堂一揆は,畿内東部の舟山を本拠に,安達政権への抵抗を継続していた。

ところが,安達政権が,一条氏を中心とする西軍を降伏させ,
湾陰の本田氏や河首の秦氏らの残党による一揆を殲滅すると,
完全に孤立する。

援軍を得ることが不可能となり,朝敵の汚名を着る可能性が強まったことで,
直堂一揆は,ついに舟山を明け渡し,全門徒に武装解除を指示して安達政権に降伏した。

安達政権は,広奈国の再統一を果たす。

しかし,安達政権の栄華は,宗治一代のものであった。

清正3年(1532)に宗治が薨去,その孫 正治が後継者となると,
安達政権は揺らぎはじめる。

清正5年(1534),一条氏が政権の許可無く領内の防備を強化したとして,
正治は,一条征伐の軍を興したが,松下の地で逆に一条氏を中心とする西軍に包囲され窮地に陥った。

清虎も,この時,一条征伐軍に参加しており,西軍の猛攻を耐えしのいでよく正治を守った。

危機を救ったのは,この一条征伐に反対して左遷された有間渉遊(治久)である。

正治は,自身を救ってくれた渉遊を復帰させ,
自身を守るのに功績のあった清虎を右京大夫に昇進させた上,自身の名から「治」の一字を清虎に与えた。

清虎は治虎と改名した。

渉遊は,安達政権の立て直しに尽力するが,その高い声望から,
再び,正治に疎まれ始めた。

正治は,一条征伐に失敗して以来,戦を厭うようになっていた。

清正7年(1536),西軍の圧力を嫌った正治は,
畿内東部の氷見を整備して,遷都,自らは畿内を出て海西の水奈府に移った。

この時,渉遊は,

「東へ移れば,当家が西軍に対して腰が引けている印象を天下に示すことになります。

西軍の勢いはいよいよ強まり,当家の勢いは弱まることでしょう。」

と,遷都と正治の海西帰還に反対した。

正治は,ここでも渉遊を左遷し,遷都と水奈府帰還を強行する。

治虎は,正治の寵臣 柿木玄修らとともに,遷都・水奈府帰還に賛成した。

遷都反対派からは「佞臣」の謗りを受けた治虎であったが,

「主君の望みをより良く実現し,主君の大業成就に貢献するのが臣たるものの務めである。」

とうそぶいて,意に介さなかった。

玄修とともに正治に信頼され,参議に昇進していた治虎は,
関中帥(かんちゅうのそち)を兼任,西軍への備えを任されることとなった。

遷都に伴い「畿内」は,東に移り,従来,畿内の中央部であった
旧都 広京やその外港とも言える名波を含む地域は,
西軍に対する緩衝地帯として,畿内から分割され,新たに「関中」とされた。