安達政権の迷走

有間渉遊を冷遇した安達政権では,
渉遊に替わって,後各務国や新名氏・姫村氏の台頭を有効に抑えられる人間がいなかった。

今や,一条智成が広奈国から独立した後各務国,
およびその同盟者である新名氏などによる西国侵攻を防いでいた。

一条氏は,後各務国や新名氏との抗争に忙殺されていたが,
安達氏の勢力圏は平穏そのものであった。

治虎は,

「一条氏を後各務国と挟み撃ちにすれば,容易く西国を統一できる。」

と考えたが,清虎の腹心である杉下仁寛(すぎした・じんかん)は,

「一条氏を潰すために後各務国と組めば,最低でも湾陰は,
後各務国に渡すことになります。

後各務国は,相国家(安達家)に匹敵する勢力になるでしょう。

むしろこの機に一条家と和すのが良いでしょう。

一条に恩を売ることができますし,
西国との戦を望んでいない正治公は,より殿を頼りになさることでしょう。」

と説いた。

治虎は,仁寛の言を容れ,安達政権と一条氏の和睦を主導し,成功させた。

政治・軍事に興味を失い始めていた正治は,
柿木玄修や松田泰廉・平岡義綱らの腹心に政権の運営を委ねるようになっていた。

玄修・泰廉・義綱らは,渉遊が閑職へ追いやられた後には,
思うがままに政敵を排斥していった。

宗治の軍師であった早良比良の子である早良明良(さわら・あきら),
渉遊と同じく氷見への遷都に反対した島村能広(しまむら・よしひろ)らが
玄修らの讒言によって失脚した。

玄修らの次の標的になったのが,畿内東部に勢力を持つ名門諸侯 藤真慶政であった。

慶政も渉遊とともに氷見遷都に反対した人物であり,
さらに玄修らを大いに批判して,度々,正治に諫言していた。

玄修は,藤真慶政が謀反を企んでいると正治に訴えた。

正治は,慌てるばかりであったが,玄修に促されて,
慶政に使者を遣わして水奈府に来るように伝えさせる。

慶政は,周囲が止めるのも聞かず,
すぐに水奈府へ出立した。

結局玄修は,証拠を捏造して,慶政を謀反人に仕立て上げ水奈府で殺してしまう。

清正15年(1544),藤真家討伐の兵が興された。

無論,正治は,戦を厭って自らは戦場に出なかった。

藤真討伐の将は,玄修派の飯岡勝重である。

治虎は,畿内の井村兵継(いむら・たかつぐ)と合流し藤真討伐のために出陣した。

しかし,

「次に玄修の標的になって滅ぼされるのは自分かもしれない。」

と藤真領への道中,心中穏やかでなかった。