己丑の変

美城神聖が誕生した頃,入島神聖は,連年,緒土国を攻撃していた。

緒土国は,百二十八世5年(1495),日生国から首都である久礼を奪い,
以後も日生国の版図を侵奪した。

入島神聖は総攬となって以来,緒土国に大規模な反攻を行い,大いに成果を上げた。

百二十九世19年(1528)には,日生国は久礼を除いて,
緒土国に奪われた領土を奪い返していた。

百二十九世20年(1529),いよいよ,入島神聖は,久礼の奪還を目指して親征を開始する。

ところが,初夏4月,入島神聖は,にわかに倒れ,徂落してしまった。

「徂落」とは亡くなるということであり,
日生国においては,神聖や総攬の「死」をそう呼ぶ。

華大陸の古代,聖人の死について史書は「徂落」という言葉を用いている。

これにならった呼び方である。

ところで,帝王の死には,「崩御」という言葉を用いるがまた「徂落」も時に用いられることがある。

さらに,皇太子や大臣には「薨去」,
帝王から遠縁の皇族や身分ある人には「卒去(しゅっきょ)」という言葉を用いるが,
身分によって「死」の呼び方も異なるのである。

さて,入島神聖の「徂落」により,日生軍は,久礼包囲の中断を決定して撤兵する。

神聖家では騒乱が起こった。

聖太子の師を任された後藤信暁ですら,
始めには太子について酷評した。

当時,神聖家の諸臣の間では,太子の器に疑問を持つ者も少なくなかったという。

まして,入島神聖徂落時,太子は数え6歳である。

入島神聖の弟である 蒲生聖君は,
神聖の側近の一人であった伊吹経運(いぶき・つねかず)の協力を得ると,

「聖太子は,いまだ幼く,後見が必要である。」

として,手勢を率いて桜阜を押さえてしまった。

蒲生聖君は当初は,入島神聖の正妃 琴子を利用してうまく太子の後見に納まり,
自身の権力基盤を確立しようとしたが,

琴子は,表向き蒲生聖君に協力する風を装いながら,

「神聖の御位には,徳と知によって即くものです。

干戈を用いて得られるものではありません。

しかし蒲生聖君には,力ずくで神聖位を奪おうとする野心が見えます。」

と,密かに反蒲生派を結集しようとした。

ところが,蒲生聖君は琴子の動きを察知,先手を打って,琴子を捕らえ蟄居させる。

琴子の協力を得られそうもないことを覚った時点で蒲生聖君は,
琴子や入島神聖の子らを支援する動きが拡大するのを恐れ,
太子やその同母妹 嘉子(よしこ)を除こうとした。

琴子は自身の身を囮にして自身が捕らえられる直前,
辛うじて太子と嘉子だけは,後藤信暁に託すことに成功していた。

蒲生聖君は自ら,神聖を称した。

この一連の神聖家の騒乱を,この年の干支から己丑(きちゅう)の変と呼ぶ。