神聖家の混乱

前神聖の妃である琴子は,蒲生聖君の神聖位を認めず,幽閉されたまま,
百三十世7年(1535),帰らぬ人となる。

母の徂落を知った太子は,

「私は,まだ何も孝を成しておらぬ」

と大いに嘆き悲しんだという。

琴子がいなくなったことで,
蒲生聖君の神聖位を否定する中心人物はいなくなった。

ところが,成長した聖太子が今度は,蒲生聖君の神聖位を否定する中心人物になりつつあった。

入島神聖は生前,聖太子を「聖祖の風あり」と評して期待をかけていた。
実際に亡命先の香耶家で太子は,輿望を高めている。

「聖太子殿下こそ,前の神聖陛下の後を承けるべきお方だった。」

という声が神聖家領内でも表れはじめた。

蒲生聖君は,入島神聖の色と聖太子への期待が強い桜阜の地を嫌い,世羅に神聖家の本拠を戻した。

その上,太子に対する輿望の高まりを嫌った蒲生聖君は,太子に数度,刺客を放っている。

しかし,刺客は,火撫党に阻止されて,いずれも目的を達することはできなかった。

蒲生聖君は,元老院中間派や開明派香耶派と友好を築くことができず,
日生国の国政の場で神聖家は孤立することになった。

このことは,神聖家内における蒲生聖君の求心力にも影を落とす。

百三十世8年(1536),蒲生聖君は,伊吹経運を粛清した。

事件は,蒲生聖君が自身の子 統慈(むねちか)聖君を聖太子に立てようとしたことに始まる。

経運は,入島神聖徂落の際,太子が幼かったため太子成人までの間,
蒲生聖君が神聖として神聖家の安泰を図るべきだと考えて,蒲生聖君に力を貸した。

ところが,蒲生聖君は,太子を追放し,その母 琴子を幽閉した。

あまつさえ,今度は,蒲生聖君は自身の子を次代の神聖とするつもりである。

たまりかねた経運は,

「私が内にて挙兵し,聖太子殿下の軍をお迎えいたします。」

としたためた書状を聖太子に奉ろうとした。

内外から蒲生聖君を挟撃するつもりであったのである。

ところが,経運の書状が聖太子に届くことはなかった。

経運から聖太子の元へと遣わされた使者は,蒲生聖君側に捕らえられてしまったのである。

蒲生聖君は,すぐに経運を攻め滅ぼした。

翌百三十世9年(1537),蒲生聖君は,伊吹経運と共謀していたとして,
筒井忠幸という人物を誅殺する。

このとき,蒲生聖君は,忠幸の美貌の妻を側室にした。

神聖家の若い臣 飛良遊暁(ひら・ゆきあき)は,

「忠幸の妻を奪うために忠幸を誅したのではないかと,世に疑われるもとになります。」

と,諌言したが,蒲生聖君は聞き入れなかった。

遊暁は,蒲生聖君に失望し,やがて出奔して太子に仕えるようになる。

百三十世11年(1539),太子が加冠した頃,蒲生聖君は病床の身となった。