新政権は,
議政に浅宮政臣・香耶義治・本間周子が就き,
百二十九世時代がそうだったように,各派の均衡が図られた。
そして,これも百二十九世時代同様,政策を実行する各省により近い参議の地位には,
後藤信暁のような神聖の側近,千楽真季・徳永敦子ら聖君家の人物を配した。
新政権は,百三十世時代に保守派の巻き返しで後退していた改革を,
再度,推し進め始める。
選挙区は,人口に基づいた区割りとなり,また,
任官試験の登用枠も拡大された。
さらに,美城神聖が入島にいた頃に行っていた,
戦災などによる困窮者の保護政策も,百三十一世2年(1541)には,
「広仁法」として法制化され,全土に広げられた。
神聖家と浅宮家の結びつきを強めるため,縁組の話も上がっていた。
中でも后のいない神聖に浅宮政臣の娘を嫁がせようという案は,
美城神聖が即位する前,桜阜に帰還した直後に出てきた。
しかし,この年百三十世11年(1539)は,
浅宮家の領国がある中国地方の東部で瘧(おこり)と呼ばれる病が流行した年である。
議政に浅宮政臣・香耶義治・本間周子が就き,
百二十九世時代がそうだったように,各派の均衡が図られた。
そして,これも百二十九世時代同様,政策を実行する各省により近い参議の地位には,
後藤信暁のような神聖の側近,千楽真季・徳永敦子ら聖君家の人物を配した。
新政権は,百三十世時代に保守派の巻き返しで後退していた改革を,
再度,推し進め始める。
選挙区は,人口に基づいた区割りとなり,また,
任官試験の登用枠も拡大された。
さらに,美城神聖が入島にいた頃に行っていた,
戦災などによる困窮者の保護政策も,百三十一世2年(1541)には,
「広仁法」として法制化され,全土に広げられた。
神聖家と浅宮家の結びつきを強めるため,縁組の話も上がっていた。
中でも后のいない神聖に浅宮政臣の娘を嫁がせようという案は,
美城神聖が即位する前,桜阜に帰還した直後に出てきた。
しかし,この年百三十世11年(1539)は,
浅宮家の領国がある中国地方の東部で瘧(おこり)と呼ばれる病が流行した年である。
現在で言うところのマラリアである。
前近代,常盤南部から中部にかけては,土着のマラリアが存在していた。
政臣は神聖の帰還を後押しするために,領国にいなかったため,罹患を免れたが,
政臣の娘を含め政臣の子らは一斉に,瘧に見まわれ逝去してしまった。
結局,神聖家と浅宮家の縁組は政略結婚ではなく,養子縁組によって行われた。
それも神聖家側の人間が浅宮家に入る形であった。
百三十一世3年(1542),千楽真季の次男,恵季(よしすえ)は,
浅宮政臣の嗣子とされ,高臣と改名している。
さて,当の美城神聖の婚姻問題と後継者問題は,依然として残ったが,
神聖は,自身の婚姻に関してあまり積極的ではなかった。
美城神聖は,即位後,
「二度と神聖位が武力で争われることがないよう,厳然たる制が必要である。」
と神聖位継承権の法制化を指示した。
その結果,神聖との血の繋がりの近さ,
男子優先を基準とした継承順位の制度化が行われる。
聖君家はこの時,神聖と血の繋がりの近い順に,
千楽家・徳永家・姫路家・松本家・岡崎家・広瀬家・桜井家であった。
神聖家には,現在,美城神聖の他に男子がおらず,
そのため,美城神聖の従叔父にあたる千楽真季が継承順第1位,その嫡子 元季が第2位とされ,
続いて神聖の妹 嘉子が第3位,以下,
徳永家の当主 泰久,その弟 宏久,姫路家当主 嘉景と各聖君家の聖君が続く。
美城神聖は,いまだ,亡くなった香耶家の妙子のことを強く想っており,
この頃は,自身の結婚に乗り気でなかったとも言われている。
そのために,神聖位継承順の制度化・厳格化によって,
自身の婚姻問題・後継者問題を曖昧にしてしまおうとしたのではないかと考える者もあった。
自身の婚姻相手の実家が政治的影響力の拡大を図りかねないことを考えて,
慎重を期していたのではないかとする見方もある。
いずれにせよ,神聖に最も血の近い男系男子が5親等も離れた真季であることから,
神聖の婚姻問題・後継者問題は依然としてくすぶり続けた。
