湯朝の崩壊

美城神聖が総攬に就任した年,その側近の一人,七河清良は,

「今年,湯朝に特に大きな凶兆がみられます。

間もなく大人物がなくなり,それを皮切りに湯朝に大事が生じましょう。」

と言っていたが,まさにこの年百三十一世元年(1540),
湯朝の左大臣 山奈頼康が,31歳という若さで薨去する。

神聖は,

「これは,確かに大事の起こる素である。

山奈殿の他に今,湯朝をまとめられる人物が有るであろうか。」

と頼康薨去の影響を懸念した。

百二十九世時代以来,日生国と湯朝は,同盟関係にあり,
互いに後背地の安全を保って,日生国は緒土国と対決し,湯朝は綾朝と対決してきた。

湯朝の全盛期を現出したとも言える山奈広康が薨じた後,
その嫡男 頼康は,広康の事業を引き継いで,
湯朝内の各派閥の統合を維持し,享福王を補佐していた。

ところが,頼康が薨去したことで,美城神聖が懸念した通り,湯朝内の派閥の統合は崩壊し,
権力闘争が激化するようになる。

湯朝で新たに政権を担った小島長友は,かつては,山奈派と連携し,
広康や頼康による綾朝攻撃にも参加し功績を挙げたが,
ここへきて,山奈派を冷遇し,湯朝累代の譜代を重用した。

小島長友は,享福王の14年・日生国の百三十一世4年(1543),綾朝攻撃を敢行するが,
中泊の戦いで大敗を喫して,敗死してしまった。

綾朝は,反攻を開始して川手を奪還し久香崎に進出する。

日生国へは,湯朝からの救援要請が入った。

また湯朝軍は,戦死した小島長友の後任として,
新田明幸が指揮を採ったが,まとまりに欠けた。

湯朝側の久崎安高が綾朝軍の機先を制しようと紗摩川渡河作戦を敢行したが,
綾朝軍に看破されて潰滅,これをきっかけに湯朝軍は総崩れとなる。

湯朝軍にいた天堂兄弟は,いち早く戦場を離脱して,湯朝軍の崩壊に拍車をかけた。

綾朝は久香崎を占領し,湯朝の副都 志賀に殺到,間もなく志賀は開城した。

湯朝の正式な国号は志賀国であり,建国当初は,志賀が都であった。

湯朝は,国号の由来の地を失ったのである。