湯朝の滅亡

百三十一世5年(1544),綾朝は湯朝の都 湯来の包囲に入る。

美城神聖は,既に首都 伯台から国軍を率いて湯朝の救援に向かっていたが,
湯朝の崩壊は余りにも急速であった。

神聖は岐閣で,享福王が綾朝に降伏し湯朝が滅亡したことを聞かされた。

とはいえ,湯朝は一枚岩ではなく,享福王の降伏を良しとしない者も多かった。

その代表が山奈派であり,その実質的な領袖である杉山頼友は,
王族の朝経を新たに国王に奉じて,綾朝への抵抗を継続した。

山奈派を軸とする湯朝残党は,それまでの湯朝と区別して,
特に後湯朝と称されることが多い。

後湯朝は,西端の芳野・大江地方に拠って湯朝再興を目指すとともに,
日生国へ救援を要請する。

日生国では,後湯朝救援の是非を巡って議論が起こったが,

後藤信暁は,

「我軍の救援が無ければ,後湯朝は,早晩,綾朝に呑み込まれ,
芳野・大江には,綾朝の軍が入ります。

我が国の副都とも言える岐閣が,直接,綾朝の脅威にさらされることになります。

建国以来,とめどなく勢力を拡大し続ける綾朝が,
我が国を狙わないとどうして言えるでしょうか。

今,後湯朝を救援して,芳野・大江を確保するならば,
我が国は,地の利を得,綾朝との戦いを有利に進めることができます。」

と主張した。

美城神聖は,

「もっともなことである。

信暁の言うとおり,綾朝は,次は我が国に野心を持つであろう。

後湯朝を見捨てるなら,当面は,我が国に戦火は及ばずに済むかもしれないが,
やがて,もっと大きな脅威がやってくることになる。

日生人(ひなせびと)を守るには,今,戦わねばならない。

しかも,山奈派とは父の代からの縁がある。

義の上からも見捨てることはできない。

見捨てるなら,我が国は諸国からの信を失うであろう。」

として,後湯朝救援を決定した。

父の代からの山奈派との縁――

入島神聖と湯朝の山奈広康が推し進め,成立させた日生・湯朝の同盟以来の縁である。

この縁を生かして美城神聖は,即位時から,山奈派との間の連携を深めていた。

そうした背景から日生国と後湯朝の連携は速やかに成立し,
日生軍は,後湯朝の要請を受けて,芳野湖周辺地域を確保することに成功したのであった。