芳野会戦

百三十一世6年(1545),綾朝は,芳野口,上平口,綾瀬口の三路から日生国へ侵攻を開始し,
緒土国軍もこれに呼応して,入島口・姫島へと水陸から侵攻してきた。

入島口は,香耶義治・秀治父子が陸兵を率い,
浅宮高臣・御月高任(みつき・たかとう)が水軍を率いて緒土国軍に当たり,
綾瀬口では世礼健(せれい・たける)が,綾朝の将となった天堂兄弟と対峙,
上平口では,飛良遊暁・奈瀬能平(なせ・よしひら)が,
綾朝の十和智文・西井和孝・泉晴重ら猛将を迎え撃つ。

神聖自らは,芳野湖の要衝 芳野湊にあって指揮を採った。

神聖は,

「綾朝は,負けん気の強い春成皇子に率いられている。

まず,湖上でこちらに挑んでくるであろう。」

と予測した。

綾朝陣営では,早智伯が総大将である春成皇子に,

「芳野の守りは固く,日生の水軍は強力で,
湖上からの正面突破は難しいでしょう。

湯来朝経の拠る上原を陥すべきでしょう。」

と進言した。

春成皇子はしかし,

「それでは,我が軍が日生軍を恐れていると天下に受け取られる。」

と,神聖の予測通りにあくまでも正面突破を目指した。

芳野湖畔の水戦で,美城神聖は火砲を積んだ船を投入し,綾朝水軍を圧倒する。

神聖は,

「綾朝は,方針を変えるであろう。ここが正念場となる。」

と苦戦を予期した。

春成皇子は,早智伯の進言を採用し上原方面へ軍を派遣する。

日生軍からは,高須義織・沢木基・鷹城章澄(たかぎ・あきずみ)が,
上原の湯朝残党軍に加勢していた。

沢木基・高須義織らは,

「上原は湿地に守られています。綾朝軍を引き込んで戦うべきでしょう。」

と進言した。

ところが湯来朝経は,

「綾朝には,元々我が王国の臣であった者も多い。

そうした者は,私が陣頭に立って打って出れば,少なからず混乱するであろう。」

と,日生軍とともに上原を出て,鳥越という地で綾朝軍を迎え撃つ。

さて,事態は,朝経が考えたようには進まなかった。

綾朝軍内の旧湯朝系の将兵は,陣頭に朝経を見つけてもさしたる動揺は示さなかった。

後湯朝軍・日生軍は,良く戦ったが,次第に綾朝軍に押し返され始める。

日生軍は,危機に陥った朝経を見殺しにすることはできず,
劣勢ながら踏みとどまり戦場から朝経を脱出させた。

しかし,激戦の中,鷹城章澄は壮絶な戦死を遂げる。

また,芳野川から鳥越の日生・後湯朝軍の救援に向かっていた高須義織も
深手を負い,程なく卒去した。

若き勇将 鷹城章澄の戦死,幼少期から自分を支えてくれた義織の卒去を神聖は大いに悼んだ。

鳥越の戦いの後遺症は深く,上原の維持は困難になった。

日生軍・後湯朝軍は,上原を引き払い,
芳野地方に隣接する大江地方へ退く。

大江地方は,芳野の南にあり,芳野湖と山門川と岩座(いわくら)山脈に挟まれた地で,
岩座山脈に沿って北上すれば,芳野の背後に出ることができ,
また岩座山脈の険しい峡谷は,日生国側の岐閣につながる。

日生国にとって失うわけにはいかない要地であった。

日生・後湯朝連合軍は堅守の姿勢を貫き,綾朝軍と山門川を挾んで,長期に対峙する。