日綾連合

百三十一世7年(1546),日生国と綾朝の講和が成立した。

大江・芳野は,湯来朝経を国王とする湯朝の領土とされ,
湯朝は,実質的には,日生国の傘下に入った。

必然的に大江・芳野には,日生国軍が駐屯することとなった。

さらに,美城神聖と綾朝の皇太子派は,日生・綾朝の同盟をも模索し始める。

神聖は,

「いずれ再び綾朝と対決する時がくるであろうが,当面は綾朝と親交を深めて対決を避け,
再対決に備えて我が国の力を高める必要がある。」

と考えていた。

一方で綾朝の皇太子派の狙いは,亜北地方の制圧と内海での勢力拡大であった。

内海での勢力拡大は,実は,綾朝の春成皇子派の悲願でもあったが,
その方向性は異なっていた。

春成皇子は,日生国を呑み込んで,内海へ進出しようと考えていたが,
皇太子は,

「強大な日生国を打倒するのは現実的ではない。

それよりも勢力も弱く,反復常ない緒土国を併合して内海に出る方が現実的である。

そのためには,日生国は味方にしておいたほうが良い。」

と考えていた。

山門川での敗戦により,春成皇子は一時的に勢いを弱めており,
皇太子派の影響力が朝廷で強まっていたこともあり,
結局,講和の翌年である百三十一世8年(1547),
日生国と綾朝の同盟が成立することになる。

日生国と綾朝の間では,緒土国分割の取り決めが成された。

久礼を日生国が,それ以外の緒土国の版図を綾朝が占領するというものである。