悲恋

日生・綾朝の連合が成立した頃,
美城神聖には,后に迎えたいと望む女性が現れていた。

中間派に属する侯爵 北原通正の長女 節子である。

美城神聖には,正后も側室もおらず,
そのために,多くの貴族が,少しでも権勢を得ようと,
自家の娘を神聖家に出仕させていた。

節子もその一人であるが,
節子自身に,神聖の目に止まろうとする積極性は見られず,
実直に職務を果たすのみであった。

その姿が却って美城神聖の目に止まったという。

とはいえ,神聖の正后は,聖君家・玉爵家・公爵家の出でなくてはならないという決まりになっていた。

「側室でも良いのでは」

という周囲に対し,美城神聖は強く,

「節子を正后として迎えたい。」

との意向を示した。

しかし,慣習はどうすることも出来ず,節子は,
浅宮政臣の養女として,百三十一世9年(1548),
神聖の側室として迎えられる。

程なく節子は,美城神聖の子を懐妊した。

しかし,その子がこの世に生を受けることは無かった。

神聖は,生まれ出ることの無かった我が子を悼むとともに,
節子をいたわった。

神聖と節子の夫婦仲は良かったが,
美城神聖率いる開明派と節子の義父 浅宮政臣の対立が,次第に深まってゆく。

神聖家内では,節子との離縁を美城神聖に勧める声が高まったが,
神聖は,離縁を拒んだ。

節子の実父 北原通正は,浅宮政臣率いる中間派に属しており,
政臣に対する遠慮から,神聖と節子の離縁を望むようになっていた。

結局,節子は北原通正に呼び戻され,二度と美城神聖の元へ戻れなくなった。

百三十一世12年(1551),美城神聖と節子は離縁したのである。