旧都奪還戦

百三十一世12年(1551),綾朝との連合が成立し後顧の憂いがなくなった日生国は,
ついに旧都奪還の征旅を興す。

入島神聖が,旧都奪還の遠征中に徂落してから22年,
美城神聖は水陸8万の軍を動員して旧都 久礼の包囲に入った。

綾朝も,これに先立つ建文帝の39年(1549)には,
南氏や重光氏を降して,亜北での仕置を終えており,
日生国の動きに呼応するように,緒土国へと侵攻した。

両大国の侵攻を受けた緒土国は,内海対岸の安達政権に救援を求めた。

安達政権は既に畿内を失い,その勢力に翳りが見え始めていたが,
未だに常盤の最大勢力であって,その軍備も精強さを保ち,
内海でも洋式の火砲を搭載した艦隊を編成して勢威を示していた。

この頃の安達政権は,一条氏が制した西国から急速に興味を失い,
久方ぶりに亜州へ食指を伸ばそうとしていたから,
豊富な資金力にものを言わせて巨費を投じ,海上戦力の増強に励んでいた。

無論,政治・軍事への関心を失くしていた正治は,
柿木玄修ら側近の政策をそのままに実行させていたとも言える。

安達政権は,緒土国からの救援要請を亜州進出への好機ととらえて,
日生国占領を企図した。

美城神聖は,

「こちらは,安達方への備えが充分でない。

安達方が時を置かず桃生辺りへ上陸を狙ってくれば,
こちらは背後を取られる上,対処が後手にまわり,
上陸の目論見を成就させてしまうだろう。

短期決戦は避け,持久戦に持ち込むべきである。」

との見解を示した。

しかし,これは神聖の本心ではなく,安達方の間諜を意識した発言である。

神聖は戦力配置の偽装も行い,また久礼半島近海の島嶼部や沿岸部の防備強化を始めた。

安達方でも,海将 早良明良・姉島重業などは,自身の経験から
段階を踏んで確実に亜州側へ上陸するべきであると主張した。

つまり,まず,日生側の拠点を防衛する水上戦力を打ち破り,
次には,弱体化した拠点を制圧し,その後に,
本格的な上陸・内陸侵攻を進めるべきであるとの主張であった。

しかし,柿木玄修は,早良・姉島らの言を退けた。

玄修の諜報網はことごとくが,
持久戦に持ち込もうとする日生側の情報をもたらすのみであったから,
玄修は,短期決戦に思いを定めてしまっていたのである。