婚姻

百三十一世9年(1548),舟形諸島の藤真家が日生国に臣属し,
当主の慶貞が妹 翔子を人質として差し出してきた。

翔子は,数奇な運命を辿ってきた人である。

翔子の誕生は,日生国の百三十一世2年・広奈国の清正12年(1541)のことであるが,
当時,藤真家は,安達家に従っていた。

そうした関係から翔子は,わずか3歳で安達家に人質に出されることになる。

翔子が人質に出された翌年,藤真家に危機が訪れる。

藤真慶政が安達正治に粛清されたのである。

翔子も連座して処刑されるはずであったが,
すんでのところで有間渉遊が翔子を救った。

渉遊は,主君 正治に幻滅して安達家からの出奔と隠遁を決意し,その前に,
安達家から翔子を逃してくれたのであった。

その後,藤真家では,慶政の子 秀政が当主となり,三城正世と連合して,
安達政権に抵抗するようになる。

しかし三城正世は,安達軍を撃退し,広奈国畿内で栄華を誇りながら,
一条智高の策謀のために暗殺されてしまった。

結果,藤真家も三城家とともに一条家によって滅ぼされ,秀政の弟 慶貞が,
かろうじて舟形諸島で勢力を保つ状態となる。

こうした経緯から藤真家は,安達政権にも,一条家にも属し難い状況となった。

慶貞は思案の末,日生国の傘下に入る道を選び,
妹 翔子を人質として,日生国の都 伯台に送り出すことにしたのであった。

さて美城神聖は,生まれて初めて日生国の土を踏んだ翔子を,
人質というよりは,客人のように丁重に扱った。

翔子は,名門 藤真家の人間として,詩文や書画,舞,管弦,立花や茶の湯など,
様々な教養を身につけていたが,好奇心も旺盛で,当時,日生国で盛んとなっていた洋学に,強く興味をもった。

もとより絵画に秀でていた翔子は,長瀬細芳を師として西洋画の技法をも学び,
その技法を従来の常盤の絵画の技法と織り交ぜて,絵画史に新しい流れを興す。

翔子の師 長瀬細芳はレーヴェスマルクの航海士 ラインハルトの妻であり,
ラインハルトから西洋画を学んだ人であった。

神聖は,翔子の絵にいたく感動したといい,
やがて,翔子自身にも強く惹かれていく。

神聖は,

「徳目・知恵において,我が身にはもったいない程の妻が良い。

為政者であるなら,なおさらそれくらいの伴侶を得る器量がいる。

藤真の姫を妻に迎えたい。」

と語ったといい,

これを受けて翔子は,

「身に余る幸いと光栄です。」

と話したという。

ところで,妹 翔子を伯台に送り出した藤真慶貞は,
始め広奈国での侯爵の格をそのまま認められて,
日生国でも侯爵に列せられたが,百三十一世12年(1551)には,
久礼奪還戦の折の安達水軍との戦いでの功績を賞されるとともに,
安達家への牽制の役割をも期待されて公爵とされていた。

藤真家が公爵となっていたことで,翔子はその出自が問題にされることもなかった。

百三十一世18年(1557),美城神聖は,翔子を正妃に迎える。

美城神聖34歳,翔子17歳の時のことであった。