台頭と没落

姫島沖海戦以来,日生国と安達家の溝は一層深まっていく。

日生国は久礼を奪還して内海での勢力を伸長させ,
日生国の諸侯となった藤真家が,北海航路をおさえた。

安達家は,今や内海での覇権を喪失しかかっていたのである。

当時,安達家では,正治が政治・軍事に興味を失い,文事に没頭するようになり,
代わりに柿木玄修が専権を振るっていた。

しかし玄修は,藤真家の征伐に失敗し,
日生国との戦でも成果を挙げられなかった。

玄修は,求心力維持のために,一層,専横を強めたが,
これは足元の反発を招く。

美城神聖は,これに着目し,火撫党を使って反玄修の動きを扇動した。

その結果,玄修の側近であったはずの山森吉直が,玄修を謀殺して,
相国府を制圧して正治を奉戴してしまったのである。

ところが,山森吉直は,玄修に成り代わることが完全にはできなかった。

玄修の三男である玄尋(つねひろ)が吉直打倒の兵を挙げて,
相国府に入り,正治を奪還する。

正治は,双方の停戦を模索するが,
最終的に寵臣であった玄修を討った吉直の討伐を玄尋に命じる。

とはいえ,吉直も勢力を維持して抵抗を続けたため,
安達家中は内乱状態となってしまった。

日生国の百三十一世13年・広奈国の清正23年(1552)のことである。

この乱は,この年の干支から,清正癸丑の乱と呼ばれる。

一年を費やして玄尋は吉直を討滅したが,乱により安達家の勢力は確実に弱まっていた。

百三十一世14年(1553),南海の諸豪は,安達家から離反し,安達家に属する川上家を脅かす。

柿木玄尋は,川上家を支援し安達水軍を南下させるが,
南海衆は,日生国を頼みとして安達家に抵抗した。

日生国が南海地方を中継地として南洋との交易路を開き,
南海衆に中継貿易に拠る富をもたらしていたのである。

美城神聖の方針は,

「常盤には今,我が国と綾朝,各務国と広奈国の一条家,安達家の五強があるが,
一条の力は翳り,安達を弱めることもできた。

今後,一条・安達は一層衰え,常盤は五強から,三分の形勢へと移るであろう。

綾朝・各務国が一条・安達の勢力を呑み込むのを座して待っていては,
我が国が生き残ることはできない。

我が国が,綾朝・各務国に対抗するためには,
少なくとも安達の本領である海西を確保しなくてはならないであろう。

より理想的には,我が国が古代に築いた全盛期の版図を恢復する必要がある。」

というものであった。