人事

百三十一世12年(1551)に政権から中間派が排除された際,
三議政から浅宮政臣が外され,代わりにその養嗣子で開明派に属する高臣が後任となった。

その後,香耶義治も,家督を秀治に譲り,議政の地位からも退いた。

議政の地位は,これも秀治が引き継いだ。

美城神聖の総攬就任当初からの議政は,平民派の本間周子のみとなる。

ところが,海西経略の際,浅宮高臣が亡くなったことで,
後任の選定が必要になった。

高臣の子 尚臣はまだ幼く,後任とすることはできなかった。

神聖は,百三十一世17年(1556),香耶秀治を太議政に格上げし,
三議政には,本間周子のほか,自身の側近とも言える高須陽視,
海西の有力者である早良晟(さわら・あきら)を入れた。

早良晟とは,海西経略の際,浅宮高臣に致命傷を負わせた,早良明良のことである。

この人事で,海西のみならず,諸国の遺賢も

「日生の総攬は肉親の仇にすら,要職を任せるのか。」

と感嘆し,日生国へ集まるようになっていくのである。

日生国の統治が海西に浸透していく中,
綾朝は,広奈国残党と各務国の連合と対峙していた。

そして,日生国もその争いに巻き込まれていく。

当時,綾朝は,旧広奈国の版図の内,
湾陰・湾陽・背州と日生国の領土となった海西を除く,
首北・首内・湖庭・海陽を占領していた。

百三十一世18年(1557),各務国の藍原将真と一条家の連合軍は,総勢20万の軍を動員して,
背州・湾陽からは首北へ,湾陰からは首内へ,河首からは湖庭へと侵攻した。

綾朝は,日生国に救援を求める。

日生国では議論が起こった。

綾朝を救援しても,綾朝の拡大を助けるばかりで,日生国に利益がないとして,
綾朝救援に反対する声も上がった。

他方で,綾朝を救援しなければ,綾朝との盟約を無視する形になり,
日生国の信用が落ちることになるとして,形だけでも綾朝を救援するべきであるとする声も多かった。

結局,美城神聖は,

「信義は肝要である。また,綾朝に恩を売るのは,我が国にとっても悪い話ではない。」

として,救援を決定した。