協和主義

百三十一世19年(1558),2月,綾朝の建文帝が崩御した。

綾朝は分裂する。

皇太子である輝成皇子と春成皇子による,帝位継承を巡る内乱が勃発したのである。

この年の干支から戊午(ぼご)の乱と呼ばれる。

輝成皇子は,決して凡庸ではなかった。

かつて輝成皇子は対湯朝戦線で,
山奈広康の最後の攻勢により綾朝が存亡の危機に陥る中で,
広康の部将らを撃破し,湯朝軍の進撃を止めている。

さらに,芳野会戦で日生国と綾朝の戦いが泥沼化した際には,情勢打開を実現した。

その後は,亜北経略を成し遂げ,広奈国経略では,海陽征伐を成功させ,
姫村氏を綾朝側に引き入れるなど実力を示している。

対して,春成皇子は,綾朝建国以来最大の宿敵とも言えた湯朝を征伐した功績が,
極めて大きく評価されており,広奈国征伐でも京極氏を降すなど,功を立てた。

建文帝は,曖昧な態度を取り続け,
綾朝内では,太子派と春成皇子派が形成されてしまった。

建文帝の崩御をきっかけに,両派の争いは表面化し,ついに内乱となったのであった。

輝成皇子は,55歳と当時としては既に高齢であり,しかも,その子 弘成皇子は若年であった。

一方,春成皇子は四十代であり,
その子 祥成(ながなり)皇子は,既に成人していてしかも,聡明さを内外に知られた人物であった。

こうした背景から春成皇子派の方が支持を広げていた。

当時,綾朝は,都を首北の氷見に移していたが,
建文帝が崩じると一早く,春成皇子は都を制圧し,
輝成皇子は,危ういところで,都を脱出して須堂の地へ逃げ込んだ。

輝成皇子は,日生国へ救援を要請する。

日生国に対する方針も,輝成皇子と春成皇子では異なっていた。

輝成皇子は,芳野会戦以前から,日生国との対立には慎重であり,
春成皇子は,芳野会戦でもそうであったように対日生国強硬派であった。

美城神聖は,従前から,将来の綾朝分裂による様々な影響を予測して,動いていた。

皇太子派と親交を深めつつ,
日生国の輿論を綾朝皇太子派と結んで春成皇子派と対決する方向へまとめたのである。

日生国は,輝成皇子の救援を決定した。

神聖は,

「常盤は長らく分裂し,地域ごとに人心・風土が大いに異なる。

これを無理に統一することは,常盤の民にとって災いとなるであろう。

人心・風土の近い地域がまとまって二・三の国が拮抗する有り様こそ,

常盤の有り様である。」

と考えていた。

精神風土に開きのある地域の併呑は望まず,他勢力の統一に任せる。

そういう方針を採る国のみが常盤に並存する状態が,
常盤の泰平であるという考えである。

後世,「協和主義」と称される考え方である。

対立する考え方が,「大常盤主義」と呼ばれるものであり,
常盤全土および礼栄諸島に至るまで統一するという考え方であった。

しかし,美城神聖の方針は大きな賭けである。

常盤の国々が全て「協和主義的」であれば,並存は可能であるが,
常盤に一国でも「大常盤主義的」な国があれば,泰平は破綻する。

美城神聖は,自国の実力をどこまでも高め,その実力を背景にして,
「大常盤主義」的な国の企図を粉砕し,
常盤内の他国に「協和主義的」在り方を受け入れさせる道を選んだ。

近代以降の常盤の歴史は,
「協和主義」と「大常盤主義」双方の対立を軸に紡がれていくことになる。