篠原の会戦

陸では,建康帝が出御したことにより,連合軍の士気が高かった。

日生国と建康方は,作戦を充分にすり合わせていた。

一方,太初方では,大事が起こっていた。

太初帝の出陣直前,太初方の最重鎮とも言える早智伯が,急逝したのである。

太初帝は,大いに悼んだが,

「智伯のためにも,この戦は必ず勝利する。」

と一層,決意を固くする。

太初軍は,水奈府街道を南下した。

連合軍は,太初軍の進路を妨げるように篠原という所に布陣する。

右翼に香耶秀治・奈瀬能平・飛良遊暁ら日生軍,
中央に泉晴鷹(いずみ・はるたか)・橘川広規(きっかわ・ひろのり)・有沢秀直
後衛は建康帝・上村晴生(うえむら・はるみ)・二条誠興・安代栄家,
左翼には,司馬康之・川上清紀・本宮利持らの隊があった。

右翼は,常盤最強といってよい日生軍の精鋭中の精鋭であり,
中央も,歴戦の猛将・智将を軸とする建康方の精鋭であった。

これに対し左翼は,外様の諸侯を中心とした編成で,しかも,これまでに太初軍に所領を逐われ,
かろうじて建康帝の元へと落ち延びてきた諸侯らであるから,
その軍勢は残余の兵らであり,疲弊しており弱体であった。

太初軍は,志賀直貴・樋口時経を先手とし,中堅に二条誠村・温岡茂頼,
後衛に太初帝とその側近 鳴海由直がいた。

太初軍は,連合軍の中でも弱い左翼を潰そうと動いた。

左翼を潰せば,連合軍は中央部の側面が空く。

太初帝の狙いは正にそこにあった。

だが,鳴海由直は連合軍左翼への攻撃に反対した。

連合軍の左翼が弱体であるのは,
連合軍側の誘引策ではないかと考えていたためである。

ところが,太初帝は自ら思い定めた通り,連合軍の左翼への攻撃を敢行した。

連合軍左翼は,ひとたまりもなく崩れる。

太初帝の狙い通り,連合軍は中央部と後衛の側面がむき出しになった。

太初軍先手の志賀隊・樋口隊は,方向を転換しながら連合軍中央へ突入を図る。

ところが,連合軍は後衛の内,安代栄家隊を伏勢としていた。

今度は太初軍先手が側面をさらすこととなり,猛将 安代栄家の攻撃を受けて壊滅的打撃を受けた。

同時に,連合軍右翼の日生軍も動いていた。

香耶秀治は,

「我らの動きが仕上げになる。」

と素早く展開して太初軍の後方を塞ぎ始めていた。

連合軍は中央と安代隊が,太初軍中堅を挟み撃ちにする。

鳴海由直は,

「このままでは,当方は完全に包囲されます。

私がここを引き受けますので,帝には,一刻もお早く他所へ移られますように。」

と太初帝に後退を促した。

太初帝は,勇将 手取広房とともに後退し,
かろうじて包囲の外へ出ることに成功したが,大勢は決していた。

太初軍の先手・中堅は連合軍の包囲を受けて殲滅された。

鳴海由直を始め,志賀直貴・樋口時経・二条誠村らが戦死,
温岡茂頼も建康軍に捕らえられた。

連合軍は,太初帝の軍に殺到する。

手取広房は殿軍となって,太初帝を逃したが,壮絶な討死を遂げた。

陸上でも連合軍が太初軍に完勝したのであった。

美城神聖は,

「情勢は一変するであろう。

太初方は,中核となるべき将兵を失った。」

と言ったが,正にその通りであり,
建康方は,太初方に反攻を仕掛けて連戦連勝,破竹の勢いとなった。