安鳥恢復

太初帝は,篠原での大敗,その後の建康方による攻勢など心労が重なり,
病を得て,即位からわずか8か月で身罷った。

太初帝の後は,祥成皇子が即位(平明帝)したが,
建康軍の攻勢に抗いきれなかった。

建康軍は,百三十一世20年・建康2年(1559),平明帝の都 氷見へ迫る。

平明帝の軍は,氷見近郊の八橋(やばせ)に布陣したが,
建康軍に大破される。

平明帝は自害し,綾朝は,建康帝のもとに統一された。

日生国は,綾朝から安鳥諸島の割譲を受ける。

建康帝を支援した見返りである。

美城神聖は,

「千二百年ぶりに,我が国は発祥の地を取り戻した。

しかも,安鳥は南洋との交易の要地である。」

と安鳥恢復を喜んだ。

実際に日生国と南洋諸国との交流は,一層盛んとなり,
日生人による街が南洋諸国の各地に形成されていくようになる。

しかし,それはまた,南洋・東洋での勢力拡大を狙う,
西洋列強との摩擦にもつながっていく。

常盤では,日生国・綾朝・各務国の三国の国力がほぼ拮抗した状態となっていたが,
しかし,各務国は勢力拡大を図っており,
美城神聖の考えるいわゆる「協和主義」の実現には至っていなかった。

太初方が劣勢となって以降,藍原将真は太初方との和睦を破棄し,首北へなだれ込んで
広京を占領,さらに建康帝に属するようになっていた新名氏を攻撃して,
湾陰から追放すると,湖庭や首内への侵攻も再開した。

戊午の乱に勝利した建康帝にとって,藍原将真への対処が最初の懸案事項となった。

日生国は戊午の乱以来,建康帝への助勢を継続して,各務国とも戦った。