小康

百三十一世21年(1560),美城神聖は,建康帝の求めに応じ,
早良晟・沢渡玲らとともに自ら安宿諸島へ入って,
湾陽を窺う姿勢を見せ,また南海衆を動かして各務国の南岸を攻撃させた。

さらに,首内方面でも綾朝のために香耶秀治・御月高任らを派遣して,
新名氏の湾陰への復帰を支援する。

日生国本国の留守は高須陽視が預かり,
神聖の代理として良く国内を保ち,前線への補給も充実させた。

さて,首内方面では日生軍は奇しくも,安達智治と共闘することになった。

安達智治は,戊午の乱に乗じて手勢を率いて首内の春山を太初方から奪取し,
その後,片瀬に勢力を及ぼし,その所領を建康帝に献上して臣下の礼をとったのであった。

智治は,日生国への遺恨を表すことなく,この共闘は順調に進んでいく。

日生国による綾朝救援の結果,藍原将真は,綾朝への侵攻を中断する。

日生・綾朝・各務の三国による会談が,湾陰と首内の境にある瀬崎の地で行われ,
和睦と国境線の画定などについて約定が締結された。

日生国は,それまでの領土である海東と海西,南海諸島・安宿諸島・安鳥諸島に加え,
綾朝から救援の見返りとして,海陽の尾崎地方の割譲を受けた。

各務国は,湖庭地方の勢力圏を放棄し,
新名氏の湾陰東部への復帰を認めることとなったが,
首内の沼原を確保し,さらに首北の西半,広京以西は継続して領有を保った。

綾朝は戊午の乱以前の版図と比べると大きく国境を後退させる事になったが,
藍原将真の進撃を押しとどめて,傘下に入った新名氏を守りきることにも成功,面目を保った。

常盤には,ひとまず安息が訪れたが,美城神聖は,

「この平安は一時のこと。

各務国はもちろん,綾朝もさらなる野心を捨ててはいない。

泰平は遠い。」

と嘆息した。