宮前会戦

百三十一世22年(1561),綾朝建康帝の弟 雅成皇子が,
広京付近まで侵入したのを契機に,均衡が破れた。

この侵入は,各務国の将 朝倉壱任(あさくら・いちとう)の誘引策によるものとも言われるが,
その壱任の軍に雅成皇子は討たれてしまった。

この件により,綾朝と各務国は戦闘状態となる。

建康帝は,弟の仇討ちのために各務国への親征を開始,
朝倉壱任は,藍原将真とともに建康帝の親征軍を向原で大破した。

建康帝は態勢を立て直して,宮前に籠り,氷見からの救援軍を待つとともに,
日生国へも救援を要請した。

美城神聖は,高須陽視に本国の留守を預けると,早良晟・沢渡玲・御月高任ら海将,
香耶秀治・飛良遊暁・奈瀬能平ら陸将を従えて親征を敢行する。

日生軍は,広奈水道から宮前を救援した。

日綾連合,各務国双方が二十万近い軍勢を集めて水陸で対峙する。

長期対陣となり,断続的に宮前近郊の各所で戦闘が起こり,
綾朝は,雅成皇子の遺児 雅望王(まさもち)が戦死,各務国も朝倉壱任を失った。

結局,双方ともに決定的な勝利を得ることができない状況が継続する。

ここに至り,再度,和睦が成立する。

綾朝の国境は,宮前の眼前にまで後退,さらに湖庭も喪失した。新名氏は,湾陰を退去する。

日生国は,各務軍が放棄した北海の綱島を確保する。

広奈水道の東の入り口とも言える場所にある要衝である。

各務国は,河首・湾陰・湾陽・首北・首内の一部・湖庭の大半を領有することになり,その版図は光粛帝の再興以来最大となった。

ところが翌年には,藍原将真が病を得る。

藍原将真は,そのまま桐生で薨去した。

さて,外征でも成功を収め,国内も安定させていた美城神聖であるが,
かねてから後継者問題が,くすぶり続けていた。

神聖には,いまだ子がなく,
最も血縁が近いのが従叔父の千楽真季という状態だったからである。

側室を勧める声も多かったが,
神聖は,

「曽祖父の前例にならい,聖君家より嗣子を迎える。

千楽聖君家の久季(ながすえ)は,聡明で思慮深く,最も相応しい。」

として,百三十一世23年(1562),
ついに千楽真季の三男 久季(ながすえ)を養子として迎えた。

久季は,諱を和慈(かずちか)と改めた。