各務国崩壊

百三十一世25年(1564),各務国から亡き藍原将真の妻子が日生国へ亡命してきた。

藍原将真の薨去後,各務国内では,権力闘争が起こった。

将真の子 泰真は幼く,派内を主導することは不可能であった。

各務国では,新たに菊川由雅という人物が権力を掌握し,
藍原派との抗争に勝利して,藍原派の粛清を始める。

危機に陥った将真の妻子は,亡命を余儀なくされたのであった。

美城神聖は,泰真とその母 恵子(よしこ)を歓迎し,保護した。

後に,泰真は,日生国の要職を歴任することになる。

ところで,神聖は,諸国の情勢収集に熱心であり,
各務国内の政争などについても多くの情報を得ていたが,

「菊川由雅では,藍原将真の真似はできまい。

各務国は,内より崩れるであろうが,それは,我が国にとっても一大事となる。」

と述べた。

事態は神聖の予想通りとなり,各務国は崩壊していく。

各務国では,菊川由雅の専権に反発した結城広成・友成父子が,
湾陽・湾陰で自立した。

菊川派の攻撃を受けた結城父子は,やむを得ず,綾朝に誼を通じる。

百三十一世26年・綾朝の建康8年(1565),綾朝の建康帝は,20万の軍を率いて各務国へ親征した。

菊川由雅は,湾陰の要衝 有帆に籠って綾朝軍の進撃を阻止したが,
綾朝の調略により,有帆の内部では反乱が発生する。

有帆の士気は低下し,菊川由雅は疑心暗鬼に陥った。

ここに至って各務国朝廷は,旧藍原派の緒川誠智の主導によって,綾朝への降伏を決定した。

各務国は滅亡,皇帝は,緒川誠智の尽力により,河首道の小諸侯として存続することとなる。

菊川由雅は,有帆での綾朝への抵抗を咎められて,多くの側近とともに処刑された。

さて,各務国滅亡のこの年,美城神聖と后 翔子の間には,男子 敬慈聖君が誕生した。

美城神聖が千楽家より迎えた養子 和慈聖君は,

「神聖の御位は,神聖の実子が継ぐべきです。」

と,後継者の地位を自ら辞した。

神聖は,和慈聖君に長岡聖君家を立てさせている。