建康帝崩御

綾朝は,各務国を呑み込み,日生国には一大事が近づいていた。

綾朝内部には,依然として親日生派と反日生派が存在していた。

建康帝は,即位時より高齢であったから,
美城神聖は,綾朝の次の世代を見据えて親日生派との連携を深めてきた。

百三十一世27年・綾朝の建康9年(1566),
63歳で建康帝が崩御した。

新たに皇帝となったのは,皇太子 弘成皇子であり,
治世中の元号が光有であったため,光有帝と称される。

光有帝は聡明であったが,病気がちであったから,
建康帝を支えた早智季や泉晴鷹,上村晴生らが政治・軍事を主導した。

そのため,

「当面,日生国との友好を維持する。」

という,建康帝時代からの綾朝の政策は維持された。

とはいえ,神聖は,

「予断を許さない情勢である。」

と考えていた。

綾朝は,常盤全土の統一を諦めたわけではなく,
だからこそ,日生国との友好は「当面」保っておく,
という態度なのである。

仮に日生国に隙があれば,遠慮会釈なく,
綾朝は,矛先を向ける。

また,「当面,日生国との友好を維持」する方針の
光有帝は体が弱く,しかも,後継者となるべき男子がいない。

「仮に,早々に光有帝に万一のことがあれば。」

と美城神聖が考えを巡らせた時,
その脳裏に浮かんだのは,

光有帝の二人の弟 開成(はるなり)皇子と宣成(のぶなり)皇子である。

神聖の側近,高須陽視は,

「宣成皇子が登極すれば,我が国と戦になりましょう。」

と指摘したが,それは神聖の考えと一致した。

宣成皇子は,早い段階での常盤統一を目指していた。

また,神聖は,

「戊午の乱のような情勢となれば,いずれにせよ戦になる。」

とも思った。

つまり,開成皇子と宣成皇子が帝位を争う事態である。

光有帝の治世が継続すれば,綾朝との戦はひとまず遠のく。

けれども,安穏と光有帝の長寿を願ってばかりはいられない。

美城神聖は,綾朝内部の親日生派の影響力増大を目指して工作を行う一方,
さらなる富国強兵に邁進した。