入朝要求

百三十一世29年・綾朝の光有3年(1568),
綾朝の光有帝は重病となった。

この時点で,光有帝には依然として男子がおらず,
後継は,宣成皇子と開成皇子が候補であった。

開成皇子を推す動きが強かったが,その13歳という年齢が問題となった。

宣成皇子は,光有帝の二歳年下で21歳であった。

最終的に,光有帝は,宣成皇子を後継に定める。

光有帝は,一つの懸念を持っていた。

自身が病弱であるためにその治世は,重臣らによって主導されてきたが,
自身の後,若年の開成皇子では,引き続き重臣らの主導が続くこととなり,
皇帝権を弱めることになるのではないか。

そういう懸念である。

宣成皇子は,壮健であり成年に達している。

重臣らの影響力を抑えて,皇帝主導で政治を行うであろう。

光有帝は,そう考えて宣成皇子を自らの後継に選んだのであった。

開成皇子と違い,宣成皇子が光有帝の同母弟であったという事実も,
影響したのではないかとも言われる。

後継者決定からひと月後,光有帝は23歳という若さで崩御した。

新帝は,その元号から大成帝と呼ばれる。

大成帝は,自らの側近を重用し,
建康・光有年間の重臣の影響力排除を目指した。

百三十一世30年・綾朝の大成2年(1569),
早くも大成帝は,日生国へ入朝を要求する。

美城神聖は,

「我が国は,帝王を戴かない国である。皇帝の臣下となるつもりはない。」

として,入朝を拒否するとともに,

「綾朝は,我が国が要求を受け入れるとは思っていないであろう。

にもかかわらず,使者を送ってきてわざわざ,我が国を攻める口実を作った。

綾朝軍の侵攻は,相当に近い。」

と,開戦に備えた。