綾朝再分裂

大勝した日生国であるが、大きな存在を失った。

香耶秀治が治療の甲斐なく薨去したのである。

秀治は、政治軍事双方で要職にあったが、政治では、秀治の左議政の地位を高須陽視が引き継ぎ、
軍事的な諸役職は、瑞城亮が引き継いだ。

この人事は、異例のものであった。

高須陽視は、元々、神聖家の直臣であって諸侯ではなく、
瑞城亮に至っては、元々、他国の臣だった者である。

しかし、この人事は、受け入れられた。

それは、日生国の常識がすでに相当、前時代から変化したことを意味していた。

貴族制は溶解し始めて厳格さを失い、諸侯も政治的影響力を低下させて、
日生国の政府が、諸侯に対して絶対的に優位に立つようになった。

日生国の体制は中央集権的近代国家へ足を踏み入れ始めていたのである。

さて、日生国は、前線の軍備もそのまま維持し、綾朝への警戒を続けていた。

他方、綾朝の大成帝は、日生国への再遠征を目論んでおり、
しかも今度は、親征するつもりであった。

大成帝は、左大臣 東条誠弘を始め穏健派の反対にもかかわらず、
再遠征の準備を進めようとする

そうした中で迎えた、百三十一世30年・綾朝の大成2年(1569),
大成帝の暗殺計画が露見する。

首謀者は大成帝の腹心の一人である大津喬康であった。

綾朝は、皇帝専制を支持する専制派と建康帝・光有帝以来の封建体制を望む封建派に分かれていたが、
専制派も穏健派と急進派に分かれていた。

穏健専制派は封建派と急進専制派の調整役とも言える役割を担っていたが、
大津喬康は、穏健専制派重鎮であった。

大津喬康始め、事件に加わった者、縁者など数百名が処刑されたが、
大成帝は、満足せず、さらなる事件関係者の洗い出しを行わせる。

それは、急進専制派による恣意的なものとなっていく。

大津喬康を中心とした一部の穏健専制派の背後には、封建派がいるとされ、
封建派諸侯へも処罰は広がろうとしていた。

そして、封建派と急進専制派の調整役であった、
穏健専制派は、ごく少数を除いて要職から遠ざけられ影響力を失っていたから、
綾朝の分裂は、避けられない情勢となる。

封建派は、ついに開成皇子を奉戴して、挙兵した。

開成皇子は、即位して建安の元号を建てた。

綾朝を統一し、各務国を制した建康帝の治世を意識した元号である。

建安帝側は、兵力で大成帝の軍に及ばず、劣勢に立たされることが予想されたが、
建安帝の軍師 上村晴生は、建康帝の先例を挙げながら日生国との連携を進言した。

日生国では、奈瀬能平、周藤千広(すどう・ゆきひろ)、
乾薫(いぬい・かおる)、沢木基を始めとして、綾朝の内乱への干渉を反対する声も出た。

「勝った方はいずれ、また我が国を侵すはずであり、

どちらが勝っても、我が国に利益がない。」

といった声である。

一方で、高須陽視や原政人、早良晟を始めとして、

「大成帝と建安帝では、より大成帝の方が、我が国へ野心を見せている。

大成帝はこのままいけば建安帝を制して綾朝を再々統一するはずである。

そうなれば、今度は大成帝は、強固に統一を保った体制で我が国へ侵攻してくることになる。

我が国が綾朝に関わるか否かにかかわらず、いずれ綾朝は統一されるに違いなく、そうであるならば、

より我が国に危険な大成帝の方を除くべきである。」

といった声をあげる者もあった。

神聖は、後者を採用し、日生国は建安帝と連携して、大成帝の打倒を目指すこととなった。