新天地

エリュイーセを案内人にして草野司は、亡命リュイト人の住むクールメーの地へ到達。

クールメーの地では、北部リュイトでイストラ勢力に抵抗を続けるアルタメセル皇帝家の将 セヴィネ・クレガンの知人  ジュシークを乗せ、リュイト大陸へ向けて出航した。

百三十一世36年(1575)、ジュシークの口利きにより、草野司の船団はついに北部リュイトの港 ミュセラセルヴへ無事入港、その後、セヴィネ・クレガンの歓待を受ける。

クレガンの計らいにより、司は、リュイト皇帝 リュセリークに拝謁することができた。

リュセリーク帝は、リュイトと日生国の通商を許可し、ミュセラセルヴに商館を開設させる。

また、リュセリーク帝は、司に、イストラ人に対抗するすべを尋ねた。

司は、

「イストラ人は、銃火器を備え、集団戦法に優れています。

こちらも、戦法と装備を新しくする必要があります。」

と説き、リュセリーク帝に日生産の武器・弾薬を献上し、
さらに部下や技術者を指南役として一時リュイトに残すことにした。

司は、百三十一世37年(1576)、美城へ復命した。

日生・リュイトの通商は、美城神聖の意向もあって盛んになり、日東洋の島々には、日生人の街がいくつも築かれていく。

リュイト国内では、日生人が顧問として招聘され、富国強兵が行われ、
イストラ人に対する「レコンキスタ」が進展してゆく。

また、司の復命から十年の内に、日生国は、日東洋島嶼部の港を拠点として、
リュイト大陸のイストラ人に対抗するようになった。

さて、草野司は、日生国の交易圏のさらなる拡大を目指して、
百三十一世38年(1577)には、またも美城を出航した。

司は今度は、前回とは反対に西廻りに航行し、西南洋諸国を回って、サラスのはるか沖を過ぎ、
テルメ大陸南端、スピネラ大陸、リュイト大陸南岸を経る。

リュイト大陸南岸から日東洋を渡った司は、
ソロ諸島の最南端メラ島まで来た際に南の沖に海岸線を見出してさらに南下、新天地に到達する。

これは、新州(後の南洋大陸)、レイアではノトス大陸と呼ばれる大陸であった。

司は、これを半年をかけて巡り、海図を作成しその地の習俗を記録した後、
百三十一世41年(1580)、二年八か月ぶりに美城へ戻った。

世界周航を達成したのである。

神聖は、

「先年の大功も未曾有のものであったが、今回は、それを上回る大功である。

生涯に、二度も国の礎となる偉業を成したのは、前代未聞の中の前代未聞といえる。」

と賞賛し、爵位を男爵に進めた。男爵以上は貴族の爵位であり、
平民出身者としては異例のことであった。

ところで、南洋大陸には、その後、多くの日生人のみならず、
綾朝からも多くの人が押し寄せ開拓がすすむことになった。