協和万邦

日生国は繁栄を謳歌していた。

美城神聖の総攬就任時から比べて,
人口も版図も4倍に膨れ上がり,
交易圏も日東洋全域,南洋・中洋にまで及んだ。

美城神聖の時代に入って経済は常に上昇基調で,
町人層も豊かになった。

神聖は,洋の東西・国の内外を問わず,
多くの優秀な学者・文化人を招き優遇した。

洋学も従来からの学問も盛んとなり,身分問わず広く門戸を開いた
学問所は拡大し,大学として整備される。

百三十一世36年(1575)には,美城に,同40年(1579)には,伯台・久礼の
学問所が西洋・東洋双方の学問を取り入れた大学としてその歩みが始まった。

さらに,伯台・久礼に大学が設けられた年,
美城には洋式の天文台もおかれている。

ところで,この時代には町人文化も大いに華やいだ。

経済的に町人層が豊かになったことが背景である。

順風満帆であるが,

神聖は,

「私の目指すところは,万邦が協和することである。

未だ万邦が協和するには程遠く,隣国綾朝ですら,
我が国への野心を完全には捨てていない。」

と述べた。

「万邦が協和する。」それは,大陸の古典にある

「百姓昭明,協和万邦」という言葉から来ている。

百姓昭明とは,人々がその徳を明らかにするということであり,
それによって,協和万邦,つまりあらゆる国々が和親して泰平となるということである。

そのために,神聖は,善政を心がけ,学問を盛んにし,
国中の人々が,各々の徳を明らかに出来るように心がけたのであった。

とはいえ,戦乱の世は,理想通りにはいかず,
国内の動乱が収まっても隣国や列強との争いは収まっていなかった。

綾朝の日生国への野心――

実際,綾朝側は,
日生国の代替わりの隙を狙おうと考えていた。

綾朝の建安帝は,即位時13歳でありその時,美城神聖は46歳,
建安帝が壮年を迎える頃,日生国は代替わりを迎えるであろう。

その頃には,建安帝の政権は,充分に統治経験を積んだ成熟した政権となり,
他方,日生国は,統治未経験の新政権となっている。

綾朝側としては,日生国を狙う絶好の機会となり得る。

美城神聖にとって,次代への代替わりを,
いかに混乱なく成し遂げるかが懸案となっていた。