救援

建文7年(1517),湯朝で左大臣 市井真存(いちい・さねなが)が薨去した。

この湯朝の要人の死を契機に,綾朝では,湯朝攻撃論が出てきた。

その急先鋒が,建文帝の叔父にあたる十和忠正であり,
忠正は,

「志賀を攻略すれば,志賀以北の湯朝領は孤立して自然と我が国になびくでありましょう。」

と建文帝に進言して,自ら志賀攻略を買って出た。

早智秋・智伯父子や上村晴世らは,

「先年奪われた真砂湊を攻略するのが先決。」

と言い,皇太子も同じ思いであったが,

建文帝は,忠正の熱気に押されて,忠正に兵を与えて志賀攻略へ向かわせた。

綾朝軍が北へ出ると,その隙を衝いて,北では重光氏が動き,
綾朝に属するようになっていた南家を攻撃した。

亜北では,かつて元光帝がまだ十和宮だった時代に,
早本家と同盟を結んで,後背地を安定させ,名和平原へ進出したのであるが,
このころ早本家は,もはや綾朝の一諸侯となっており,
湯朝との対決の必要性から,川手地方へ転封させられていた。

変わって,綾朝の後背地の防波堤となっていたのは,
南家であった。

南家は,元光帝の皇后である明子の実家であり,
現当主 春和は,明子の甥に当たる。

皇太子は,

「お祖母様のご実家を,お救いしたく思います。」

と南家への救援軍を率いることを望んだ。

建文帝は,今度も太子に早智秋と上村晴世を付けて,
出陣させた。

重光勢は,南家の本拠 山内を攻囲していた。率いるのは猛将 増山康虎であったが,
山内を救援に来た綾朝軍を率いるのが14歳の皇太子であるのを知って侮った。

山内の兵数は500程度であったから,
康虎は,1万7千の自軍の内,5千を三沢への備えとすると,
残りの1万2千を率いて,救援にきた綾朝軍8千を押しつぶしてしまおうと向かってきた。

兵力で優位にある重光勢に対し,綾朝軍は,
皇太子が必死に督戦に務めるも少しずつ後退を始める。

勢いに乗り始めた重光勢は綾朝軍に突進したが,上村晴世が伏勢となっていた。

上村隊は重光勢の側面に突入,重光勢は混乱し,潰走することになった。

増山康虎は血路を開いてかろうじて落ち延びるのが精一杯だった。

南家の危機はひとまず去った。皇太子は勝利したのである。

しかし,湯朝に攻撃を仕掛けた十和忠正は,山奈広康の堅守を崩すことができず,
得るところなく引き上げていた。

明けて建文8年(1518),早智秋による調略が奏効し外城氏が湯朝に背く。

日生国の入島神聖は緒土国を攻撃したが,
今度は山奈広康は,外城氏や天堂氏に牽制されて,
綾朝への攻撃を仕掛けることが出来ない。

そこで綾朝は,日生国に攻められている緒土国の救援に動いた。

とは言え,緒土国を直接救援するのではなく,
日生国本土を窺う形を採った。

里見泰之は,日生国との国境に迫り,
日生国の入島神聖は,綾朝軍迎撃のため緒土国から撤兵した。

日生軍の本隊が日生本土へ帰還したため,
里見泰之も綾朝・日生国境から軍を退いた。

綾朝の拡大は一進一退であった。

この年,皇太子は,正室を迎えている。

早智秋の娘 吉子である。