南北の脅威

綾朝と湯朝は,連年,軍を仕立てて攻撃し合った。

建文9年(1519)には,湯朝では山奈広康が主力を率いて天堂氏征伐に乗り出したが,
これを綾朝側では,真砂湊を湯朝から奪還する好機と見た。

前年の雪辱を果たそうと十和忠正が真砂湊に攻撃を仕掛けたのである。

しかし,忠正は四千もの死者を出しながら,
真砂湊を奪還できず,上村晴世と交替させられる。

上村晴世は,昼夜交替で真砂湊に攻撃を仕掛け,
真砂湊の守備側を眠らせない策に打って出た。

真砂湊の守備兵は,日に日に疲労を募らせ,
ついに上村晴世は真砂湊の奪還を果たす。

とは言え,さらに湯朝側の要衝 久香崎を抜こうとした上村晴世の前に,
天堂征伐を切り上げて戻ってきた山奈広康が立ちはだかる。

綾朝軍は,真砂湊攻撃での疲労もあって,
有効な攻撃を久香崎に仕掛けることができず,
撤兵することになった。

今度は,広康が綾朝を攻撃する番となり,早くも翌建文10年(1520)には,
広康率いる湯朝軍は,綾朝の友谷へ進出してきた。

この時は,綾朝三傑の一人と言われる里見泰之が,
広康の攻撃を凌いで事なきを得た。

ところが,さらに翌年の建文11年(1521)の戦いでは,
綾朝は,後退を余儀なくされる。

久香崎に攻撃を仕掛けた綾朝は,山奈広康の持久の構えを崩せず,
引き上げることになったが,広康は,反攻を仕掛けてきたのであった。

湯朝軍が真砂湊を攻撃すると,
川手から,泉義晴率いる兵2万が真砂を救援する。

この時,早智秋の嫡男で川手の副将であった 早智伯(そう・ともたか)は,

「これは,広康の陽動にちがい有りません。

広康の真の狙いは長岡,友谷かと思われます。

真砂の救援に全力を傾注すれば,友谷への救援がおろそかになりましょう。」

との意見であったが,泉義晴は,

「友谷は充分に堅牢で,数万で攻められても三か月は持ちこたえられよう。

これに対し真砂の守りは弱い。

真砂が落ちれば,川手が危なくなり,川手が抜かれれば長岡や友谷は孤立する。」

として,真砂の救援に全力を注いだ。

結果は,智伯の予測通りとなる。

広康率いる湯朝は,長岡,ついで友谷を攻撃する。

川手からは救援が出せず,より遠い泉から,
里見泰之が長岡・友谷を救援する羽目になった。

泰之は,

「目先しか見えぬ小僧よ。真砂に攻めてきているのは湯朝の主力ではない。

数千も後詰を出せば良い。

長岡に後詰を出せぬ方が,大事になる。

泉からでは,長岡は遠い。それまで長岡の士気が持つか危うい。

長岡・友谷は元々,広康が治めていたところ,
士気が落ちれば,広康を迎え入れる輩が湧いてでる。」

と泉義晴の決定に歯噛みしたという。

果たして湯朝軍は,長岡に殺到,長岡は川手から救援が来ないために,士気が落ち,
広康の調略に乗って,湯朝に降伏する者が相次ぎ,ついに長岡は開城した。

友谷でも,広康の調略が効果を上げ,綾朝から広康へ寝返るものが出る。

友谷も結局,広康に落されてしまった。

泰之は,後退した国境線の防備を固めて引き上げた。

対湯朝の南方戦線はこのような情勢であったが,
皇太子は,建文7年(1517)の南氏救援以来,亜北諸豪を睨む,北方戦線を担っていた。

太子は,
「北の境を安定させておけば,我が国は南方の湯朝に集中できる。」

と認識しており,皇太后の実家である船岡南氏との友好関係を軸に
重光氏を始めとする亜北の敵対勢力による綾朝への侵入を連年,防いできた。