光井の戦い

重光氏は,亜北の統一を目指して,建文十年代の初頭には,
北方の葦原氏や督(かみ)氏を降して勢力を拡大,亜北の最大勢力にのし上がっていた。

船岡南氏も,度々,重光氏の侵攻を受け,その度に綾朝へ救援を求めた。

重光氏当主 義康も,南氏を攻撃すれば,綾朝の救援がやってくることは分かっている。

当然,綾朝が手薄になっている時を狙ってくる。

建文9年(1519)から同11年(1521)まで,
毎年の様に綾朝が湯朝との抗争に明け暮れると,
これは,重光氏にとっても勢力拡大の好機となった。

重光氏の勢力圏は,亜北の西半分と亜北の中部に及んでいたが,
それはちょうど三日月状の版図であり,
その三日月の内側に南家の勢力や綾朝領の十和があった。

重光氏にしてみれば目障り極まりない。

重光義康は,建文9年(1519)には,
1万5千の兵を揃えて南氏に属していた村山氏を攻撃した。

綾朝の救援が南領に入る前に,重光軍は,圧倒的兵力差を背景に村山氏を降し,
さらに,またも南氏の本拠 山内まで進出してきた。

皇太子の軍は,早智秋と山内に急行する。

綾朝・南連合軍と重光軍は,山内近郊の光井で対峙,
連合側は,堅守の姿勢をとると,結局,重光義康は,撤兵していった。

しかし,重光義康は,これで南領への侵攻を諦めたわけではなかった。

情勢は重光氏に有利になり始めていた。

重光氏が南氏と比べて優位に立ち,綾朝が湯朝との抗争に傾注すると,
亜北の諸豪で重光氏に靡くものは次第に増えていく。

建文11年(1521),湯朝の山奈広康へ対処するため,綾朝軍主力が南へ動くと,
重光義康は,諸豪を従えて2万を超えるまでに膨れ上がった軍を率いて,
南氏を攻撃した。

太子は,今回も早智秋とともに南氏救援に出た。

綾朝軍は再び光井で重光軍とぶつかる。

太子は,

「数は重光方が多いが,寄せ集めであり,充分に統制が取れているようには見えない。」

と言えば,

智秋は,

「仰せのとおりです。重光方は近年,力を増して勢いがあるので油断は禁物ですが,
諸豪の寄せ集めには違いありません。

一方で,我が国の軍は,太子のご命令一下に戦う軍であり,
また,南家の軍とも連年,連携をとって戦ってきただけにまとまりがあります。」

と応じた。

結果を見れば,太子の見立て通りであった。

綾朝軍は,指揮系統が一元化されており,また南家の軍との連携もよく取れていたが,
重光軍は,にわかに重光氏の傘下に入った諸豪もおり,指揮系統は整っていなかった。

綾朝・南連合軍が数で劣るにも関わらず,重光方に対して終始,
優位を保って押し切った。

とはいえ,重光方は決定的な敗北を喫したわけではなく,
引き続き綾朝にとっての脅威であった。

湯朝の山奈広康,そして,亜北の重光義康の「両康(りょうこう)」は,
長く,綾朝の悩みの種となる。