第二次光井合戦

建文帝は,元光帝と異なり軍事的才能に恵まれず,
元光帝が十和宮だった時代から,軍事的成功を収めたことはなかった。

建文帝は,むしろ検地や戸口調査,法整備など内治で力を発揮する人物であり,
綾朝は着々と支配基盤を整えていた。

軍事はといえば,もっぱら,元光帝時代からの宿将や一族に任せていたが,
建文帝の皇子らも,いずれも軍事的才能に恵まれ,
長じると外征を任されるようになる。

皇太子がそうであり,第二皇子の春成皇子もそうであった。

建文15年(1525),湯朝で左大臣 山奈広康に対する反乱が発生すると,
綾朝は,先年奪われた長岡・友谷奪還を狙う。

春成皇子は12歳になっていたが,長岡・友谷奪還戦で初陣を迎える。

建文帝は春成皇子に里見泰之をつけ,出陣させた。

春成皇子の軍は見事に長岡・友谷を奪還してみせる。

さて,北方の重光氏は一層勢力を拡大させていた。

建文13年(1523)には,亜北西岸の司馬氏を従属させ,
翌建文14年(1524)には,春田氏を見坂で破ってその所領西半を奪った。

建文15年(1525)に入ると,またも重光氏は南氏の所領へ侵入する。

今度も皇太子は,早智秋とともに,南氏の救援に駆けつけた。

太子が,
「固く守り持久の構えを採るのが良いと思うがどうか。」

と問われると早智秋が,

「それが良いと存じます。重光軍は数は多いですが,
やはりまとまりはありません。こちら側を押し切るだけの力はなく,
数の多さが仇となって,補給にも士気の維持にも苦しみましょう。」

と応じた。

綾朝と南氏の連合軍は,重光軍の山内への南下を遮る形で,
光井に布陣し,堅守の姿勢を貫いた。

対陣一か月,重光義康は,軍を引いた。

しかし以後も南で綾朝が湯朝と争えば,必ず重光氏は南下してくるのであった。