長岡・友谷を奪還した綾朝は,建文17年(1527)には,
またも久香崎へ進出して湯朝本領への侵攻を企図した。
しかし,綾朝軍は,長期の大雨のため増水による被害に見舞われ,
撤退を余儀なくされる。
この時も重光氏は,綾朝領や南領を窺った。
太子より,
「重光方の勢力を殺ぐ方策はないものか。」
と相談を受けた早智秋は,
「重光方を分断しましょう。」
と言って,重光方に調略を始めた。
翌建文18年(1528)秋になると,
日生国が綾朝の盟邦となっていた緒土国を攻撃し,これに合わせて,
湯朝の山奈広康が長岡・友谷の再奪取を目指して北上してきた。
綾朝は里見泰之を長岡の救援に差し向けたが,
すでに広康は厳重に長岡を包囲しており,結局長岡は開城を選択する。
危機的状況かと思われたが,冬に入り病を得た広康は帰国,
隙を衝いて里見泰之がなんとか長岡を取り戻した。
もちろん,長岡で綾朝軍が湯朝と対峙している間に,
重光義康も動き,2万5千を超える重光軍が南家本拠 山内目指して侵入する。
再び,綾朝・南連合軍は,光井で重光軍と対峙したが,
ここで,早智秋の調略が功を奏し始める。
司馬氏が重光方から綾朝方へ転じたのである。
綾朝・南連合軍は,司馬勢と重光軍を挾撃する形となった。
司馬勢の寝返りによって,混乱した重光軍は惨敗を喫した。
総大将の重光義康は流れ弾に当って重傷を負った。
傷の回復は思わしくなく,結局,2年後の建文20年(1530)に亡くなった。
重光氏は義康の嫡男である義廉(よしかど)が継いだが,
諸豪の離反への対処に追われ,しばらく南領への侵入は止むことになる。
綾朝の頭痛の種であった「両康」のうち,
一方の「康」である重光義康の脅威は去ったのであった。
またも久香崎へ進出して湯朝本領への侵攻を企図した。
しかし,綾朝軍は,長期の大雨のため増水による被害に見舞われ,
撤退を余儀なくされる。
この時も重光氏は,綾朝領や南領を窺った。
太子より,
「重光方の勢力を殺ぐ方策はないものか。」
と相談を受けた早智秋は,
「重光方を分断しましょう。」
と言って,重光方に調略を始めた。
翌建文18年(1528)秋になると,
日生国が綾朝の盟邦となっていた緒土国を攻撃し,これに合わせて,
湯朝の山奈広康が長岡・友谷の再奪取を目指して北上してきた。
綾朝は里見泰之を長岡の救援に差し向けたが,
すでに広康は厳重に長岡を包囲しており,結局長岡は開城を選択する。
危機的状況かと思われたが,冬に入り病を得た広康は帰国,
隙を衝いて里見泰之がなんとか長岡を取り戻した。
もちろん,長岡で綾朝軍が湯朝と対峙している間に,
重光義康も動き,2万5千を超える重光軍が南家本拠 山内目指して侵入する。
再び,綾朝・南連合軍は,光井で重光軍と対峙したが,
ここで,早智秋の調略が功を奏し始める。
司馬氏が重光方から綾朝方へ転じたのである。
綾朝・南連合軍は,司馬勢と重光軍を挾撃する形となった。
司馬勢の寝返りによって,混乱した重光軍は惨敗を喫した。
総大将の重光義康は流れ弾に当って重傷を負った。
傷の回復は思わしくなく,結局,2年後の建文20年(1530)に亡くなった。
重光氏は義康の嫡男である義廉(よしかど)が継いだが,
諸豪の離反への対処に追われ,しばらく南領への侵入は止むことになる。
綾朝の頭痛の種であった「両康」のうち,
一方の「康」である重光義康の脅威は去ったのであった。