日生遠征

建文19年(1529),日生国の入島神聖が急に徂落し,
混乱が生じた。

綾朝では,春成皇子が,日生国遠征を建文帝に進言した。

太子は,

「湯朝を併せない限り,我が国は国力の点で日生国に及びません。

先に湯朝を併呑するべきです。

そのためには,日生国は緒土国に任せ,
綾朝は湯朝に当たるのが良いかと思います。

この態勢を守るため,昨年は緒土国を救うため日生遠征を行っただけのこと。

湯朝を併せるまでは,本来は,日生国に対しては守りに徹するべきです。」

と反対した。

春成皇子はこれに反駁した。

「日生国は,元首を亡くして勢いを失いました。
開明派と守旧派で争う形勢も見えます。

今は正に日生国を取る好機。

古より天の与えたものを取らなければ,その咎めを受けると申します。

日生国を併呑してしまえば,湯朝などものの数ではなくなり,
簡単に討つことが出来るようになりましょう。」

早智秋・智伯父子や,上村晴世ら謀臣らは太子同様遠征に反対であったが,
建文帝は長年湯朝との戦いに成果が出ていないこともあって,
打開策としての日生国遠征に飛びついた。

それでも,早智伯は春成皇子の遠征に従って補佐に当たった。

日生国の新総攬 浅宮政臣は,自ら国軍を率いて山奈口へ出張り,
堅守の構えをとった。

綾朝軍は,得るところなく,早智伯を殿軍にして引き上げた。

浅宮政臣が慎重な姿勢を貫いて追撃を出さなかったこともあり,
早智伯は軍を損なうことなく撤兵を完了した。