さて,重光義康の逝去した年,南では湯朝の王 嘉楽王も身罷っていた。
とは言え,山奈広康は健在であり,湯朝の脅威が減じることはなかった。
広康は,綾朝の建文22年・湯朝の享福3年(1532)から,
湯朝中央に対して独立的に振る舞う嶺外の諸侯の征伐を開始,
同年,外城氏を滅ぼしたのを皮切りに,翌々年には,天堂氏をも降してしまった。
この間,綾朝も指を加えて湯朝の勢力拡大を見ていたわけではない。
建文20年(1530)には嘉楽王の逝去に乗じて長岡から湯朝に侵入を試みたし,
同22年(1532)には,広康の外城氏遠征の隙を衝いて,
やはり長岡方面から湯朝を窺った。
しかし,いずれも功を奏すことはなかった。
そして嶺外諸侯を降した広康はもはや後背地に敵を抱えなくなり,
いよいよ綾朝征伐に乗り出してきたのである。
建文25年(1535),山奈広康は8万の湯朝軍を二手に分けて,綾朝領へ侵攻する。
広康の本隊は,川手方面へ,山戸元良率いる別働隊は,友谷方面へ出てきた。
綾朝では建文帝が,早明久・市村時文に兵1万を与え,
川手の泉義晴の救援に向かわせ,
友谷へは,安代栄家・瀬野幸就にこちらも兵1万を与えて救援に向かわせた。
友谷は,元々,里見泰之が預かっていたが,泰之は老齢から体調が思わしくなく,
都での静養を余儀なくされており,代わりに泰之の嫡男 泰友が守っていた。
この時,皇太子は,綾朝東部の要衝である有賀に入って早智秋の補佐を得て,
西部の要衝福成には,春成皇子が入って早智伯の補佐を得て湯朝の北上に備えた。
太子は,
「今までの湯朝軍の北上とは違う。もはや広康には湯朝国内に敵はいない。
背後に敵を抱えることもなく広康は,今や8万もの軍を動かしている。
また,広康は高齢であるが,
それ故にこの戦を自らの最後の出師にして,
事業の仕上げにしようと考えているかのような必勝の構えがある。
これは,我が国にとって,
とは言え,山奈広康は健在であり,湯朝の脅威が減じることはなかった。
広康は,綾朝の建文22年・湯朝の享福3年(1532)から,
湯朝中央に対して独立的に振る舞う嶺外の諸侯の征伐を開始,
同年,外城氏を滅ぼしたのを皮切りに,翌々年には,天堂氏をも降してしまった。
この間,綾朝も指を加えて湯朝の勢力拡大を見ていたわけではない。
建文20年(1530)には嘉楽王の逝去に乗じて長岡から湯朝に侵入を試みたし,
同22年(1532)には,広康の外城氏遠征の隙を衝いて,
やはり長岡方面から湯朝を窺った。
しかし,いずれも功を奏すことはなかった。
そして嶺外諸侯を降した広康はもはや後背地に敵を抱えなくなり,
いよいよ綾朝征伐に乗り出してきたのである。
建文25年(1535),山奈広康は8万の湯朝軍を二手に分けて,綾朝領へ侵攻する。
広康の本隊は,川手方面へ,山戸元良率いる別働隊は,友谷方面へ出てきた。
綾朝では建文帝が,早明久・市村時文に兵1万を与え,
川手の泉義晴の救援に向かわせ,
友谷へは,安代栄家・瀬野幸就にこちらも兵1万を与えて救援に向かわせた。
友谷は,元々,里見泰之が預かっていたが,泰之は老齢から体調が思わしくなく,
都での静養を余儀なくされており,代わりに泰之の嫡男 泰友が守っていた。
この時,皇太子は,綾朝東部の要衝である有賀に入って早智秋の補佐を得て,
西部の要衝福成には,春成皇子が入って早智伯の補佐を得て湯朝の北上に備えた。
太子は,
「今までの湯朝軍の北上とは違う。もはや広康には湯朝国内に敵はいない。
背後に敵を抱えることもなく広康は,今や8万もの軍を動かしている。
また,広康は高齢であるが,
それ故にこの戦を自らの最後の出師にして,
事業の仕上げにしようと考えているかのような必勝の構えがある。
これは,我が国にとって,
かつての安達勢の侵入にも数倍する危機になるのではないか。」
と懸念したが,その懸念は次第に現実のものとなっていく。
広康は,丸山という要衝に要塞を築いて街道を封鎖し真砂と川手の連絡を遮断,
また紗摩川でも湯朝水軍が綾朝水軍を締め出した。
泉義晴は,広康の築いた丸山城を攻略しようと十和忠正に兵を与えて差し向けたが,
結果は散々なものであり,真砂は孤立を余儀なくされた。
真砂の守備隊は夜陰に紛れて真砂を退去するが,湯朝側に行動は読まれており,
川手への撤退の途上,夜襲を受けて,甚大な被害を出すことになっている。
湯朝軍の勢いの前に川手地方の諸豪には,
綾朝から湯朝に鞍替えするものも多く出始めた。
湯朝軍は,次々に川手地方の要衝を攻略し,川手はついに孤立することになる。
川手は十重二十重に包囲された。
この時,広康率いる湯朝軍本隊は8万近くに膨れ上がっていた。
川手を救援しようとやってきた綾朝軍は,
と懸念したが,その懸念は次第に現実のものとなっていく。
広康は,丸山という要衝に要塞を築いて街道を封鎖し真砂と川手の連絡を遮断,
また紗摩川でも湯朝水軍が綾朝水軍を締め出した。
泉義晴は,広康の築いた丸山城を攻略しようと十和忠正に兵を与えて差し向けたが,
結果は散々なものであり,真砂は孤立を余儀なくされた。
真砂の守備隊は夜陰に紛れて真砂を退去するが,湯朝側に行動は読まれており,
川手への撤退の途上,夜襲を受けて,甚大な被害を出すことになっている。
湯朝軍の勢いの前に川手地方の諸豪には,
綾朝から湯朝に鞍替えするものも多く出始めた。
湯朝軍は,次々に川手地方の要衝を攻略し,川手はついに孤立することになる。
川手は十重二十重に包囲された。
この時,広康率いる湯朝軍本隊は8万近くに膨れ上がっていた。
川手を救援しようとやってきた綾朝軍は,
自軍に数倍する湯朝軍を前に為す術がない。
ここに至って川手の将 泉義晴は,広康による開城勧告を受け入れて,
城兵の助命と引き換えに自害する。
湯朝の旗が川手に翻った。
ここに至って川手の将 泉義晴は,広康による開城勧告を受け入れて,
城兵の助命と引き換えに自害する。
湯朝の旗が川手に翻った。