泉の戦い

山奈広康が世を去った後も,広康の子 頼康が湯朝をまとめて,
綾朝の脅威となっていた。

また北の重光氏も綾朝が湯朝に圧迫されている間に態勢を立て直し,
またも勢力を拡大し始める。

重光義康の後を継いでいた義廉(よしかど)は,
建文25年(1536)に再度,司馬氏を降し,同年中には北方遠征を行って,
能瀬氏をも降すに至った。

さらに建文27年(1537)には,久方ぶりに南氏の勢力圏へ食指を伸ばして来たので,
皇太子は,早智秋・上村晴世・安代栄家・川本康彦らとともに救援に赴いた。

ほぼ,一か月に渡って山内近郊で対峙するに至ったが,
両者とも決定打に欠け,和睦となる。

建文28年(1538)に入ると,山奈広康の後を継いだ頼康が,
湯朝軍を率いて泉方面へ進出してきた。

この動きに重光氏も呼応し南領へ侵入したため,
綾朝は,南北より挾撃を受けることとなる。

今回も,皇太子は,早智秋・上村晴世・
安代栄家・川本康彦らと南氏の救援に向かう。

南氏では,当主となっていた一和(いちかず)は,
山内を固守しつつ,春田氏と結ぶとともに能瀬氏に調略をかけて,
重光氏から離反させ,危ういところで重光氏の勢いを止めた。

重光氏は能瀬氏討伐へと反転する。

安代栄家や川本康彦は,

「この機に乗じて,重光氏を討ち,後顧の憂いを断つべきである。」

と言ったが,

早智秋・上村晴世は,

「湯朝が侵入して来ている最中でもあり,
重光氏を追いかけるのは得策ではない。

重光氏が能瀬討伐に向かっている今の間に,
我らは取って返して湯朝の攻撃を受けている南方へ救援に向かうべきであろう。」

とした。

このころ,湯朝軍は,篠井を陥落させることに成功すると,さらに北上し,
綾朝第二の街である 泉を攻撃した。

頼康は,綾朝皇太子の軍が南方戦線にあって名和平原が手薄な内に,
少しでも勢力を拡大しようと企図したのである。

そのような情勢から太子は,

「どちらも一理あるところである。

しかし,この度は,国を挙げて湯朝に当たろうと思う。」

と述べて,湯朝の攻撃を受ける泉へ救援に向かった。

皇太子が泉に接近中であることを知ると,
山奈頼康は,泉攻略の機は去ったと見て引き上げていった。