常盤群島 概観

常盤群島は,アリアの最東端に存在し,
大小一万余の島々からなっている。

首州(しゅしゅう),
亜州(あしゅう),
背州(はいしゅう)
の三島が中核をなす。

常盤群島で最も大きいのは,首州であり,全世界でも面積最大の島である。
「首」の字は,「首席」,「首位」という単語からもわかるとおり,
「第一の」という意味がある。

常盤第一の島であるがゆえに,「首州」,わかりやすい名付けと言える。
常盤において首州についで大きいのが,「亜州」である。
亜州は全世界で見れば,第三位の面積をもっている。
「亜」の字には,「次」という意味がある。首州に次ぐ大きさの島であるから「亜州」,こちらもわかりやすい。

背州は,以上二島に比べるとはるかに小さい。
首州の30分の1程度しかない。
首州から見える,背州の山の稜線が龍の背のようであったから「背州」と呼ぶのだという。

しかし,これにはまた別の説もあって,単に文明の中心であった首州から見て,
背後にあたる場所にあるため「背州」と呼ぶとも言われている。

首州が西にあり,亜州が東にある。
背州は首州の北に存在する。

首州と亜州の間には幅約40km~約300kmの「内海」という海が横たわっている。
首州と背州の間は,「広奈海」という海である。

首州・亜州・背州のほか常盤群島には,
東洋諸島,
北海諸島,
南海諸島,
安鳥(あとり)諸島,
礼栄(れいえい)列島
がある。

ちなみに伝統的に,常盤群島の
北の海を「北海」,
南の海を「南海」
とそのままに呼ぶが,
西の海は「常盤海」と呼ばれ,
東の海は「東洋」と呼ばれる。
東洋は,現代では「大東洋」と称される。


地域区分

常盤群島は慣例的に13の地域に分けられている。
首州は,
西北部の湾陽(わんよう),湾陰(わんいん)。
西南部の河首(かしゅ)。
北部の首北(しゅほく)。
中部の首内(しゅだい)・湖庭(こてい)。
南部の海陽(かいよう)。
東部の海西(かいせい)。

亜州は,
北部の亜北(あぼく)。
中部の亜内(あだい)。
南部の亜南(あなん)。
西部の海東(かいとう)に分けられる。

そして,背州地方がある。

湾陽・湾陰の「湾」とは,有帆(ありほ)湾を指す。
「陽」とは,川や海の北側,山の南側の事をあらわし,
「陰」とは,川や海の南側,山の北側の事をあらわす。

「湾」は海であるから,
有帆湾の北側の地域を「湾陽」と称し,
有帆湾の南側の地域を「湾陰」という。

同様に「海陽」も南海の北側にあることからの名付けである。

「河首」の「河」は,常盤最大の河川 真秀川(まほがわ)であり,
「首」は「はじめ」という意味である。
真秀川の源流があるために「河首」という。

「湖庭」の「湖」は,月形湖という常盤最大の湖の事をさす。
文字通り月形「湖」の「庭」のような地域という意味で,
「湖庭」という呼称ができた。

また,首州の東が海西で,亜州の西が海東と紛らわしいが,
これは,首州の東部が内「海」の「西」にあり,
亜州の西部が内「海」の「東」にあるための呼称である。


地域特性

まずは『常盤物語』の時代でもある,
中世末の常盤群島各地方の概算人口を掲げてみる。

亜北地方
  1,500,000
亜内地方
  2,000,000
亜南地方
  1,900,000
海東地方
  5,000,000
海西地方
  6,100,000
首北地方
  2,900,000
首内地方
  1,700,000
湖庭地方
  1,100,000
海陽地方
  1,400,000
湾陽地方
  1,700,000
湾陰地方
  2,400,000
河首地方
  3,700,000
背州地方
     900,000
東洋諸島
     600,000
北海諸島
     100,000
南海諸島
  1,700,000
礼栄列島
     200,000
全土合計
34,900,000


続いて,中世末の各地方の産業について。
常盤群島沿海は,漁場として恵まれており,沿岸各地では,漁業が盛んであった。

海陽地方南部では,かつお,
海陽地方北部や海西地方南部では,あわび,

亜北地方,北海諸島などでは,さけ,こんぶ,
湾陰・湾陽や河首西岸では,いわし,

また,内海両岸のさば,
亜南地方のたい,
などが有名であった。


常盤では手工業も盛んであった。

絹織物では,
海西の都市 青綾(せいりょう)や
海東の久礼(くれ),桜阜(おうぶ),
湾陰の府内などが特に有名で,

首北や首内地方も発展していた。

綿織物では,
首北地方や,海東の上湊(かみみなと)が栄えていた。

漆器は,
亜州では,名和,
海東地方
首州では,
海陽や首内地方が特に有名であった。

陶磁器では,
日生国が全時代を通して大陸との私貿易を
盛んに行なっていたため,

同国の本拠,海東地方は,
陶磁器の生産について
高い技術を早くから獲得していた。

金属加工では,
刀剣や鋳物に目を見張るものがあり,

刀剣製造は,
海西の睦月,砂姫(すなひめ)
海東の岐閣(きかく)
首北の国府,
湾陰の矢口,
など,鉄の産地に近い場所で,特に発達した。

鋳物は,
亜州では,海東地方緖土国の熊浜(くまはま)物が有名で,
首州では,河首や湾陰で盛んであった。

酒造業では,
海東地方日生国の姫島,
海西の甘港(あまみなと),
湾陽の桐生,
河首の遊井(ゆい)などが発展していた。

製油業は,
海東・海西,首北などで,盛んであったが,
優れたごま油の産地として,海陽地方も有名であった。


時代区分

常盤群島は,諸勢力が分立抗争した時代が長い。
そのため,各地域の文明や社会の発達段階に隔たりがある。

首州・背州および,海東,

これらの地域では,歴史学上の通説では,
10世紀のはじめまでを「古代」にふくめ,

(※3世紀はじめから10世紀のはじめまでを特に,
「中古」と分ける場合もある。)

10世紀のはじめから16世紀なかごろまでを「中世」
と称する。


その後について,
海西・海東を除いた常盤群島全域に関しては,
16世紀なかごろから19世紀はじめまでを「近世」とし,
19世紀はじめから19世紀後半までを「近代」,
以降を「現代」とする。

海西・海東については,「中世」の後は,
18世紀半ばまでを「近世」とし,以降,19世紀の後半までを「近代」,
その後を「現代」とする。

海東地方を除く亜州に関しては,
「古代」の終わりが遅く,13世紀ころとされる。

さらに,礼栄列島では,
15世紀ころまでを「古代」とする。


古代の常盤

常盤群島への人類の流入は,
およそ10万ないし5万年前ころであったと推定されている。
その後,2万年前ころには首州で土器を持つ文化が出現し,
その伝播が見られた。

紀元前10世紀ころになると,
大陸から稲作文化が伝来して,
各地で集落の形成が進んでいく。

やがて,紀元前3世紀ごろには,
北海から内海両岸・首内地方など各地に集落国家の連合による王権が成立した。

各王権同士は,互いに抗争状態となったが,
まず,首北地方の諏訪王権が強大化した。

前2世紀中ごろには,諏訪王権が河首と湾陰の一部を除いた,
首州の大半を影響下におく。

これにより,湖庭地方や海陽地方で,諏訪王権に対抗していた集団は,
南海諸島に逃れていった。

さらに前2世紀末には,諏訪王権は,大規模な東征を行い,
亜州の海東・亜内・亜南内陸部に勢力を及ぼすに至る。

ところが,諏訪王権は,七瀬王が崩じた後,王権が弱体化,
亜州征伐で大功を立てた不二が実権を握った。

やがて不二は,王朝内の反対派を制圧,
後11年には,ついに諏訪国より禅譲を受け,王位に就く。

不二は国号を「瑞穂」とし,大陸に倣って「皇帝」の号を称した。

瑞穂は,その後,河首地方や亜南南岸地方,
亜北地方へと勢力を拡大してゆき,

常盤群島の大半を勢力圏とすることに成功した。

その上,瑞穂は,諏訪王権とは異なって,安定した政権でもあり,
24代416年もの間,継続するのである。


中世の常盤

さて,諏訪王権に首州を逐われ,南海諸島に移り住んだ人々は,
南海諸島各地で,クニを建てた。
そのうち,安鳥(あとり)諸島のヒナセ政権は,
前1世紀中ごろには早くも安鳥全域を制する。

ヒナセ政権はその後,
ほぼ一世紀を費やして,南海諸島全域にその勢力を及ぼすようになった。

さらに,3世紀末,首州・亜州を支配する瑞穂が弱体化すると,
海陽・亜南・海西・海東などに進出して勢力を扶植し,
一大勢力となっていく。


やがて4世紀初頭の瑞穂の衰退をきっかけに,
首州では各地の有力豪族が自立するようになる。

瑞穂帝室の傍流は,亜州の長門半島を本拠として帝室の再興を期する。
これを俗に「長門政権」または,「長門国」と呼ぶ。

しかし長門政権は,ついに首州を回復することはできず,
足下の亜州内でも徐々に有力豪族の独立をゆるし,
8世紀には滅亡した。

首州では,4世紀には,
来海(くるみ)国が出て,首州全域を制圧,
さらに,大陸の制度を取り入れて,律令体制を整備していく。

来海国は,清峰州など,海外にも影響力を及ぼし,
また,常盤全土の統一を目指して
たびたび長門政権をも攻撃したが,
亜州への進出を果たすことができないまま,
長門政権よりも早く,7世紀には滅んでしまった。


首州の覇者は,
来海国の後には,
須藤国になる。

須藤国の下では,律令体制は緩やかに,
しかしながら大きく変化してゆき,
貴族制の時代を迎える。

10世紀に須藤国にかわって首州を統一した生原(きはら)国,
12世紀にその生原国にとって変わった各務(かがみ)国はともに,
封建的分権社会を基盤とする国家であった。

他方,亜州では,
長門政権の崩壊後には,統一勢力が現れず,
諸国分立が続く。

亜内地方には,
志賀国が興り10世紀まで続く。
志賀国にとってかわったのは,
川内(せんだい)国で,これは,13世紀まで続いた。

亜南地方には,トヨハラ政権が興ったが,
これは,ヒナセ政権の一部が建てた国である。
トヨハラ政権は,本国であるヒナセと激しく抗争したが,
そのために勢力を弱め,5世紀末には滅亡した。

トヨハラの故地は,6世紀の始めころ浜名国が制したが,
この国は,元々,ヒナセと組んでトヨハラを攻撃した国であり,
トヨハラの滅亡後,ヒナセとともに志賀国に対抗するようになる。


南海を発祥とするヒナセは,瑞穂衰退以降,
海東・海西・南海にまたがる海洋帝国に成長した。

ところが,5世紀に入るとヒナセは3つの勢力に分裂する。
南海の「ナナセ」,
海東の「ヒナセ」,
亜南の「トヨハラ」がそれである。

ナナセは,内紛により最も早く5世紀の内に滅び,
トヨハラは前述のごとく,
ヒナセと浜名両勢力の挾撃に遭ってこれも滅んだ。

これにより,三つのヒナセは,一つのヒナセとなったが,
かつての一大海洋帝国の面影はもはやなく,
ヒナセの版図は,海東地方のみに縮小した。

トヨハラの旧版図には浜名国があり,
ナナセの旧版図には,
ヒナセに従わない諸豪族が分立していたのである。

ヒナセは,かつて諏訪,瑞穂という強大な「帝王」に苦しめられた経緯から,
「帝王アレルギー」とでも言うべき性格をもつようになっており,
有力者の選挙によって首長を決定する仕組みを選んでいた。

この首長はやがて,「総攬(そうらん)」と呼ばれるようになり,
クニの名である「ヒナセ」にも「日生」という文字を宛てるようになる。

さらに,大陸の文物を重視する風潮が盛んになった5世紀ころには,
「日生」という国号を音読みで「にっしょう」と読むようになった。

日生国は,首州・亜州で数多の国が興亡するのを尻目に,
連綿と存続し続けていく。


実は,今ひとつ連綿と存続し続けていく存在があった。

瑞穂帝室の血脈である。
古代瑞穂王朝が消滅した後も,
帝室の末裔は各地で,地域の有力者として遺り続けていた。

そして,唯一,瑞穂帝室の男系の末裔だけが
「皇帝」
の号を称することが認められていた。

国家の長を「皇帝」を称し,
自国を「帝国」と称するのは,
瑞穂帝室の男系の子孫によって建てられた国である。

無論,中には明らかな詐称も存在しており,
また,詐称とは断定できないまでも,
古代瑞穂とは関係性が詳らかでない国もあった。


中世の変質

海東をのぞく亜州では,13世紀に入ってようやく封建的分権社会へ移行した。
各地を統治する勢力も,社会の変質とともに交替する。

亜南・亜内を統治していた川内国が滅亡し,
亜南は,後志賀国,
亜内は,名和国がそれぞれ統一した。

海東は依然として,日生国の強い地域であったが,
日生国の直接統治を受けない海東北部は,
12世紀の終わりころに興った緖土国が制した。

後志賀国,
名和国,
日生国,
緖土国は,
亜州の覇権をめぐって,相互に抗争する状態であった。

他方,首州の統一勢力は,14世紀末,
各務国から広奈国へと交替する。

広奈国の初代皇帝 始元帝は,
分裂状態の亜州を征服すべく,親征を行うが,

亜州諸国は,強大な広奈国の軍事力を前にすると,結束を固めた。

ここに至って,広奈軍は惨敗を喫し,
広奈国と亜州諸国の間は,均衡状態となる。


気候

亜北地方,北海諸島,南海諸島,礼栄列島を除いた
常盤群島の大部分は,温暖湿潤気候に属する。

春夏には,東洋から南東の風が吹く。

南の海上を行く風は,温度が高く,蒸発した海水をふくんで湿り気も帯びている。
この風は,晩春から初夏にかけて,北海方面の冷たい風と闘う。

それは,まさに前線であり,冷やされた湿った風は,雨を降らせる。
梅雨である。

やがて北海の風が,北へ引き上げると,梅雨も明けようやく夏である。
そして東洋の海水をたっぷり含んでやってくる風に支配される常盤の夏は,
湿度が高い。

そして,秋,一旦引き上げた北海の風が,帰還してくる。
また,東洋の風と北海の風のぶつかり合いとなる。

このぶつかり合いは,秋雨を呼ぶ。
南海から台風の到来するころであり,豪雨になることもある。

さて,冬。
風は,北東,大陸側から吹いてくる。
本来,陸側から吹く風は,水分を含む要素も少ないので乾燥しているが,
大陸と常盤群島の間には,常盤海がある。

大陸の乾いた風は,
常盤海でたっぷり水分を補給して常盤群島にやってくるのだ。
気温の低い時節でもある。雨ではなく雪になる。
河首地方沿岸部や湾陰・湾陽は豪雪となる。


その一方で,亜北地方や北海諸島は,冷帯湿潤気候に属し,
南海諸島や礼栄列島北部は亜熱帯気候,
南部には熱帯雨林気候も見られる。


常盤群島は,「水」にとにかく恵まれた地であり,
気候の多様性も相まって,生命の宝庫となっている。


言語

常盤群島では,常盤語以外の言語に出会うことは極めて難しい。

しかし,常盤群島が極めて広大であるため,
方言が多種多様に存在する。

大まかな分類によれば,
首州では,
両湾方言(湾陰・湾陽),
王朝言語(首北・首内西部),
海西言語(海西・首内東部),
海陽方言(湖庭・海陽),
河首方言(河首・湾陰の一部)
がみられ,

亜州では,
亜北方言(亜北),
東洋方言(亜州東岸),
亜内方言(亜内),
亜南方言(亜南),
緖土方言(海東北部),
古日言語(海東),
がみられる。

また,常盤語以外の話者が全く存在しないわけではなく,
東洋諸島の一部や亜北の一部において,ユグダ語を話す地域がある。

ユグダの人々は,
古代には,北海諸島,首北,背州,亜州全域に広く居住していたというが,

常盤人による諏訪王権や,瑞穂王権によって,
北方や極東へ逐われたと考えられている。


広奈国歴代皇帝一覧

皇帝

読み生没年
在位期間
出自
1
始元帝詮恒あきつね1213-12811261-1281 
2光和帝詮広あきひろ1234-12871281-1287始元帝の長皇子
3至聖帝詮永あきなが1253-13151287-1315光和帝の長皇子
4隆昌帝
詮望あきもち1272-13241315-1324至聖帝の第二皇子
5平康帝芳長よしなが1288-13481324-1348隆昌帝の甥。
実父は至聖帝の
第三皇子 詮芳
6顕禄帝詮敬あきたか1306-13621348-1362平康帝の長皇子
7康寧帝如由ゆきよし1338-13751362-1375至聖帝の
第四皇子 詮如の曾孫
8天祥帝頼久よりひさ1345-14121375-1412始元帝の
第四皇子 詮頼の曾孫
9順正帝詮敏あきとし1390-14451412-1445天祥帝の第二皇子
10宣昭帝詮誠あきまさ1412-14551445-1455
順正帝の長皇子
11興徳帝詮高あきたか1430-14831455-1483宣昭帝の長皇子
12天啓帝詮宗あきむね1444-15091486-1509
※践祚1483
興徳帝の長皇子
13嘉徳帝詮尋あきひろ1459-15211509-1521天啓帝の従弟。
実父は宣昭帝の
第二皇子 詮幹
14章仁帝詮晴あきはる1466-15281521-1528嘉徳帝の弟
15
清正帝詮貴あきたか1524-15541528-1554章仁帝の第五皇子。
安達宗治の外孫
16乾徳帝詮美あきよし1540-16181554-1555清正帝の長皇子


日生国 貴族共和制

合議政体を採る日生国では,元老院こそが最高機関である。

元老院は,全国の選挙区から選出された数百名の議員によって構成される。

しかし,その内容は無論,現在の議会制民主主義のあり方とは,
相当にかけ離れたものと言える。

日生国をつくったヒナセの民は,
諏訪国や古代瑞穂国の猛烈な圧迫を度々経験し,
「帝王」の支配に強烈な拒否反応を持っていた。

そのため,南海での建国以降も君主制を採らず,
有力者の合議で国の長を選んでいた。

この合議機関が元老院へつながる。

元々は,長老衆と呼ばれていた。

長老衆の権威の高まりとともに,
長老の呼称が,より敬意をこめた元老の呼称へと変じた。

元老院制度の誕生からしばらくすると,
代々,議員を輩出する家は次第に固定化していき,
やがてそれらの家が,貴族化の道をたどっていくようになる。

結局,中世には,貴族が元老院議員の7割を占めるという状況が誕生していた。
残りの3割も豪商や豪農,知識人階級などであった。

このような日生国の当時の体制は,
特に「貴族共和制」と呼ばれる。

中世以降,貴族の家柄は,
厳格に格付けされるようになった。

中世後半には,国家元首たる「総攬」を輩出できる家も,
限定されるようになる。

「神聖」という格付けを超越した地位を保つ聖家(せいけ)の他,
格付け最上位の「玉爵」である,
成瀬家・浅宮家・有馬家・乙矢(おとや)家・高陽(かや)家・八神家ら七家が,それである。

七家の当主が決められた順番に従って総攬に就任するという順送りの仕組みまで確立された。

議員の互選により公正に総攬を選出するという古代の原則は,
中世の日生国では全く形式上のものとなっていた。

日生国は,首州の歴代王朝に対抗するため,
「総攬」を「皇帝」と同格に据えた。

この「皇帝」と同格の「総攬」という認識は,
中世初頭に日生国が常盤世界最古の現存国家となって権威を増大させる中,
常盤世界全体で自然と共有されるようになっていく。


日生国 神聖

日生国には,「神聖」という地位が存在する。

神聖は,聖家の男系男子および男系女子のみが世襲する地位である。

聖家は,
日生国建国の祖 明彦を初代とする。

明彦は,神話では天地開闢の神々の子孫で、
祖先神の神通力と守護を得て建国したとされている。

神々の末裔とされる神聖家は,
代々,国の祭祀を引き受けた。

その後,古代日生国の全盛期を現出し,広大な海洋帝国を築いたのが,
やはり,聖家から出た総攬 丸姫(まりひめ)であった。

建国の総攬と全盛期の総攬を輩出した聖家は,
丸姫以降,一層,特別な存在となる。

加えて,古代末期に
浜名国と組んで宿敵であるトヨハラ政権を打倒,
千年の都となる久礼を築いたのが,

こちらも聖家出身の総攬 美慈(よしちか)であった。

ここに至って,元老院は,
日生国の歴史に不朽の業績を遺したとして三総攬を讃え,

あわせて三総攬を生み出した聖家に,
「神聖」の位と「聖家」(せいけ)の称号を謹んで献呈したのである。

「聖家」には「神聖の家」という意味がある。

正確には,聖家はこれをもって「聖家」を名乗り始めたのであった。

それ以前に聖家がどのように名乗っていたのかは,
既に忘却されて定かではない。

こうして日生国は,
神聖を頂点とする世界観と
総攬を頂点とする世界観とが重なりあう社会となる。

神聖の地位それ自体は,象徴的な地位であり,
日生国全体に対しては,
民主的な立憲君主に見られるような特徴を持っている。

いわゆる「君臨すれども統治せず」である。

しかし,
神聖家自体は,広大な所領を有しているのであり,
そこでは無論,神聖は「君臨し統治する」存在である。

神聖はつまり祭祀のみを担う存在ではなく,
世俗的権力・影響力をも有する存在である。

また,神聖が総攬を兼ねる場合,
日生国全体に対しても神聖は「君臨し統治する」存在になる。

ところで,爵位が元老院から「与えられる」ものであるのに対して,
「神聖」は元老院が「謹んで奉った」ものに他ならない。

「元老院」を上回る存在が日生国に誕生した瞬間であった。

聖家は,「君主を戴かない日生国」にあって,実質的には「君主」であり,
その家柄の古さ,確かさと実力とによって,
常盤世界において「皇帝」に比肩する権威となっていく。

また,15世紀末以降に来航する西洋諸国では,「神聖」の称号の起こりが,
古代イリオン帝国の「尊厳者」の称号の起こりと酷似していることから,「神聖」の語を
「アウグストゥスもしくはセバストス」と訳した。

「尊厳者」の意である。

しかし,「尊厳者」と訳しながら,西洋諸国では,
また「神聖」を,「教皇」のような存在と認識した。

そして,総攬を「諸王の王」として
「皇帝」として扱っている。

西方教会世界の視点では,総攬に就任した神聖は,
東イリオン帝国の「皇帝」に似た世俗的にも宗教的にも最高峰の権力を有する存在と認識されたようである。


日生国 貴族の性格と爵位

中世日生国では,貴族封建制が全盛期であった。

とはいえ,各務国末期から広奈国初期にかけて,
首州の遠征軍と長期に渡る抗争を戦い抜いた結果,
日生国の「貴族」は統合が進み,また多分に「武家化」していた。

「尚文(文事を尊ぶ風潮)」から「尚武(武事を尊ぶ風潮)」へ――

これがやがて再び太平の世となって,「文武両道」へと移ってゆき,
万能の才に憧れる風潮が出てくる。

さて,日生国の貴族共和制の中核を担った貴族各家は,
厳密な格付けに基づく爵位を保有した。

爵位は,上から順に

玉爵
公爵
侯爵
伯爵
子爵
男爵
名爵
夫爵
士爵

の九等爵である。

「公」の上が,「王」ではなく「玉」であるのは,
日生国がもつ「帝王」への拒否反応が関係しているのではないかと,
信じる向きもある。

しかし本当に「帝王」への拒否反応が
「玉爵」の名称に影響しているかどうかについては,
定かではない。

名爵以下は,貴族でなくとも,
国家に貢献した庶民にも与えられた。


日生国 女子国の異称について

女性総攬である丸姫の代に,
古代日生国が全盛期を現出したことからも見て取れるように,
日生国では,女性も政治的な要職に就くことが可能であった。

日生国を築いたヒナセの民は,母系社会であったとされるが,その後,父系社会に移行しながらも,
「元老院」「反帝王」と並ぶ伝統として,
女性の地位は、守られた。

こうした特徴から日生国は、
他の常盤諸国、また華国から「女子国」の異称を冠せられる。


神々とその末裔

瑞穂と日生は、神話を共有している。

神々が生まれ、世界が生まれ……
やがて神々の末裔が国をひらいた。

諏訪国の七瀬は、神の末裔であり、
首州と亜州を統一した。

瑞穂の不二もやはり、神々の末裔で、
祖先神の神通力と守護を得て七瀬の子から譲りを受けて皇帝となった。

日生の明彦は、こちらも神の子孫で、
やはり、祖先神の神通力と守護によって
南海に建国する。

日生の国の長は、世襲ではないが、
国の祭祀は、明彦の末裔が代々、執り行うこととなっている。

また、明彦の末裔は時に国の長にも選ばれた。

明彦の家は、優れた元首を何人も輩出してついに元老院から「神聖」の地位を奉られるに至った。