順正帝(じゅんせいてい)は,広奈国第9代皇帝(在位1412-1445)。
諱は,詮敏(あきとし)。
父は,第8代皇帝 天祥帝(てんしょうてい),
母は,その側室 経子(つねこ)である。
早世した,前太子 詮宣(あきのぶ:景徳太子)の異母弟にあたる。
「順正」は,治世時代の元号。
広奈国では,一世一元の制を採っているため,
治世期間と元号が対応している。
そのため,広奈国の皇帝は,元号を冠して呼ばれる。
広奈国には,苦い記憶があった。
初代皇帝 始元(しげん)帝(位1261-1281)が,亜州遠征に失敗し,
その身すらも危うくしたという記憶である。
そのため,歴代皇帝は内治を重視し外征には消極的になってしまった。
八代 天祥(てんしょう)帝(位1375-1412)もまた,同様であった。
けれども,天祥帝の太子 詮敏(あきとし)は,
父帝の消極姿勢に不満をもっている様子を見せる。
一方で,天祥帝にとってこの太子は,憂いの元であった。
臣下たちは,太子の聡明さに期待を寄せているようであったが,
天祥帝には,太子が本物の聡明さを備えているようには思えない。
太子が,己を過信し,己を恃み,それゆえに傲慢に振舞っているように見えた。
帝は
「この国は,この太子によって滅ぶのではないか」
と,こぼすことすらあった。
ともかくも,
太子時代の 詮敏は,
非常に学問に熱心であったという。
結局,亜州の征伐を唱える詮敏の意が通ることはなく,
やがて天祥帝は崩じた。
即位した順正帝は,国政の方針を一挙に積極策へと転じ,
亜州の征服を目指すようになった。
亜州を征服して,常盤を統一することは,
明帝とうたわれた天祥帝ですらなし得なかった大事業である。
亜州への渡海遠征を行う場合,出撃拠点となるのは海西地方である。
そのため順正帝はただちに,
海西地方へ至る主要な街道・運河の整備を大々的に進めた。
大軍と補給物資を円滑に海西地方へ移送するための環境整備である。
これらの土木事業には,
9年もの歳月と莫大な資金,
そして何より多大な労力が費やされた。
当然,民力の疲弊もそれなりのものとなっていた。
それでもまだ当時の広奈国には,余力があった。
ゆえに順正帝は,
「真の意味で民を救おうと思えば,
海内を統一して泰平の世をつくりだすのが最もよい。
そのために必要な艱難辛苦ならば,
民は甘んじて受け入れるべきであろう。」
などと述べてはばからなかったという。
民間には不満の声も上がっていたが,
広奈国の順正10年(1421),順正帝は,
間髪入れずに亜州への遠征へと突き進んでいくのであった。
亜州討伐にあたり,順正帝は,海西地方の水奈府(みなふ)に行宮を設けた。
広奈軍の総指揮をとるのは,
帝室に連なる名門諸侯 上原詮真(うえはら・あきざね)である。
上原詮真率いる広奈軍の目標は,長門半島の久礼(くれ)。
日生国の都である。
久礼を孤立させるため,まず,広奈軍は,長門半島の諸都市を攻め落とした。
ところが,当の久礼は,広奈軍を寄せ付けない。
なにしろ日生国の首都艦隊は,
全常盤最強である。
先に攻め落とした長門半島の諸都市とは,格が違う。
海上からの攻撃はことごとく失敗した。
また,久礼は厳重な総構えを持つ大都市であるだけに,
陸上からの攻撃もやはり,難航を極めた。
長期戦となり,
やがて冬将軍が到来する。
天は,日生国に味方した。
この年には,大寒波が猛威を振るったのである。
広奈軍は困窮した。
そんな中,緖土国軍が日生国に援軍を寄こしたのである。
上原詮真がかろうじて亜州内にとどまり,
なんとか総崩れを防いでいる様子は逐次,
水奈府の順正帝のもとへ届いた。
ついに帝は,詮真に亜州からの帰還を命じる。
だが,無事,水奈府にまで帰りつけた広奈兵は全体の半数であった。
日生海軍と緖土水軍が,帰還途中の広奈船団を強襲したからである。
こうして順正帝が命じた最初の亜州遠征は,
散々な結果で幕を閉じることとなった。
しかしながら,なおも順正帝は,亜州征服を諦めてはいなかった。
順正帝は,
またも,日生の都,久礼を狙った。
久礼の都が,対外交易および海内東西交易の中心として,
大いに栄えていたためではないかと言われている。
順正13年(1424),第二次亜州遠征が開始された。
広奈軍の指揮は,藤真貞政(とうま・さだまさ)と
南條敏晴(なんじょう・としはる)である。
藤真家は,広奈水軍の一翼を担う北海諸侯の中にあって,
最大の勢力を有する名門であり,
南條家は,これも広奈水軍の一翼を担う南海諸侯中の雄であった。
しかし,やはり久礼を陥落させることはできなかった。
久礼を守る日生国の水軍は,
指揮命令系統が優れて整っていた。
他方,広奈水軍は,強力な戦力を保有しているとはいえ,
諸侯の水軍の寄せ集めであった。
加えて,帝室に近しい北海諸侯と
自由な気風の南海諸侯は反りが合わない。
広奈軍は結束を欠いていたのである。
さて,遠征が失敗したとはいえ,
広奈国が依然として強勢を誇っていることに変わりはなかった。
そこで亜州の諸国は,広奈軍がみたび侵攻してくることも考慮に入れて,
連携を深めることとした。
以後,日生国・後志賀国・名和国・緖土国の亜州四国の元首間では,
政略結婚が繰り返されるようになるのである。
順正帝は,密に三度目の亜州遠征を考えていた。
しかし,広奈国内はそれどころではなくなる。
順正16年(1427)には,都 広京(こうけい)のある首北
および首内地方で疫病が大流行した。
一村,丸ごと,消滅する事態も各地で見られたという有様であった。
帝室もその被害を免れなかった。
皇后・靖子(やすこ)と第一皇女が病にたおれ,逝去したのである。
そのはやり病がようやく鎮まった順正18年(1429),
今度は大地震が帝都を襲った。
宮中でも,諸宮殿が倒壊するなど甚大な被害を出したのだが,
その際,柱の下敷きとなった第二皇子と第二皇女が亡くなってしまう。
順正帝は,おおいに衝撃を受けたが,
それでもまだ悲劇は終わらなかった。
左大臣 花園詮郷(はなぞの・あきさと)が薨去したのである。
詮郷は,順正帝の父 天祥帝が最も重んじていた臣である。
父に疎んじられていた順正帝からは,
父を見返してやろうという意識がことあるごとに,にじんで見えたという。
詮郷に忠勤を尽くされることで,
順正帝は,間接的に亡き父を見返そうとしていた節がある。
その詮郷までも失ったことで,
目標を喪失したような失望を覚えたとしても不思議はない。
帝自身は,覇気を失っているようであった。
順正十年代の後半は,
疫病・地震のみならず,
洪水や旱害なども毎年のように広奈国各地を襲っていた。
ここにいたり順正帝は,内治重視へと方針転換し,
国内に恩徳を施す政策を打ち出すようになった。
しかしこの方針転換は,
順正帝が臣下たちに言われるがままに行ったものであった。
事実,災害復旧が一段落した後も,
亜州への遠征を口にすることはなかった。
自身の悲願たる常盤統一にすら興味を失い始めた順正帝は,
疲れきっていたと言える。
しかしやがて,失意の順正帝を,
新たに入内して来た一人の女官がなぐさめていくことになる。
名を風子(かざこ)といった。
中流貴族 藤堂氏出身の娘である。
通常,皇后となれるのは,
上流貴族出身の娘だけであったから,
風子は本来であれば,皇后になれるような出自ではなかった。
ところが,この絶世の美女の虜となってしまった順正帝は,
靖子の死後は空席となっていた皇后の座を,
ついに風子に与えてしまう。
それは,周囲の反対と,
なにより当の風子自身の反対を押し切って行われたことだった。
順正20年(1431),皇后となった風子は,ほどなく懐妊,
翌年,詮文(あきふみ)皇子を出産した。
風子に異常なほどの寵愛ぶりを見せる順正帝は,
その風子が産み落とした詮文皇子をも溺愛した。
成長するに従い,詮文には驕慢な振る舞いが目立つようになり,
そのことが風子を悩ませた。
風子は,
「この子が帝室に騒動を巻き起こさなければよいが。」
そんな感情を持ち始めたという。
しかし,風子の心配をよそに,順正帝は,詮文を可愛がった。
可愛がりすぎたといってよい。
詮文は太子にも匹敵する扱いを受けるようになっていた。
太子と詮文。
ふたりも次期皇帝候補がいては,臣下たちは迷わざるをえない。
自分が担いだほうが皇帝になってくれればよいが,
そうでない場合は,冷や飯を食わされることになるからである。
結局,臣下たちは自分の都合に合わせて,ある者は太子に付き,
またある者は詮文についた。
ついに朝廷は,二分されはじめたのである。お家騒動の始まりであった。
風子を皇后に据えた頃より,
順正帝は失意の淵から抜けだし始め,
再び即位当初の旺盛な覇気を取り戻すようになっていた。
しかし帝は,三度目の亜州遠征敢行には踏み切れないでいた。
広奈国の国力が,十分には回復していなかったからでもあり,
帝が,とある妄想にとりつかれていたからでもある。
とある妄想,
自身の地位を太子が脅かそうとしているのではないかという妄想である。
無論,その妄想を順正帝に植えつけたのは,
太子の廃嫡を狙う詮文派の臣たちであった。
中でも滝川之信(たきがわ・ゆきのぶ)というものは,
佞臣というにふさわしい人物で,
阿諛追従だけで順正帝の寵を受けている者であった。
順正帝が,太子よりも詮文を重んじるようになったのを見計らった之信は,
ことあるごとに手を変え品を変えては,
太子の悪口を順正帝の耳に吹き込み続けた。
帝は少しも之信を疑わない。
やがて帝は,
「朕を脅かそうとする者を太子の座に据えておくわけにはいかぬ。
風子が産んだ詮文を太子にしよう。」
そんな風に思い始めたようであった。
しかしながら,
太子の廃嫡が容易にはいかないことを順正帝は知っていた。
太子の母は,帝の先の皇后 靖子であり,
彼女は帝室に連なる名門,一条氏の娘であった。
そしてまた,太子の妃は,これも名門,河本氏の娘である。
太子を廃すれば,一条・河本両家が黙ってはいない。
一条・河本両家は,帝国でも一,二を争う大諸侯なのであるから。
彼らが結束して挙兵すれば,
その下には十数万にのぼる兵が容易に集まるはずであり,
帝国内は大乱となる。
「どうすれば平穏に太子をすげ替えることができるだろうか。」
順正帝は,日々思い悩んでいた。
そこへ,滝川之信が助言をする。
「陛下,ご心配にはおよびません。
陛下と詮文皇子のお味方をする諸侯は,
実はなかなか多いのでございます。
まずは,彼らを要職におつけになることです。
そうすれば,太子の味方をする一条・河本両家の者は,
朝廷内で孤立いたしまする。
それから,皇后様のご実家・藤堂家の方々にも
箔をつけていただかなくてはなりません。
藤堂氏にも今以上の高位と特典をお与えになるのがよろしいかと。」
と。
順正帝は,自分の味方が存外多いことを知り,安堵したといい,
そのまま滝川の助言を聞き入れた。
帝は,まず太政官の人事をもてあそんだ。
太政官は,広奈国時代には,大陸にならって,内閣ともよばれ,
皇帝の補佐を担当する機関であった。
通常は,左・右・内の三大臣を筆頭とし,
その下に大納言・中納言・参議などがおかれていた。
目下,内閣の主席たる左大臣の位にあるのは,
太子派の河本言尊(こうもと・ときたか)であった。
順正帝としては,内閣の主席には,
詮文派を任命したいところであった。
かといって,言尊を急に左遷すれば
太子派が一気に過激な行動に出ないとも限らない。
そこで,帝は,言尊を内閣の主席においたまま,
言尊の権限を縮小する方法を採った。
詮文派の京極孝久を左大臣に任命し,言尊を太政大臣としたのである。
太政大臣は臨時の最高職で,当然,左大臣よりも上の位。
しかし,太政大臣は当時の広奈国においては名誉職と言ってよく,
実権は実質的に左大臣の京極孝久が握ることとなった。
この他にも,様々な重要人事で詮文派は,
極端な優遇を受けていく。
結果,詮文派は権勢を誇るようになり,
太子派は,次第に実権を奪われていった。
不遇をかこつこととなった太子派の面々は,
憤りを強くし,必死に再起を図る。
ともかくも,朝廷は完全に割れた。
そして中央における太子派と詮文派の対立は,
地方の情勢にもおおいに影響を与えた。
従来から地方の諸侯には,中央の大臣達に擦り寄る傾向があった。
これは領国内の支配を円滑に進めるためでもあり,
近隣の諸侯よりも優位に立つためでもあった。
しかし,中央の大臣は一枚岩ではない。
いくつかの派閥をつくっていがみ合っているのである。
となれば地方の諸侯は,
自分にとってより都合のよい大臣や派閥に従おうとする。
対立する隣の諸侯があちらの大臣へついたというのであれば,
自分はこちらの大臣へ,
といった具合に。
だから中央の闘争は,必然的に地方にも波及したわけである。
中央も地方も今や一触即発であった。
しかし,風子母子への盲愛に溺れる順正帝には,
自分の帝国が足元から崩れようとしている状況は,
まったく見えていなかったものと思われる。
詮文皇子が加冠を果たした順正32年(1443),すでに朝廷は詮文派で固められていた。
順正帝は思う。
「今の状況ならば,朕が都を空けても,
留守中に太子が何かたくらむことはあるまい。
仮にたくらんでも,それが成功することはあるまい。」と。
しかし,それでも一抹の不安を感じた順正帝は
京極孝久の助言により,詮文派の諸侯ばかりを集めた一軍を太子に与えて,
遠征軍に参加させ,水奈府の行宮に留めることとした。
ついに,広奈国による亜州遠征は再開された。
広奈軍は,今回は,名和国の亜北地方を攻撃した。
亜北地方は,常盤最強の水上戦力を有する日生国の版図からは遠い。
また,これまでの失敗を教訓として,広奈国は水軍を大幅に強化してもいた。
名和国は,緖土国,日生国に救援を仰いだ。
しかし,広奈軍は,名和水軍を電撃的な速度で破ることに成功し,
続く上陸戦でも,数を頼みに名和国の防衛網を大破した。
勢いに乗る広奈軍は,
名和国を救援しにきた緖土国の陸上部隊をも壊滅させた。
広奈軍は,南下して名和国の要衝,泉へむかった。
さらに,一軍を,緖土国の平定に指し向ける。
緖土国の都 十丘(とおか)は,広奈軍によって包囲された。
緖土国王 知繁(ともしげ)は,かろうじて十丘から脱出,
伊住(いすみ)という小都市に逃げ込むことに成功したが,
もはやその命運は風前の灯といってよかった。
名和国は,泉の手前,渡瀬(わたせ)で広奈軍を迎撃したが,
あえなく,壊滅の憂き目に遭う。
国王である成徳(せいとく)王は,必死に戦力をかき集めて
泉へ送り込んだ。
「これが王としての最後の仕事になるであろう。」と嘆息した成徳王は,
もはや状況を絶望視していたといってよい。
名和・緖土両国救援に燃える日生国の陸上部隊が泉に現れたのは,
そんな時であった。
数で劣るにも関わらず,日生軍は
広奈軍に真正面から突撃を加えた。
思わぬ展開に,広奈軍は大混乱に陥った。
名和軍は,その様子を見るとたちまち息を吹き返し,
混乱中の広奈軍へと襲いかかった。
泉へ進んだ広奈軍は大敗を喫してしまったのである。
これを受けて伊住を包囲していた広奈軍も完全に浮き足立ち,
日・名両軍が接近中であるとの報に接すると,
ついに先に占領した十丘にまで引き返してしまう。
そして広奈軍には,また新たな危難が襲いかかる。
広奈の占領下にある緖土国の民が蜂起をはじめ,
各所で広奈軍に襲いかかるようになっていたのである。
もはや,この遠征の継続は不可能といってよかった。
順正帝は,またも亜州遠征軍に総引き上げの勅命を下すことになってしまったのである。
順正帝が水奈府から広京に戻って数ヵ月,明けて順正33年(1444),
太子派の重鎮たる太政大臣・河本言尊が薨去した。
太子派で唯一,要職にあった言尊が亡くなったことで,
もはや朝廷内には,詮文派にあらがえる人物はいなくなってしまったのである。
太子は,ついに都内で孤立を余儀なくされることとなった。
その直後,順正帝が亜州への四度目の遠征計画を発表する。
このあまりにできすぎた状況に,
言尊の後を受けて太子派の盟主となった一条智綱(いちじょう・ともつな)は,
「もしや,河本殿は毒を盛られたのでは。」と疑い,調査をさせたが,
結局,真相にたどり着くことはできなかった。
ともかくも順正帝は,
「これで目の上のこぶがとれた。」
とでも言いたげに意気揚々と水奈府の行宮へ入った。
第四次亜州遠征が始まったのである。
広奈軍の今回の標的は,元にかえって,日生国であった。
結果のほうはといえば,これもこれまでの遠征の時と同様,
いや,それよりももっと惨めなものだった。
広奈軍には,またも南海衆が参加していたのであるが,
彼らは戦闘中,こともあろうに日生側へと寝返ったのである。
南海衆は実は,日生側からも誘いを受けて迷っていた。
だから,戦場で日生側に分があると見るや,
戦後の報酬欲しさに寝返りを打ったのであった。
広奈軍は,今度は半数どころか九割方の兵と船舶を失った。
十分な水上戦力がなくなった以上,
再度の渡海は不可能な状況であった。
こうして四度目の亜州遠征は最もあっけない形で終わったのである。
順正帝は,遠征失敗の失意を抱えて,広京に還幸した。
帝には,更なる不幸が待っていた。
皇后 風子が崩じたのである。
風子を死に至らしめたのは,心労に他ならなかった。
風子の心労の源は,息子 詮文が,
貴族達に担がれて皇太子を追い落とそうとしていることに他ならなかった。
風子という人は,どこまでも慎み深い性質であり,
必要以上に多くを望むことは絶対にしない人であった言われている。
「多くを望むことと災いを招くこととは,ひとしい」
と心の底から思っていたようである。
帝室において弟の立場である詮文が,
兄である皇太子を凌ごうとするのは,不遜な上,
望みすぎであるように風子には感じられた。
それに実のところ風子は,皇太子を尊敬してもいた。
「皇太子殿下は,初めて対面したときから,
私を母親として敬ってくださった。
先の皇后陛下を実母にもたれる太子殿下にとって,
私のような身分低い者が皇后になるのは不満であったはずなのに,
そんなことは微塵も表に出されなかった。
これほどに大きな方は古今どこにもおられまい。」
と。
だからこそ,自分の産んだ詮文には,
弟として兄である皇太子を敬ってほしかった。
そして皇太子がやがて皇帝に即位した時には,
臣下として忠節を示してほしかった。
それが,詮文が幸福になる道だと風子は信じていた。
だから,詮文が嬉々として皇太子の廃嫡を狙う現状は,
風子にとって耐え難いものに違いなかった。
風子は,何度も詮文を諫めたという。
順正帝にも,詮文に対する待遇をいま少し軽くしてくれるように頼んだこともあった。
しかし,状況は変わらなかった。
詮文は相も変わらず,皇太子の位を狙い続けたし,
順正帝も詮文を太子以上に厚遇した。
順正帝という人は,
多くを望める立場にありながら
多くを望まない人間がこの世にいるなどとは
夢にも思っていないようであった。
風子が詮文の待遇を軽くしてくれるように頼んできたのは,
単純な遠慮だろうと本気で思っていたのかもしれない。
結局,風子は,心労を募らせるばかりとなり,
体を弱め,ついに不帰の客となってしまったのである。
順正帝は,風子の死を大いに嘆いた。
しかし,かつて靖子や花園詮郷を失ったときのように覇気を失うことはなかった。
帝にはまだ詮文という希望が存在していたからである。
順正帝は,まもなく五度目の亜州遠征を企図し,
水上戦力の回復を図り始める。
だが,帝はこのあたりで気付くべきだった。
自分の帝国がすでに限界を迎えようとしていることに。
街道や運河の整備,そして,四度に渡る亜州遠征とその失敗。
順正帝によるこれらの事業は,
帝室財政を確実に破綻させていった。
しかもそのしわ寄せは,
度重なった天変地異からようやく立ち直り始めた民に,
増税という形でのしかかった。
民間の帝室に対する怨嗟の声は日に日に高まっていく。
しかし,順正帝がそのことに気付いた気配はない。
それどころか,帝は帝室そのものまでも崩壊させはじめていた。
詮文への盲愛に溺れて,太子を軽んじたからである。
帝は,ここへきてついに太子の廃嫡を決意した。
もはや太子廃嫡のことは,朝廷での正式な決定を待つだけになろうとしていた。
太子は,廃されなかった。
順正帝が崩じたためである。
正確には,「弑殺」というべきだろう。
順正帝を討ったのは,
左大将にして名門諸侯でもある
名島詮時(なじま・あきとき)であった。
詮時は,あろうことか,詮文派の諸侯であった。
名島家は,皇帝家から分かれ出た名門中の名門である。
しかしその家柄は,同じく皇帝家から分かれた名門の一条家よりは下であった。
名島詮時は,当初,この序列を崩すことは考えていなかった。
しかし,風子が詮文皇子を産んだ頃から状況が変わり始める。
順正帝が,一条家の血を引く太子よりも,
詮文皇子の方を重んじるようになったからである。
一条家は当然それを認めず,順正帝と対立するようになっていく。
やがて詮時は,考えはじめる。
「ここで一条家と一緒に太子を擁護すれば,名島家も没落する。
だが,詮文皇子を推せば,没落する一条家に替わって今度は,
名島家こそが帝国最高の名門になる。」と。
詮時の中で野心が芽生えた瞬間であった。
確かに一条家の没落により,
相対的に名島家は第一の名門となり始めていた。
ところが,それと同時に,
風子の実家である藤堂家も著しい台頭を見せるようになる。
家柄にこだわる詮時にしてみれば,これは面白くなかったであろう。
「藤堂家などは,かろうじて貴族の体裁を保っていたに過ぎない,
三流の家だったではないか。」
と。
こうした詮時の憤懣が頂点に達したのが,
四度目の亜州遠征の時であった。
詮時は,国家財政の逼迫と帝室に対する民心の離反を憂えていたから,
もとより,この遠征には反対であった。
しかし藤堂一族は,帝の機嫌をとるためだけに積極的に亜州遠征を支持したと言われる。
結局,順正帝は,藤堂一族の意見を採用した。
帝は,四度目の遠征を敢行し,そして,惨敗した。
この時,詮時はうちわの席でつい,
藤堂氏を重用する順正帝を批判してしまったのであるが,
それが,いつの間にか帝の耳に届いてしまっていた。
ついに,順正帝は詮時を疎んじるようになってしまった。
それにもかかわらず,
帝は詮時をそのまま近衛軍指揮官たる左大将の地位に留めていた。
順正帝は,油断しきっていたと言えるが,
このことが,結局は帝の命取りとなるのである。
ときに,太子派盟主である一条智綱は,
名島詮時の叛意が次第に大きくなってきていることを見抜いていた。
このことを伝えるべく,
智綱は,順正帝に拝謁を願ったのだが,
それはかなわなかった。
帝は,智綱に会おうとすらしなかったのである。
しかたなく,智綱は,風子の父,文業(ふみなり)の下へ向かった。
詮時を遠ざけるよう,文業の口から順正帝に進言してもらうためである。
ところが,文業は政敵である智綱の言葉を疑ってかかり,
まともに取り合おうとはしなかった。
智綱は,間者をはりめぐらせて対応するより他なく,
「陛下をお救い出来るか否かは危ういところだ。」
そう思ったが,
「人事は尽くした,後は天命を待つのみ。」
と腹をくくることにしたようである。
やがて帝は,五度目の遠征を口にするようになった。
藤堂一族はあいも変わらず,
順正帝のそばで調子のよいお追従を繰り返し,
その実,帝を操っていた。
しかも,次第に帝国は傾いている。
詮時は思う。
「もはや,陛下に改心を期待するのは無理のようだ。
かくなる上は,帝室に連なる私が皇帝となってやろう。」と。
順正34年(1445),ついに,詮時は自身が預かる近衛軍を率いて宮廷を襲撃した。
眠り込んでいた順正帝は,
詮時の兵によってあっけなく弑された。
一条の間者は,
帝の救出には,間に合わなかったのである。
詮時は,続けて,藤堂一族の屋敷を襲撃する。
都の各所にいた藤堂一族は片っ端から討たれ,
ついに族滅するに至る。
都は今や,完全に詮時の制圧下に入った。
だが,詮時はあせっていた。
もはや,詮時は自分が皇帝になる気でいたから,
皇太子と詮文皇子を始末しておかなければ,
後々厄介になると考えていたようだが,
しかし,どこを探しても,二人は見つからなかった。
じつは,二人ともすでに都を出ていたのである。
皇太子は,一条家本拠,花岡へと落ち延びていた。
例の一条家の間者は,順正帝を救うことはできなかったが,
皇太子の命は守りぬいたのである。
一方の詮文皇子はといえば,
こちらはお忍びで宮廷から外出し,
遊び歩いていたために難を逃れ,
そのまま,京極家の手の者に保護されて
京極領へ落ち延びたのであった。
この大乱の後,広奈国内では皇帝の位を争う者が三人も立った。
一人は名島詮時,今一人は皇太子,
そして,残る一人は詮文皇子である。
だが,この三人のだれが皇帝となっても,
その皇帝が帝国全土を束ねることは,もはやできない状況にあった。
皇帝の権威が,順正帝の失政によってすでに失墜していたからである。
帝室の失墜によって,広奈国内では群雄割拠が進んでいく。
結局,順正帝は常盤に平安をもたらすどころか,
皮肉にも逆に戦乱を一層,激化させてしまうこととなったのであった。