一条智綱(いちじょう・ともつな)は,首州の広奈時代後期の貴族・政治家・諸侯。
広奈国始元帝の三男 詮智(あきとも)を始祖とする花岡一条宗家の第8代当主である。
尊王的な諸侯の会盟(花岡同盟)を主宰し,広奈国の復興を目指す。
始元帝の三男 詮智(あきとも)を始祖とする一条家は,
帝国第一の名門であり,順正帝の治世までに,
3代に渡る皇后と5人の左大臣を輩出するほどの権勢を誇った。
順正帝の代にあっても,
当主 智嘉(ともよし)は右大臣の要職にあり,
当主の妹 靖子は皇后,
その靖子が産んだ詮誠(あきまさ)皇子は皇太子という状況であった。
まさに一条家の勢威は,極致に達していたと言ってよい。
しかし,靖子の逝去後,藤堂家の風子がその後釜に据えられて詮文皇子を産んだあたりから,
一条家の勢威は急速に翳り始めた。
順正帝が,詮文皇子を溺愛して,
皇太子と太子派の諸侯を次第に疎んじるようになったためである。
太子派の盟主たる一条家は,
凋落ぶりも激しく朝廷での発言力を全く失うこととなってしまった。
そうした危急存亡の中にあった順正26年(1437),
一条家は当主 智嘉を病で失ってしまう。
しかも智嘉の後を継いだ彼の嫡男 智綱は,
まだ17歳の若者に過ぎなかった。
智綱が家督を相続した頃,
太子派の諸侯は,順正帝から疎まれ,
朝廷の職からは遠ざけられるようになっていたから,
智綱も花岡権帥(准長官)といった地方の職に就任することとなったのであった。
こうした中で起こったのが名島詮時の乱である。
若年とはいえしかし,
智綱には煌めくような才知がすでに備わっていた。
彼は,詮時の乱で太子を守って都から抜け出すことに成功し,
そのまま太子を奉じて自分の領国に帰還したのである。
智綱と太子の関係は極めて近い。
太子の実母は,一条智綱の叔母である。
つまり,太子と智綱は血のつながりでは従兄弟であるが,
また智綱は,順正帝の皇女 慈子(よしこ)を正室としている。
慈子は靖子の所生ではなく,
順正帝の側室 恒子の所生であり,太子とは異母妹であった。
無論それでも太子は,智綱にとって義理の兄にあたる。
智綱としては,すぐにでも入京して詮時を討ち,
従弟であり義兄である太子を皇帝に立てたいところであった。
しかし,事はそう簡単ではない。
一条家の領国が,敵対勢力に囲まれていたからである。
北隣には大貫(おおぬき)氏,
南には日野氏がいたが,
これらはいずれも詮文皇子に属し一条家の領国を虎視眈々と狙っていた。
こんな状況を放ったまま智綱が入京軍を起こせば,
その留守中に敵対諸侯らが一条領を襲うことは明白であった。
だから智綱は,まず自分の領国の安全を確保しなくてはならなかったのである。
智綱はまず,大貫氏を崩すことから始めた。
実は大貫家中には,内訌の火種があった。
火種というのは,当主 持高(もちたか)とその弟 持経(もちつね)の不仲である。
原因は,二人の父親にして前当主である持敏(もちとし)がつくった。
持敏は生前,末子の持経を溺愛するあまり,長男の持高を遠ざけていた。
こんな状況であったから,持経は,自分が父の後継者になれるものと信じて疑わなかった。
しかし持敏は,こともあろうに誰を後継者にするか明らかにしないうちに亡くなってしまう。
結局,持敏からは疎まれていた持高のほうが重臣達の支持を取り付けて当主の座についたのだが,
これが持経としては面白くない。
「父は,本当は私を後継者にしたかったはずだ。」という思いがあるからに他ならない。
今や大貫家中は,内乱前夜といった観を呈していた。
順正帝の宮室と似たりよったりの状況であるが,
智綱は,これを利用しようと考えたのであった。
智綱は,「持経が一条家と内通しているという」偽情報を大貫当主 持高に流した。
持高は,気に入らない弟のことであるので
ここぞとばかりに持経に討手をさしむける。
その情報を,智綱はあえて持経に知らせる。
持経は,兄になど討たれてなるものかとばかりにすぐ挙兵した。
大貫兄弟の確執は,こうして智綱の思惑通りに内乱へと発展した。
もはや,大貫氏に一条領を狙う余裕はない。
続いて智綱は,日野氏の動きを止めにかかる。
日野領の南に隣接する友永(ともなが)氏と同盟を結んだのである。
日野氏は以後,南から友永氏に牽制を受けるようになり,
やはり,一条領を窺うどころではなくなった。
ようやく智綱は,太子を奉じて入京することが可能になったのである。
順正帝を弑した名島詮時は,
皇帝を称するようになってから四か月後にはもう,
詮文皇子を奉じる京極軍に討たれていた。
京極氏は,畿内全域を制圧,
詮文皇子を皇帝の位につけたのであった。
帝位についた詮文は,
元号をそれまでの「順正」から「更新」(こうしん)へと改めた。
そのため詮文は,元号をとって特に更新帝と呼ばれる。
無論,太子 詮誠も登極し,「宣昭」(せんしょう)の元号を建てた。
詮誠は宣昭帝と呼ばれる。
智綱が,その宣昭帝を奉じて入京の軍を起こしたのは,宣昭3年(1447)のことである。
入京軍には,一条氏の盟友 沢渡嘉(さわたり・よしみ)も自軍を率いて加わった。
両氏の連合軍,総勢4万。
一方,更新帝を奉じる京極氏らの諸侯は,
一条・沢渡連合軍が動いたことを知ると,
広京の都を出てその近郊 松下に布陣する。
その数,3万。
そして都の留守は,
平泉(ひらいずみ)氏の軍・1万が預かることとなったのである。
ここでも智綱は,謀略を用いた。
都の留守を預かる平泉氏を,
味方側へ寝返らせたのである。
実は平泉氏は,
更新帝のもとで専権を振るう京極氏を恨んでいた。
智綱は,そこにつけ込んで,
平泉氏を味方側に誘ったのであった。
平泉氏は,内大臣の位を約束されると,
たちまち一条・沢渡方に転向,更新帝を襲撃した。
更新帝は自害に至る。
松下にいた京極氏らの軍3万は,
一条・沢渡連合軍と平泉氏の軍に挟み撃ちされる格好となり大破されてしまった。
京極氏の当主 孝久も,気がつけば周囲は敵兵ばかりという状況に陥り,
あえなく討ちとられることとなる。
一条・沢渡連合軍は,
宣昭帝を奉じて悠々と入京を果たした。
智綱は,この功により左大臣に任命された。
名島詮時によって,とだえかけた帝室は復興され,
広奈国はその命脈を保つことになったのである。
広奈国の帝位は,再び統一されたが,
しかし,諸侯同士の争いは収まらなかった。
皇帝家にかつてのような実力が,もはやなかったからである。
かつて皇帝家に絶大な実力が備わっていた頃には,
たとえ諸侯間で揉め事が起こっても,それを皇帝が調停できた。
ところが,今や時代は変わった。
仮に,諸侯間の争いを皇帝が調停したところで,
諸侯たちが従わなければそれまでである。
従わない諸侯を討伐できるだけの軍事力が,
皇帝家にはすでにない。
こうして諸侯たちは,領国経営を発展させるために,
他の諸侯の領国を侵奪するようになっていく。
海西地方では,今原(いまばら)・北・須和の三家が三つ巴の抗争を繰り返しており,
首内(しゅだい)地方では河本家が北氏や香上(こうがみ)氏の領国へ侵攻を繰り返していた。
また,河首(かしゅ)地方でも,平瀬・秦(はた)両家の対立を軸とした
激しい争いが巻き起こった。
この乱世を終結させるためには,
再び絶大な力を持った者が現れ出て,
諸侯の争いを捌く必要がある。
現時点でそれに最も近いのは,
他でもなく皇帝を擁する一条智綱,その人であった。
皇帝を奉戴するということはどういうことか。
それは,大義名分を得るということである。
今や一条家に背くものは,
皇帝に背く者に他ならない。
智綱は誰はばかることなく,
一条家に敵対するものを,朝敵として討伐できる立場に立った。
位人臣を極めた智綱ではあるが,
しかし彼には簒奪の心はない。
智綱は,本気で皇帝のために広奈国の統一を回復する気でいる。
だから,智綱は皇帝を傀儡にすることもなく,
あくまでも左大臣の立場から,
皇帝を補佐するという立場に立ち続けたのであった。
同じく皇帝家の分家の当主でありながら,
時の皇帝を弑殺して簒奪をはかった名島詮時とは,
全く正反対の人であった。
下克上が盛んになり始めた当時の風潮を元にして考えるならば,
智綱は古き良き時代の人であったと言える。
ともかくも,智綱は,皇帝を頂点とする秩序を回復するために奮闘していくのである。
帝国の秩序回復の第一歩として智綱は,
友好的な諸侯との間に同盟関係を構築した。
宣昭4年(1448)のことである。
同盟の目的は,
第一に皇帝を尊ぶこと。
第二に,皇帝に叛く諸侯を討伐することである。
この同盟には,一条家を盟主として以下,
湾陽の沢渡氏,
畿内の平泉氏・平山上原氏,
北海の藤真氏,
海西の今原氏,
首内の河本氏,
海陽の川上氏・本宮(ほんぐう)氏・南条氏,
湾陰の高山氏,河首の友永氏・平瀬氏らが参加した。
そして皇太子妃は,同盟諸侯 今原家から迎えられることとなった。
この同盟は,盟主 一条家の本拠地の名前をとって
後世,歴史家から「花岡同盟」と称される。
花岡同盟成立によって智綱はひとまず,
帝国内にある程度の秩序を構築することに成功したのであった。
とはいえ,盟主たる一条家が凋落するようなことでもあれば,
この同盟はすぐにでも崩壊しかねない。
当然,智綱としては,勢力基盤である西国で反一条勢力を除いて,
自家の勢力を安泰なものとする必要があったのである。
智綱はまず,大貫家の内訌に干渉した。
大貫家は元来,一条家と敵対していた。
しかし,家中が持高派と持経派に分裂してからは,状況が変わった。
持高は,そのまま一条家を敵視し続けて花岡同盟には不参加であったが,
持経は,兄に対抗するために智綱に接近,その縁で同盟に加わったのである。
宣昭帝のために広奈国の統一を回復する気でいる智綱は,
大貫家を花岡同盟派の持経のもとに統合しようと考えたのである。
畿内周辺の情勢が安定したことを見て取った智綱は,
重臣 吉野綱広(よしの・つなひろ)を将とする2万の軍を畿内の守備に残して花岡へと帰還した。
無論,大貫持高を攻めるためである。
この動きを知った持高は,
単独で一条・持経の連合に抗するのは無謀と考え,
宣昭5年(1449),大神(おおみわ)氏と同盟したのであった。
大神家当主 朝高(ともたか)は,
「世人は智綱を仁君と讃えるが,それは智綱の猿芝居がうまいだけのこと。
本当の智綱は,偽りの多い人物であり,先帝には長幼の序を守って太子を重んじるべきと諫言しながら,
大貫の家に対してはその逆を勧めている。
やっていることは,まるででたらめと言う他はない。
こういう人間に好き勝手を許していては,信義は廃れてしまう。
信義を正すためにも我が大神家は,喜んで持高殿のお力となりますぞ。」
と大貫家の使者に語ったのであった。
宣昭6年(1450),一条・持経連合軍と大神・持高連合軍は,
折口の地で羽志摩(はしま)川を挟んで会戦するに至る。
だが大神・持高連合軍の連携は,芳しいものとは言えなかった。
はやる大貫持高は,智綱の出した囮の渡河部隊をそれとも知らず攻撃し,
気がついたときには,別の地点から渡河して来ていた一条軍本体に包囲されるという状況に陥ってしまう。
結果,大神・持高連合軍全体も,やぶれることとなった。
折口の地は,一条軍の占めるところとなったのである。
これは,大貫持高にとっては死命を制されたも同然の状況であった。
大神氏との連絡が遮断されてしまったからである。
果たして翌年にはもう,
持高は国を失って大神領へ逃亡する羽目になってしまった。
大貫当主には,智綱の後援を受けて持経がつくこととなるのである。
今や一条家は,湾陽地方全域を制覇していた。
しかし西国における智綱の奮闘は,いまだ終わっていなかった。
大神朝高が,持高を返り咲かせるべく連年,一条領へ侵攻してくるようになったのである。
しかも厄介なことに,大神氏は日野氏との間に連合関係を築いてしまっていた。
かつて智綱は,河首地方の友永氏を動かして日野氏を牽制させる構図をつくりあげていた。
ところが,その状況は,このころ大きく変化していたのであった。
宣昭8年(1452),友永氏が家臣の高田氏に取って代わられてしまったのである。
いわゆる下克上であった。
友永氏は河首地方の諸侯ではあったが,
河首地方よりはむしろ,日野氏らの割拠する湾陰地方への進出を狙っていた。
だから,平瀬氏と組んで背後の安全を維持する一方,
日野氏攻撃のために一条氏と遠交近攻同盟を続けるというのが友永氏の基本戦略であった。
しかし,高田氏は,旧主 友永氏と違って河首地方の制覇を狙ったから,
日野氏と組んで背後を安全にした上で,平瀬氏と争うようになったのである。
これを機に南からの軍事的圧迫から開放された日野氏は,
大神氏と連合して積極的に一条家打倒を企図するようになった。
宣昭9年(1453),日野・大神連合軍は,満を持して一条領へと侵攻してきた。
その数,3万2千。
対して一条家は,2万の兵を畿内の守備に残したままだったこともあり,
当主 智綱の元には1万5千の兵しかいなかった。
智綱は早速,盟友 沢渡嘉に援軍を仰ぐ。
嘉はこれを快諾し,兵5千を送ってきた。
それでも一条・沢渡連合軍はまだ,数の上で日野・大神連合軍に及ばない。
日野・大神軍の侵攻を見越して智綱は,すでに楯岡(たておか)の地を確保していた。
「楯岡は,我が領国の入口とも言うべき要衝。
ここを抜かれるのは,本拠 花岡を裸にするのも同じこと。」
というのが智綱の認識であった。
楯岡での会戦は,まさに一条家の命運がかかった一戦だったわけである。
日野家軍師 錦織親長(にしこり・ちかなが)は,
楯岡にすでに堅牢な備えがなされていることを知ると,
「敵方の備えは随分と堅いようですから,
ここは軽々には動かず,包囲策をとるのが良いでしょう。」
と主君・日野国親に進言した。
大神朝高も同じ考えであったが,
しかし,国親は,兵数で敵よりも優位にあることに安心しきっていて全く聞く耳を持たない。
日野家のほうが大神家よりも格上で勢力も大きかったことから結局,
国親の意が通ることになった。
すなわち日野・大神軍は,包囲策ではなく強攻策に出,
連日,楯岡に猛攻をしかけた。
しかし楯岡は,一か月を経ても陥落しなかった。
日野・大神軍に参加している小領主たちの間に厭戦気分が漂う。
智将の誉れ高い智綱が,この状況を捨ておくはずもない。
彼は早速,日野・大神方の小領主らと水面下で連絡をとり始めた。
その結果,日野属下の木戸・真柴(ましば)両氏と
大神属下の多峨(たが)氏が鞍替えして,一条・沢渡軍についたのである。
結局,日野・大神両氏は,自国へと撤退することとなってしまった。
大神朝高は,日野氏は頼りにならないと見たのか,独自の手を打った。
宣昭10年(1454),朝高は,
大貫領の小領主を扇動して大神氏に内応させるとともに,
先の大貫当主 持高に兵を貸し与えて大貫領へと送り込んだのである。
無論,智綱と連合している現大貫当主 持経を排除するためである。
智綱は,持経からの救援要請を受けると,電光石火,自ら1万の軍を率いて大貫領へ入った。
一条・持経軍は,たちまち持高の軍勢を粉砕,持高をも敗死せしめる。
これにより持高の動きに合わせて大貫領へ攻め寄せていた大神軍は,
好機は去ったと見て帰還していった。
しかしながら「一難さってまた一難」とはよく言ったもので,今度は,都で大事が起こった。
宣昭11年(1455),宣昭帝が崩御したのである。
帝の後継者となった新帝 興徳(こうとく)帝は,賢明とは言い難かった。
都を任せている吉野綱広から,新帝の様子を伝えられた智綱は愕然とした。
何と新帝は,先帝の喪中にあるにもかかわらず,
日夜,後宮に入り浸り酒色を過ごしているというのである。
智綱は,入京するとすぐに帝を諫めた。
しかし,帝は表面で智綱の諫言を受け入れたような態度を見せるだけで,
その実,一向に行状を改めなかった。
やがて,智綱は西国への帰還を余儀なくされる。
日野氏が一条氏への雪辱を期して動き始めたからである。
日野氏は,まず隣国の諸侯 堂島氏に一条家の盟友 沢渡氏を攻めさせた。
智綱は,ただちに1万の兵を率いて沢渡氏の救援へと出撃したが,
その一方で,
「堂島の後ろに日野氏がいるのは必定。
余が沢渡殿の救援に向かえば,必ず日野軍は手薄になった我が領国を狙うであろう。」
と予測し,重臣 上村綱晴(かみむら・つなはる)に兵1万を与え,楯岡を守らせた。
果たして日野国親は,堂島氏の沢渡領攻撃に呼応して兵3万をもって楯岡を攻撃してきたのであった。
楯岡を預かる上村綱晴は,伏兵を用いて日野軍の機先を制する。
一方,沢渡領。
堂島軍は,数で劣る沢渡氏を攻めあぐね,
未だに国境の要衝 井口(いのくち)を突破できないでいた。
そんな状況のところへ一条軍がまもなくやってくるという報である。
たまらず堂島の将 氏家貞義(うじいえ・さだよし)は,全軍に撤退を命じた。
智綱は,一両日だけ井口で兵を休息させると,楯岡を救援するためすぐに領国へとって返した。
上村綱晴は,神出鬼没に各所へ打って出ては日野軍を苦しめていた。
智綱率いる一条軍本体が楯岡へ到着したのはそんな中であった。
今ひとつ士気が上がらなかった日野軍は,
智綱率いる一条本軍から夜襲をくらうに至ってついに撤退した。
智綱の奮闘は終わらない。
今度は,畿内東部に勢力を持つ京極家が動き始めた。
京極家は,松下の戦いで当主 孝久を一条軍に討ちとられている。
京極家の現当主 之久(ゆきひさ)は,孝久の子であったから,
父を殺した一条家に雪辱することを誓ってやまなかった。
智綱が日野氏や大神氏との争いに忙殺されている状況は,
之久にとってまさに雪辱の好機に他ならなかった。
興徳3年(1457),京極氏は,皇族の一人である詮由(あきよし)を担ぎ出し,
氷見の上原氏や久瀬氏などの諸侯を誘って,広京の都を襲撃するに至ったのである。
京極方の兵力は5万を数えた。
広京を守る吉野綱広は,都近郊の要衝 向原(むかいはら)で京極方の軍を迎え撃った。
急を告げる都からの使者は,花岡の智綱と
一条家の同盟者である沢渡・河本両家の元へと馳せた。
智綱は,都からの急使を迎えると,兵1万を率いて花岡を進発,
途中,桐生で沢渡家の兵5千と合流し都を目指した。
河本家などは,近隣諸侯との抗争を抱えている状況にもかかわらず一条氏への救援を決定,
兵1万を都へ向かわせた。
吉野綱広は,向原の地をよく守った。
その間,智綱の軍と沢渡軍,河本軍は続々と救援に現れた。
智綱は,さらに京極方に衝撃を与えるため,
京極氏の本領をその背後にいる藤真氏に攻撃してもらった。
おおいに狼狽した京極氏らの軍は結局,花岡同盟軍に敗れ撤退していった。
戦後,智綱は都を襲撃した諸侯らを駆逐することにした。
向原の会戦から一か月後,智綱率いる一条軍はもう,久瀬氏と氷見上原氏を降した。
京極氏は完全に孤立した。
京極領は西から一条軍を迎え,東から一条軍と呼応して動く藤真軍を迎えた。
京極家家中では,次第に降伏論が台頭してきたが,
当主 之久は智綱への深い恨みからこれを承諾しない。
そうこうする内,八橋(やばせ)での会戦で花岡同盟軍に京極軍は大敗を喫した。
京極家の重臣達はついに,降伏を渋る之久を暗殺して,
之久のいとこの政久(まさひさ)を当主に据えた。
かくて,京極家は一条家に降伏を申し出たのであった。
足場である西国を固め,畿内も安定させた智綱は,
沢渡,大貫両氏とともに,大神領へ侵攻した。
花岡方の兵力,2万5千。
内訳は,一条1万5千,沢渡5千,大貫5千である。
狙われた大神朝高は,日野国親に救援を求めた。
大神軍,7千
有帆を進発した日野軍,8千。
花岡勢は,大神方の要衝 城戸を抜きにかかった。
ところが……
花岡方から大神方へ寝返る者が現れた。
智綱の後援によって兄を追放し,大貫家当主の座を得た持経である。
持経は,大神朝高に口説き落とされて一条家に叛いたのであった。
大貫勢と大神勢に挾撃される格好となった,花岡勢。
そこへ,日野軍が花岡勢の退路を断とうとしている旨の報告が入った。
智綱は,羽志摩綱広(はしま・つなひろ)に殿軍を任せ,花岡へ撤退した。
智綱にとっての救いは,羽志摩綱広が,生還したことのみであったろう。
花岡方の惨敗であった。
今や,一条家本領は,北の大貫,南の日野・大神両氏によって包囲されることとなってしまった。
この状況を打破するため智綱はある策を打った。
日野氏を分断する策である。
実を言えば,日野氏の領国は統一されているわけではなかった。
領国の西半は,本家である有帆(ありほ)日野氏の領分,
東半は分家の蘇我(そが)日野氏の領分であった。
本家である有帆日野氏は,
なにかと分家 蘇我日野家中に口を出した。
特に,蘇我日野氏の現当主 良総(よしふさ)は,
有帆日野氏当主 国親に対して,遺恨がある。
良総の正室は,本家の国親の妹であったが,
良総には,別に特に寵愛する愛妾があった。
結局,国親の手の者に,良総は,
寵愛して止まなかった愛妾を殺されたのである。
以来,良総は,
密かに本家の支配からの脱却を模索するようになっていった。
智綱が城戸での大神氏との戦いに敗れた頃には,
有帆の日野氏と蘇我の日野氏の仲は,以前に比べて相当,険悪になっていた。
この状況を利用するべく智綱は,
蘇我日野氏当主 良総(よしふさ)に密使を送る。
その口上は,「貴公がわれらの同盟に参加してくださるのならば,
貴公の蘇我日野家を,日野氏の本家とするために尽力いたしましょう。」
というもの。
日野良総は,智綱からの密書を受けておおいに喜んだ。
良総は,すぐに花岡同盟への参加を決定,
有帆日野氏へ攻撃をしかけ始めた。
まもなく,蘇我日野氏は朝廷から日野氏の本家として認められた。
以後,有帆日野氏は,
蘇我日野氏との抗争に手一杯となる。
これで一条家の敵は,大神・大貫両氏の連合軍に絞られることとなった。
しかし,先に仕掛けたのは,大神・大貫の方であった。
先の戦いで,智綱が敗北したことから,
一条家から離反する領主が,現われはじめ,大神朝高は,これを好機と見てとったのだ。
大神氏本拠 名島から一条氏本拠 花岡へ至る道は,二通りある。
ひとつは,名島から東北へ出て楯岡へ向かい,
そこから北上して花岡へ至る「内道」(うちみち)。
そしてもうひとつは,名島から西北へ出て城戸を越え,
そのまま北上して大貫領へ入り西進して花岡へ至る「磯道」(いそみち)である。
これまでの大神氏は,日野氏と連携しやすい内道を選んで一条領へ侵攻してきた。
しかし,今回の大神氏は大貫氏と連携して一条領を目指すため,磯道を選んだ。
大貫領の最前線から花岡までの距離は,楯岡から花岡までの距離のほぼ半分である。
一条家から見れば,敵はこれまでよりはるかに本拠地に近づいていた。
興徳4年(1458),一条軍と,大神・大貫連合軍は山内(やまうち)の地で会戦に至る。
大神・大貫連合軍は,軍を二手に分けた。
一方は,智綱が籠もる山内を攻撃する軍であり,
そしてもう一方は,智綱が留守にしている花岡を密に攻撃する軍であった。
しかし,智綱は大神・大貫方の作戦を読んでいた。
大神・大貫方の花岡攻撃軍は途中,一条軍の伏兵に強襲され,
壊滅状態に陥ってしまう。
作戦の失敗で兵力を損耗したばかりか,
著しく意気消沈した大神・大貫連合軍は程なく撤退していった。
この後智綱は,大貫氏の重臣 端島敏行(はじま・としゆき)を
密に内応させることに成功した。
敏行は,興徳6年(1460)の霧山の戦いの最中に,
主君を裏切って一条軍へ転向,大貫軍敗北の主要因をつくる。
そしてその戦いから三か月後,
一条軍は大貫氏本拠 沢井になだれ込み,ついに持経を討ったのであった。
大貫氏を滅ぼした智綱が次に狙ったのは,堂島氏であった。
堂島氏は,一条家の盟友 沢渡嘉と連年,抗争を続けていた。
仮に沢渡氏が堂島氏に滅ぼされるような事態にでもなれば,
都 広京と一条本領の連絡は遮断されることなる。
智綱にとってあくまでも沢渡氏を攻撃し続ける堂島氏は,
放ってはおけない存在であった。
そこで智綱は,日野・大神両氏の動きが鈍い間に,
沢渡氏と共同して堂島氏を滅ぼすことにした。
興徳8年(1462),一条・沢渡連合軍2万5千の前に,
7千の兵しか持たない堂島氏は,
あっけなく打ち破られて滅亡を迎えた。
蘇我の日野氏と抗争していた有帆日野氏は,
このとき堂島氏を積極的に救援できず,
盟友を見捨てるという失態を演じる格好となってしまった。
しかし有帆日野氏は,黙っていなかった。
興徳9年(1463),香上氏と共同して蘇我日野氏を大破すると,
続いて大神氏と共同してまたも一条領 楯岡に進出してきたのである。
日野・大神連合軍は4万に膨れ上がっていた。
智綱は,楯岡という堅牢な地に拠る利を得ているため,
専守防衛に徹して日野・大神軍の攻撃をやり過ごそうと考えた。
日野国親は,前の失敗にも学ばず,
またも楯岡を力攻めにしようとした。
これに対して大神朝高は,
「楯岡の守りは堅牢そのもの。持久戦こそ上策。」
と正反対の意見を述べた。
やがて,国親は朝高を疎んじ始めるようになる。
日野・大神陣営には不穏な空気が流れ始めるようになる。
結局,日野・大神軍は一か月を経ても楯岡を陥落できず,引き上げを決めた。
朝高は,
「国親は,ともに語るに足る人物ではない。」
と思ったがそれを大っぴらに吐きだすほど小さい器量ではない。
粛々と1万2千の軍兵を率いて自領へと引き上げていった。
一方,日野国親は,
「朝高が腰抜けだからこんな結果になったのだ。」
と言ってはばからず,地団駄踏みながら帰国していく。
これを機に日野・大神両氏の間には不協和音が流れ始めることとなってしまった。
帰還した大神朝高は,一条領内に潜んでいる大貫残党と連絡をとった。
旧大貫家臣の中には,一条家に従うのをよしとしない者もまだ相当にいたのであった。
彼らは,大神氏から援助されると,
落ち延びていた大貫一族の中から持賢(もちかた)という人物を担ぎ出して,
たちまち大貫家の再興を目指すようになったのである。
興徳10年(1464),大貫残党は早速,大神軍と共同,一条家に対して兵を挙げた。
しかし,この事態は一条家にさしたる衝撃を与えなかった。
一条氏を包囲する網は,
今やほとんど破綻しかかっていたからである。
堂島氏は滅亡していたし,
何より日野・大神両家の連携ももはやうまくいかなくなっている。
大神・大貫残党の連合軍に対し,一条家はほとんど全力を傾注できる状態にあった。
一条軍は,大貫家再興を目指す大神・大貫軍を
旧大貫領の要衝 熊井の地で大破すると,
今度は攻勢に出て大神氏の領国へ兵を進めた。
「日野国親などは問題ではない。あの男は単に気位が高いだけの小人物に過ぎぬ。
西国の敵で最も怖いのは,大神朝高である。
あの男は誰よりも強かな性質。この機にたたいておかなくては,将来に禍根を残す。」
というのが智綱の以前から変わらない考えであった。
一条軍の侵攻を迎えた大神朝高は,
日野氏に救援を求めたが,日野当主 国親は朝高に含むところがあるためか,
なかなか大神氏救援を決定しない。
興徳11年(1465),一条軍は,
ついに要衝である城戸,佐浦を大神軍から奪取したのであった。
ここで日野軍は,ようやく動いた。
しかし,直接大神領へ救援に向かうのではなく,
手薄になっている一条本領を襲うことで,
大神領へ侵攻した一条軍を引き上げさせるという手段をとった。
智綱は,このあたりが引き上げ時であると判断して大神征伐を中断,花岡へ帰還していった。
対外貿易港である城戸と佐浦を失陥したことは,
大神氏にとって財政上の大打撃であり,
その勢力はもはや虫の息といってよかった。
智綱は,ひとまず反一条包囲網を崩すことに成功したのである。
一条家は,帝国内の最大諸侯であり,
その力によって花岡同盟の諸侯を束ねつづけていた。
智綱は西国にあったが,彼の一挙手一投足は,
その実,帝国版図の隅々にまで影響を与えていたと言ってよい。
一条智綱は,まさに乱世の覇者であった。
しかし,智綱がいくら奮闘しようとも,
帝国がかつての勢いを取り戻すことはなかなかに難しいことであった。
当の皇帝家自体に問題があったからである。
時の皇帝 興徳帝は,践阼当初から酒色に溺れるなど,
その行状にはおおいに問題があった。
智綱は,折りに触れて諫言したのだが,まるで効果はない。
しかも,興徳帝は歴史に学ぶということ知らない人であった。
順正帝の御世を再現するかのように,
いやそれ以上に酷いお家騒動の種を蒔いてしまうのである。
帝には即位10余年を経た頃すでに10数名の皇子がいた。
その内,太子に立てられたのは皇后 馥子(ふくこ)との間に生まれた
長皇子 詮宗(あきむね)であった。
しかし,帝はその後,仲子(なかこ)という女官を寵愛するようになり,
彼女が産んだ詮里(あきさと)という皇子を,
あろうことか太子同然に扱うようになってしまった。
だが話は,それだけでは済まない。
帝の寵愛がやがて,如子(ゆきこ),
さらに季子(ときこ)という女官に次々と移っていったからである。
帝は,今度は如子が産んだ詮歳(あきとし)皇子をかわいがり始め,
続いて季子が産んだ詮邦(あきくに)皇子を溺愛した。
結果,女たちは後宮で
「我が子こそを太子に」
とばかりに激しく火花を散らすようになっていく。
もとより帝は,次々と寵愛する女官を変えて,
彼女たちの争いの火に油を注ぐばかりであり,
その争いを収める努力などしなかった。
後宮での激しい争いはやがて,
皇帝家の権威を利用してのし上がろうとする諸侯たちの内にも飛び火する。
諸侯たちは,自分に都合の良い皇子を次の皇帝にするべくさまざまに運動するようになった。
智綱は,
「長幼の序を乱した結果,どのようなことになるかは,よくよくご存知のはずです。
皇子の中にあって太子は,最も尊重されるべき存在です。」
と帝に諫言したが,
これもやはり通じはしなかった。
仕方はない,智綱は将来に備えるべく,
花岡同盟内で太子を支持することを確認,
さらに花岡同盟の結束を固めるために同盟内での政略結婚を促進したのであった。
さて西国の状況は,小康状態を保っていた。
一条家を目の仇にし続けてきた大神家の勢力が,
弱まっていたからである。
しかし,まだ有帆日野氏には,一条家に対抗する余力が残っていた。
興徳11年(1465),日野軍は,
またも楯岡に進出してきたのであった。
とはいえ,有帆日野家には
もはや逸材と呼べるような者はいなくなっていた。
当主 国親が凡愚を絵に描いたような人物であり,
諫言する忠臣・賢臣を遠ざけて阿諛追従の佞臣ばかりを重用してきたからである。
これではまともな戦略・戦術が立とうはずもない。
今回の楯岡の役も,国親自身の深い考えから起こったものではなかった。
武断派の威勢の良い言葉に乗せられて,
つい出陣する気になったといった程度のものであった。
こんな具合に始まった遠征であるから,
その陣営の雰囲気はすこぶる浮ついたものであった。
一条軍が楯岡周辺の地勢を生かして,
あちらこちらへ打って出て攻撃をしかけると,
日野軍はたちまち浮き足立って翻弄されるばかりである。
そしてついには,
国親自身が流れ矢にあたって重傷を負うという事態にたち至る。
有帆日野軍は,ほうほうの体で引き上げるという体たらくであった。
まもなく国親は戦場で受けた傷がもとで亡くなり,
その嫡男 祥親(よしちか)が有帆日野氏の家督を継ぐこととなったのである。
しかし,結果的に国親の死は,
皮肉にも有帆日野氏の勢いを回復させるきっかけとなった。
新当主 祥親が,父 国親を数段上回る器量の持ち主だったからである。
祥親は,興徳14年(1468)には,蘇我日野氏との関係修復にあたり,
さらに,悪化しつつあった大神氏との関係をも好転させはじめた。
大神氏はといえば,このころには,先の敗戦の衝撃から立ち直り,
富国強兵にいそしんでいた。
智綱からも一目おかれた大神朝高は,
再び暗躍を始めるようになっており,
一条領内の大貫残党としきりに連絡をとった。
大神・大貫残党は連年,旧大貫領へ侵攻してくるようになり,
これに呼応して有帆日野軍も度々,一条領を侵すようになった。
こうして反一条包囲網は半ば復活してしまったのである。
智綱は,まず今度こそ完全に大貫残党を滅ぼすことにした。
しかし,大貫残党を攻めれば大神軍が出てくることは明らかである。
そこで智綱は,両日野氏の領国へ攻め込むと見せかけておいて,
突如,軍を反転させ,大貫残党が籠もる岩下を電撃的に包囲した。
興徳17年(1471)のことである。
当時,大神朝高は齢七十という高齢を理由に隠居して
家督を息子 頼高(よりたか)に譲っていたが,
この頼高という人は朝高に似ず,温厚なだけのおひとよしといって良かった。
朝高は,一条軍の動きを知ると
「一条軍の真の狙いは,日野領ではなく大貫残党。」
と頼高に忠告したが,頼高には父の思考が理解できなかった。
しかし,朝高の予見は当たり,
一条軍が,日野領ではなく大貫残党を攻めたと知って,
頼高はおおいに狼狽した。
当然ながら,大神軍の大貫残党救援は,遅れに遅れた。
そんな状態の大神軍が,戦場の岩下に到着したからといって,
何か出来ようはずもなかった。
一条軍の備えは,岩下の大貫残党に対しても,
大神軍に対しても完璧であった。
ついに大貫残党の籠もる岩下では,兵糧が尽きた。
あけて興徳18年(1472),一条軍は,たやすく岩下を攻め破り,
大貫残党を殲滅したのであった。
この間,両日野氏は楯岡に攻撃を仕掛けていた。
日野祥親は,父 国親の轍を踏まず,
持久戦によって楯岡を下すことを考えていた。
両日野軍は,堅い備えを以って楯岡の一条軍と対峙したのであった。
智綱は,大貫残党にとどめをさすと急ぎ楯岡の救援に向かった。
智綱も,祥親も慎重であり一向に両軍の均衡は崩れなかった。
しかし,一条家に意外な援け舟が出された。
花岡同盟の諸侯である河本氏と高山氏が共同で,
蘇我日野氏の領国を窺ったのである。
楯岡の戦場から蘇我日野氏の軍が引き上げた。
日野祥親は,有帆日野氏単独で一条軍と対峙し続けるのは不可能であると判断し,
ゆるゆると引き上げっていった。
一条家の危機は去ったのである。
そして今度は,智綱が攻勢に転じる番であった。
本来,戦に勝つために最も有効な方策は,
敵よりも多くの兵を運用することに他ならない。
智綱は,この単純だがしかしなかなか難しい方策を実行した。
一条家は,今や北の大貫,東の堂島両氏を完全に滅亡させ,
南側にしか敵を抱えていない。
そこで智綱は,これまで大貫・堂島両氏に備えてきた兵力をも
対両日野戦線へと投入したのであった。
さらに堂島氏の軍事的圧迫から解放された沢渡氏にも協力を仰いだ。
一条・沢渡連合軍は,6万を数えた。
対する両日野氏。
有帆日野氏の軍3万に,
蘇我日野氏が兵1万を率いて合流した。
興徳19年(1473),両軍は,鹿野(かの)という地で対峙した。
日野氏にとって,本拠 有帆の外郭とも言うべき要衝である。
蘇我日野氏が,一条軍の挑発に乗って突出したところから一気に戦局は動いた。
蘇我日野軍1万は,壊走を余儀なくされ,後には有帆日野軍が残るばかりである。
蘇我家当主 元総(もとふさ)の直情径行の行動が招いた結果に,
有帆家当主 祥親は,歯噛みする思いであったが,
事ここに至ってはしかたなく,すぐに全軍引き上げを決定した。
要衝を明け渡した有帆日野氏は,
以後,防戦一方となった。
一条軍は連年,日野領へと侵攻し,
その領国を次第に蚕食していった。
時折,大神軍が一条軍主力の留守を狙って,
旧大貫領方面へ進出することはあったが,
それも散発的なものに終始した。
興徳21年(1475),智綱は,いよいよ日野氏との抗争に決着をつけるため花岡を出,
前線に近い楯岡に入った。
日野氏を下すまで花岡には,戻らない覚悟である。
日野祥親は,蘇我日野氏・大神氏らの協力を得てなんとか各地の要衝を堅守,
本拠の有帆に一条軍を近づけないでいた。
ところが,興徳22年(1476)に中須の戦いで一条軍に敗れると,
有帆日野氏は,蘇我日野氏との連絡を遮断され,
いよいよ窮地に追い込まれることとなった。
そして,有帆の最終防衛網たる矢崎でも,
日野・大神連合軍は一条軍に大破された。
ここに至り祥親は,他日を期すため,
ついに一条家との和睦を選択したのであった。
花岡同盟と対立する主要な諸侯は,
海西の北,湖庭の香上(こうがみ),河首の秦(はた),湾陰の大神のみとなっていた。
しかもこれらの諸侯の内,
北家は,今原・河本両家の攻勢の前に瀕死の状態と言ってよく,
香上家は,陪臣であった姫村孝治(ひめむら・たかはる)によって
領国の西半を奪われてしまっていた。
大神家も一条家との長い抗争に競り敗れて,
今や逼塞を余儀なくされている。
花岡同盟に敵対する諸侯のこうした凋落ぶりとは対照的に,
一条家は今や畿内と西国全域を押さえ,
その保有総兵力はおよそ10万を数えるようになっていた。
花岡同盟の頂点に立つ智綱は,実質的には天下人であり,
広奈国の再統一まではあと一歩というところだった。
だが,彼にはもはや時間が残されていなかった。
智綱は,日野祥親との和睦が成立した,興徳22年(1476)には,
肺病の症状を呈するようになり,年明けを待たず,
あえなく薨去してしまったのである。
家督継承以来40年弱,享年は57歳であった。
智綱の後継には,彼の嫡男 智宣(とものぶ)がついたが,
彼は智綱の才略を毛ほども受け継いではいなかった。
興徳25年(1479),智綱以来の軍師 上村綱晴までも逝去すると,
一条家は急速に衰退を始める。
そして,沈黙していた大神朝高が動き始める。
朝高は,日野祥親に一条家との和睦を破棄させ,
さらに高田氏とも手を結んだ。
やがて三氏は共同して,連年,
一条領へ兵を進めてくるようになった。
このように朝高があっという間に西国の情勢を変化させる間,
智宣は何もできなかった。
智綱という奇才と多年に渡り,
しのぎを削ったことで円熟味を増した大神朝高と,
若く凡庸な智宣では役者があまりにも違いすぎていた。
日野・大神・高田三氏の攻勢に次第に競り負けるようになった一条家は,
興徳30年(1484)には,
本領の玄関口とも言うべき楯岡をも明け渡すことになってしまう。
そしてこの年,朝廷で変事が起こった。
興徳帝が崩御し,その後継をめぐって諸皇子が都内で武力衝突する事態となったのである。
癸卯(きぼう)の変である。
都の一条軍は,皇太子 詮宗を援けたが,
第五皇子 詮邦は,平泉氏の軍を利用して太子に対抗した。
平泉氏は松下の会戦以来,花岡同盟の諸侯であったが,
ここに至ってついに一条家に反旗を翻したのであった。
一条軍は,平泉氏の突然の挙兵に,
不意をつかれて混乱しきりであり,
太子を都外へ脱出させるのが精一杯であった。
太子は,近年西国の諸侯に連敗している不甲斐ない一条氏を頼ることは諦め,
母の実家である今原家の元へと落ち延びた。
一条家は,皇帝家の変事を収められなかった。
天下の覇位は,今や一条家から去ったのである。
智綱の才略を持ってしても
結局,広奈国の再統一はかなわぬままであり,
亜州でも依然として諸国家の抗争が続いていた。
長引く動乱の世に終止符が打たれる兆しは,一向に見えなかった。