姫村孝治 出自

智綱の薨去により,広奈国は覇者を失った。
そして帝国内の情勢は,群雄割拠に逆戻りする。
下克上も一段と盛んになった。

代表格とも言えるのは,湖庭地方の姫村孝治(ひめむら・たかはる)であった。
孝治は,流れ者であったという。

しかし,本来は,広奈国宮廷官僚の名門である
三島氏の出であることがあきらかになっている。

民間に埋もれた没落貴族の家に生まれた孝治は,
一条智綱がまだ存命中だったある時期に,湖庭地方に流れついて
香上氏属下の媛丘(ひめおか)領主 白川氏に仕えたようである。

とはいえ,孝治の直接の主は白川氏重臣 吉山行信(よしやま・ゆきのぶ)であった。
孝治は,「配下の配下のそのまた配下」といった身分に過ぎなかったのである。

しかしながら,孝治という男はなかなかに器用であり,
戦働きが目覚ましいばかりか,名門の末裔であるために有職故実や芸事にも詳しかったので,
やがて主 行信に気にいられてその婿養子となった。

そして,孝治は行信の後を継いで吉山家の当主となる。
白川氏の重臣となった孝治は,阿諛追従と教養とをもって主君 顕元(あきもと)に取り入った。

時をおかずして顕元は,孝治を重んじるようになる。
ついで,孝治は他の重臣達の追い落としを策した。

顕元は,簡単に孝治の讒言に乗り,重臣達を討伐していく。
討伐された重臣達の職分と所領は,孝治に与えられていったから,
孝治の勢力は日増しに高まっていくこととなった。

興徳15年(1469),顕元が病死すると,
顕元の子 邦顕(くにあき)が白川家の家督を相続した。

邦顕は相続後,遊興に耽けるようになったが,
そのように仕向けたのは,孝治であったという。

ここに至って白川家当主の一族は,
危機感を覚えて孝治を除こうと考えた。

しかし,白川家中の主だった重臣はすでに孝治の讒言によって葬り去られていたので,
白川家当主一族は,反孝治の兵を挙げるにあたっては,
白川家の主家たる香上家の力を借りることにした。

興徳18年(1472),香上家による孝治討伐が開始された。

香上軍は5千,孝治の兵は千強。

香上軍は圧倒的優位に立っていたはずだった。
しかし結果は,孝治の大勝に終わる。

孝治は,降伏を装って香上方を油断させた上で,
奇襲攻撃をしかけたのであった。

香上方は,狼狽も甚だしく結局,
指揮官 屋代邦教(やしろ・くにのり)を討たれてしまうこととなっている。

白川家は今や完全に孝治のものとなっていた。

興徳20年(1474),孝治は,遊興に耽り続けている主 邦顕を
国主として不適当であるという理由をもって追放する。

自らが邦顕をそう仕向けたにもかかわらず。

この直後,孝治は,

「わたしは,かつてこの湖庭地方を領していた姫村氏の末である。」と称し,

「姫村」の苗字を名乗るようになった。

姫村家は,広奈帝国の建国に際して功績があった随一の名門である。

さらに孝治は,一条智綱率いる花岡同盟に参加して,
朝廷から旧白川領の領有と姫村姓を名乗ることを正式に認められるに至った。

元は名門とはいえ,没落家系に生まれた一介の流れ者が,
諸侯の地位にまで上った瞬間であった。


姫村孝治 香上家との争い

香上家は早速,雪辱に動き出した。

孝治は,白川邦顕を追放してから8か月後には,
早くも1万の香上軍を迎え撃たなくてはならなくなった。

姫村軍は3千,今回も圧倒的に不利であった。
しかし,孝治は戦術でこれを覆してみせた。

香上軍先鋒は,桃熊(ももくま)川を渡ると,
鬱蒼とした草むらを押し分けて猛進し,
前方に見えた姫村軍の囮部隊を粉砕しにかかった。

しばらくして姫村軍囮部隊は敗北。
香上軍先鋒はいよいよ勢いに乗り,後退する姫村軍囮部隊を追いたてる。

このとき,香上軍の後続は,桃熊川を渡り終え,
川岸の草むらを越えようとしたところだった。

瞬間,草むらから姫村軍の伏兵が現れて,
香上軍後続の背後へ向けて猛然と襲いかかる。

同じ頃,香上軍先鋒も
姫村軍囮部隊の左右から突如現れた別の姫村軍伏兵に攻め立てられ始めた。

ここに至って香上軍は,姫村軍によって完全に包囲され大敗を喫したのであった。

以後しばらくの間,姫村家に対する香上家の矛先は鈍ることになった。

香上家は,桃熊川での惨めな敗北によっておおいに威信を失墜させた。
従来は,香上家に従っていた月形(つきがた)湖以西(いわゆる湖西地方)の小領主達は,
途端に香上家と距離をおくようになる。

孝治は,こうした小領主達を次々に取り込んでみせた。
その様子はまさに日の出の勢いといった感があった。

ところが,孝治にとって無視できない大事が起こる。
孝治も参加している花岡同盟の盟主 一条智綱が薨去したのである。

花岡同盟は以後,緩やかに解体していくこととなった。

興徳25年(1479),香上家は,雪辱を狙って,みたび姫村討伐の軍を進発させたのであった。

香上方の総大将は高原邦頼(たかはら・くにより),
兵力は1万である。

迎え撃つ姫村方は,3千。
香上軍は,今度こそ姫村軍を一飲みにしてやろうと媛丘攻撃を開始しようとした。

しかし香上軍はこのとき,すでに姫村軍によって完全に包囲されていた。
実は,姫村軍は四手に分かれていた。

その内,媛丘に籠もっていたのは一隊だけで,
残る三隊は,媛丘近郊の各所に潜んで香上軍が来るのを待ち構えていたのである。

そうとも知らず,香上軍は,姫村軍伏兵の輪の中に布陣してしまったのであった。

戦闘が始まると,香上軍の側面や後方へ姫村軍の伏兵が襲いかかった。
姫村軍が全軍,前方に見える媛丘の中に籠もっているものと思いこんでいた香上軍は,
思いもよらぬ方向からの攻撃に周章狼狽した。

結局,姫村軍は今回もまた,香上軍相手に大勝を博したのであった。
これを機に,香上属下の小領主たちは続々と姫村方に鞍替えを始めるようになる。


姫村孝治 香上主従の離間

今や,湖西の大半は姫村氏の諸領となっていた。

しかしながら,湖西には依然として香上方に属している者も少なくなかった。
その代表とも言えるのが朝妻(あさつま)の領主 青山邦継(あおやま・くにつぐ)であった。

興徳27年(1481),姫村軍は,湖西から香上氏の勢力を駆逐するため,朝妻へと攻め寄せた。

ところが,姫村軍は緒戦で青山邦継に奇襲をくらうと,
以後,戦場で勢い振るわず帰還を余儀なくされてしまった。

姫村軍が朝妻を掌中に収めたのは1年後,邦継が亡くなったのちのことである。

この後,孝治は香上家を弱体化させるために,
ある策を講じた。

香上家重臣 津島邦貴(つしま・くにたか)を,
香上家当主 師邦(もろくに)に殺害させたのである。

師邦は,孝治がばら撒いた流言と偽の書簡に騙されてしまい,
津島邦貴が姫村家と通じていると思い込んだのである。

これを機として香上家は大乱となった。

師邦が殺害した津島邦貴は,
香上家臣団の盟主といっても良い存在だったからである。

香上家臣団は主君 師邦におおいに反発し,
興徳31年(1485),長期に渡る反乱を起こすに至った。

香上家中が大乱となったことを見て取った孝治は,
積極的に軍を動かして,香上属下の諸豪を次々に攻め立てて併呑していった。

2年に及ぶ抗争の後,
香上師邦とその家臣団はようやく和睦にこぎつけたが,
湖西地方はすでに姫村氏の制するところとなっていたのであった。

天啓2年(1487)師邦は,失地回復を狙って湖西へ軍を進めようとしたが,
その軍は月形湖上で姫村水軍に撃破され,あえなく霧散することとなる。

このころ,中央で新たな動きがあった。
事実上解体していた花岡同盟が今原具行(いまばら・ともゆき)の手によって復興されたのである。

しかし具行は結局,本領で美好氏との闘争を抱えるようになったため,
中央での勢力確立には消極的にならざるを得なかった。

そのため,花岡同盟が智綱時代ほど力を持つことはなかった。
それでも,花岡同盟の枠組みは,
香上氏と争う姫村氏にとっては大きな救いとなっていた。

花岡同盟の諸侯 河本家が,
同盟に抵抗する香上家の打倒を積極的に狙っていたからである。

姫村家の躍進

湖西を制した孝治は,続いて湖南地方へ進出するきっかけを得た。

天啓3年(1488),湖南の山村家で内訌が起こり,
その結果,一門の実延(さねのぶ)に追放された山村家当主 賢実(かたざね)が,
当主の座を奪還すべく姫村家を頼ってきたのであった。

孝治は,賢実を支援して実延と戦ったが,
実延は南条氏を盟主とする海陽地方の諸侯連合を後ろ盾にして孝治・賢実連合に対抗した。

孝治は,駅家(えきや)の戦いで海陽諸侯軍をかろうじて打ち破り,
賢実を山村当主として復帰させることに成功した。

だが,それも結局一時のことに過ぎなかった。
翌天啓4年(1489),雪辱を誓う海陽軍が電撃的に賢実を山村家本拠 中宮(なかのみや)から追い出したからである。

賢実は,再び孝治を頼って湖西へと落ち延びてきた。

香上家は当然,このような状況を姫村家打倒の好機と見て取った。
ここに至り,姫村家は北の香上と南の海陽諸侯から挟み撃ちを受ける格好となった。

しかし,孝治は
「香上師邦は,河本との決戦で手一杯。
海陽軍と組んで我が領土を襲うにしても積極的には動かないだろう。」と考え,
専ら狙いを海陽軍のみに絞った。

案の定,香上家が姫村領を窺おうとすると,
河本家が香上家を窺うという状況がうまれ,香上軍と海陽軍の連携は思うに任せなかった。

孝治は,香上軍に対する防備を園生治駿(そのう・はるとし)に任せ,
自身は海陽軍に全力を傾注した。

天啓5年(1490),奥田原(おくだはら)の戦いで海陽軍を大破した姫村軍は,
そのまま山村家本拠 中宮を奪い返し,
今度こそ賢実を山村家当主に返り咲かせることに成功した。

こののち天啓7年(1492)には,姫村属下の草津氏が香上・海陽連合に滅ぼされるという事態が生じるが,
孝治は,海陽諸侯の同盟を離間策によって分断させることで対抗した。

以降,海陽軍は姫村領へは侵攻してこなくなる。
そこで孝治は,今度は香上氏に全力を傾注,天啓8年(1493)には,湖南全域を制圧するに至った。

ところが湖南平定戦から帰還した直後から,
孝治は体調を崩すようになり,
翌天啓9年(1494),本拠 媛丘で波乱に満ちたその生涯を閉じることになった。

けれども,これで姫村家の勢力が衰えてしまうようなことはなかった。

孝治の嫡男 明治(あきはる)は英邁な性質であり,
家督継承後,二人の弟 治元(はるもと)や治豊,
さらに名将らに支えられて着実に勢力を拡大,
徐々に香上家を追い詰めていくのである。

その明治が,自身の子 治邦(はるくに)を養子に入れて,
ついに香上家を乗っ取ったのは,
孝治の死からちょうど50年後,清正15年(1544)のことであった。