安達宗治(あだち・むねはる)は,首州広奈時代後期の諸侯・政治家。安達政権の祖。
安達宗治は,興徳7年(1461),
海西南部の小諸侯 安達藤治(あだち・ふじはる)の嫡男として生まれた。
「諸侯」とは,爵位と領国とを広奈国皇帝から賜っている者のことである。
広奈国が諸侯に与える爵位は,
最上位から,公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順となっていた。
「男爵」の安達家は,諸侯としては最下級であったと言える。
爵位を持たず,朝廷からは「諸侯」の配下として見なされているような「領主」と比べても,
男爵程度の諸侯は,貧しい存在であった。
たとえば,香上氏の配下であった「領主」白川氏は,
動員兵力1万程度の勢力であったが,
安達家は,「諸侯」でありながら2千弱の兵しか持たない弱小勢力であった。
乱世ともなれば,こうした弱小勢力が生き残ることは難しくなる。
当然,彼らは他の大諸侯に庇護を求めることを余儀なくされる。
つまり身の安全を保障してもらうかわりに,
「諸侯」としての誇りを捨てるのである。
「諸侯」としての誇りとは,何か。
皇帝以外の何者にも「家来扱い」されないということである。
安達家は,宗治の祖父 利治(としはる)の代に今原家に庇護を求め,
「諸侯」でありながら,皇帝以外の者に「家来扱い」される屈辱的立場に立つこととなった。
当時の海西地方では,
北部の今原,西部の北,南部の諏訪の三氏が三つ巴の抗争を繰り広げていた。
安達家本拠 舞丘(まいおか)は三氏の勢力圏がちょうど,重なり合う場所にあり,
そのために歴代の当主 利治,藤治らは,情勢に応じて三氏のいずれかに属した。
しかし,いずれにせよ「家来扱い」されることに変わりはなく,
安達家は,「主君」と仰いだ「諸侯」のために度々,遠征に駆りだされる羽目になった。
興徳28年(1482)の父 藤治の死により,宗治は家督を継ぐこととなったが,
このとき安達家は,今原家に属していた。
当然ながら,宗治にも今原家の「家来」としての境遇が待っていたのである。
既に,宗治は,今原氏の重臣である内藤行平(ないとう・ゆきひら)の娘 寛子を正室とし,
今原家中に組み込まれていた。
しかし,宗治は,祖父や父よりもはるかに野心家であった。
「いずれ必ず,花岡公(=一条智綱)を超える天下人になってみせる。」
幼少のころ,宗治は周囲にそううそぶいた。
周囲の者の中に,宗治の言葉を真に受けるものなどほとんどいなかった。
ただ,宗治の師たる福科智成(ふくしな・ともなり)だけは,
宗治の言葉を聴くとほほえみながらうなずいてみせるのであった。
宗治が家督を継いだ翌年,中央で大変事が起こった。
興徳帝が崩じたことを契機として,
第五皇子詮邦が,異母兄に当たる皇太子 詮宗を都から追放したのであった。
いわゆる癸卯の変である。
詮邦皇子は,そのまま皇帝の号を称し,元号を景福(けいふく)と定めた。
無論,太子派は,景福帝を皇帝とは認めず,元号も「興徳」を使用し続ける。
智綱の生前,花岡同盟の諸侯らは,
皇太子 詮宗を即位させることで同調したはずであった。
ところが,平泉氏や平山上原氏などは,花岡同盟の有力諸侯でありながら,
智綱の死後は,詮邦皇子の共立を画策するようになっていく。
そしてついに癸卯の変では,一条家に反旗を翻して詮邦皇子を担いだのであった。
ここに至って智綱が生涯をかけて築き上げた花岡同盟は,
当の智綱の死からわずか6年目にして事実上の崩壊を迎えることとなってしまった。
しかし乱世は,智綱に替わる「覇者」の存在を求めてやまない。
にもかかわらず,平泉氏や両上原氏,京極氏などは,智綱の代役としては力不足であった。
彼ら畿内の諸侯は,互いにほとんど同程度の勢力を有する諸侯であったから,
結局は激しく対抗心を燃やして朝廷での主導権を争うに至ったのである。
この争いは,やがて武力によるものへと発展するのであり,
景福帝が即位して1年も経たないうちに,
畿内では諸侯の戦が絶えない状況となってしまった。
一方,都を追われた詮宗皇子はこのころ,
母の実家である今原家の庇護を受けていた。
無論,その頭の中には,
今原家の力を借りて景福帝を打倒してやろうという企図がある。
今原家は,従前より花岡同盟に参加しており,
首内東部・海西西部に跨って勢力を張る北氏や海西南部の諏訪氏らと争っていた。
やがて諏訪氏は,重臣 坂井氏によって乗っ取られたが,
癸卯の変が勃発したころ,今原家はその坂井氏をも滅亡させて,
北氏の勢力も海西から追い出し始めていた。
ここに至って北家は,海西での勢力を維持するべく,
海西西北部 鈴見地方の防備を増強した。
しかし,興徳32年(1486),
今原当主 具行が自ら4万の兵を率いて鈴見地方へ乗り込んでくるにおよび,
北軍はあえなく粉砕されてしまうのであった。
こうして北氏の勢力は海西地方からは完全に駆逐され,
首内東部に逼塞するに至ったのである。
今原家は海西の覇者となった。
人口およそ600万,動員兵力20万弱。
その国力は智綱時代の一条家に倍するものであった。
北家を鈴見地方から追い出し,後顧の憂いもなくなっていたことから,
今原具行は,ついに太子 詮宗を奉じての入京を決意する。
入京軍の総勢は,10万にも達した。
その中には,安達宗治の姿もあった。
東国の今原家の動きに,
西国からも一条家が同調した。
一条家の当主は,
すでに智宣から,その嫡男智継(ともつぐ)へと替わっている。
智継は智宣よりは,聡明であった。
このため,智継の代に入ると一条家の勢威は,
少しずつ回復し始める。
やがて,一条家を目のかたきにし続けてきた大神朝高も,
八十代で大往生を遂げた。
朝高の後継 頼高は,
自身の器量を良く理解している人であったから,
父 朝高に遠く及ばない自分では,
一条家に抗し続けるのは不可能と判断,
一条家と和睦する道を選んだ。
大神家という後顧の憂いが消えたことによって一条家は,
折しも入京軍を起こした今原具行に呼応することができたのであった。
結局,一条智継は太子 詮宗のために5万の軍を動かす。
今や広京の景福帝は,
今原と一条に東西から挟撃される形となった。
この間まで,朝廷での主導権をめぐって争っていた
平泉・京極・両上原ら畿内の諸侯は,
この事態を受けてようやく協力関係を取り戻す。
今原・一条両家の軍勢は,破竹の勢いで進軍し,
ついに新駅(しんえき)の地で合流を果たした。
今原・一条連合軍15万は,
都の北の入り口とも言うべき加住(かすみ)の地で,
畿内諸侯の連合軍7万と最終決戦に及んだ。
結果は,今原・一条連合軍の大勝に終わる。
数の上から見て,当然の結果といえた。
入京後,太子 詮宗は正式に即位,
「天啓」(てんけい)の元号を立てる。
このため詮宗は後世,天啓帝と呼ばれる。
天啓帝は,自身を即位させてくれた具行を左大臣に,
また一条智継を右大臣に任命した。
この二人を中心とする新政権は早速,
諸国と連絡をとって,ついに花岡同盟を再興するに至る。
ところが,翌天啓2年(1487)にはもう,
今原氏の覇権は脅かされ始めた。
海西で美好重時(みよし・しげとき)が北氏と組み,
今原氏に反旗を翻したからである。
美好氏当主 重時を動かしたのは,安達宗治であった。
「今原軍主力は,目下のところ都にあり,
本領たる海西の地は手薄となっております。
まさにこれは今原領を切り取る絶好の機会です。」と宗治に言われ,
野心家たる美好重時はその気になった。
しかし,天下人に背くには,それなりの大義名分が必要となる。
重時の大義は「君側の奸たる 今原具行を除く」というものであった。
美好方は「今原具行が天啓帝を傀儡にし,
あまつさえその御位の簒奪を図っている。」と天下に喧伝する。
美好重時は,今原氏の入京軍に参加していたのだが,
たちまち海西ヘ立ち戻って挙兵,
今原方の諸都市を攻略しにかかる。
無論,安達宗治も美好軍に参加して今原軍掃討に尽力した。
この功で宗治は,重時から加増を受け,兵5千を動かせる勢力へと成長している。
今原具行は,美好軍に対処するため,
帰国を余儀なくされた。
以後,今原軍のいなくなった都は,
一条軍があずかることになる。
具行が,本拠 青綾に戻ったとき,
すでに真秀川(まほがわ)以南のいわゆる河南地域,
および真秀川河口周辺のいわゆる河口(かこう)地域は,
美好方の占有するところとなっていたのであった。
天啓3年(1488),失地回復を目指す今原軍は,
美好氏本拠 甘港(あまみなと)を目指して南下した。
美好氏は,これを式道(しきどう)の地で迎え撃つ。
今原,美好両軍の対峙は一か月近くに及んだが,双方ともに決定打を欠き,
ついに決着はつかないままとなった。
こうしたことを踏まえて天啓4年(1489),今原具行は,情勢の打開をはかるべく,
美好氏の南の背後を占める川上氏と同盟を組んだ。
早速,川上氏は美好氏の勢力圏へと侵入してきた。
ここに至り安達氏は,対川上戦線の最前線に立たされることになってしまった。
宗治は,重時に救援を要請すると同時に,
舞丘の近郊に伏兵を配して川上軍を待ち受けた。
川上軍が,舞丘に攻撃を仕掛けたとき,安達の伏兵が川上軍の背後を襲う。
混乱する川上軍へ,今度は舞丘の内にいた安達勢がすかさず攻撃を仕掛けた。
川上軍は多勢が幸いして総崩れこそ免れたものの,
態勢の立て直しを余儀なくされることとなった。
このあたりから川上陣中では2つの意見が対立しはじめる。
あくまでも,安達氏を攻略するべきであるとの意見と,
今回は,兵を引くべきであるとの意見である。
こんな状態であるから,川上軍は全く勢いが振るわない。
結局,美好の安達救援軍が舞丘に接近中であるとの報を得ると,
ついに川上軍は引き上げを選択したのであった。
宗治の活躍により,南方からの軍事的圧力を退けた美好重時は,
天啓5年(1490),今原遠征を敢行した。
北上してくる美好軍を,今原軍は海西中部の要地 伴瀬の地で迎え撃つ。
このとき,北軍が美好軍と呼応して今原領を襲う手はずとなっていたが,
北軍1万は出陣しながらも,情勢を傍観するのみで積極的な軍事行動を控えた。
この北軍の傍観に助けられた今原軍は,伴瀬防衛に全力を傾ける。
結局,美好軍は,万全の防御体制をとる今原軍をついに破ることができず,
対峙一か月の後,ゆるゆると本領へ引き上げていくはめになったのであった。
美好,今原両氏が膠着状態に陥る影で,宗治は着実に勢力を拡大していた。
中でも,七相(なない)の諸侯 南家を乗っ取ったことは大きかった。
南家当主 国廉(くにかど)と正室 雛(ひな)の間には男子が生まれなかった。
そのため国廉は,側室の産んだ長男 時廉(ときかど)を南家の嗣子としていたのであった。
ところが,時廉は若くして病死してしまい,同母弟の輔廉(すけかど)が嗣子となる。
けれども,輔廉は嗣子になったとたん,
人が変わったように凶暴になってしまう。
輔廉は,やがて南家を揺るがす事件を起こした。
始まりは輔廉が,弟の幹廉(もとかど)・経廉(つねかど),いとこの利保(としやす)の三人に
言いがかりをつけたことだった。
どういうわけか,輔廉は,三人が,
自分の悪口を吹聴して回っていると誤解したようであった。
身に覚えのない言いがかりに,三人は戸惑うばかりであったが,
それがかえって輔廉を激昂させた。
ついに輔廉は,二人の弟と利保を斬殺し,
そのまま逃亡,自害してしまうのであった。
輔廉には,嫡男があった。
しかしながら南家では,当主の国廉も家臣も,
怪事件を起こした輔廉の系統を後継候補とすることを良しとしなかった。
また,この事件で,南家の声望も衰えてしまった。
ここにいたり国廉は,正室 雛の甥である安達宗治に養子縁組の話を持ちかけた。
そこには,南家の体制を刷新し,声望を回復させるため,
勢いを増しつつある宗治の力を借りようという国廉の意思があった。
結局,美好重時が斡旋する形をとって,宗治の弟 治続が南国廉の養嗣子となった。
天啓7年(1492),治続は改名して,義廉(よしかど)と名乗る。
義廉の義父 国廉は,翌年,今原家との戦いに従軍して戦死し,
ついに義廉が南家の当主となった。
事態がすべて安達家の都合の良いように運んだので,
時廉の病死と輔廉の乱心は,
いずれも宗治が何らかの策謀をめぐらせた結果なのではないかという憶測も飛んだ。
真相は藪の中というほかないが,
ともかくも宗治は南家を乗っ取り,それによって優秀な水上戦力を手にしたのであった。
美好氏と今原氏の勢力は,なおも均衡状態にあった。
しかし,その均衡は突如として破られることとなる。
天啓8年(1493),今原当主 具行が薨去したからである。
美好重時は,この時とばかりに大挙,今原領を襲う。
具行の後を継いだ具尚(ともひさ)は,みずからこれを迎え撃つことにした。
両軍は,またも伴瀬の地で激突する。
具尚は,温室育ちの御曹司と言ってよい人物であった。
戦に出た経験はそれなりにあるものの,
彼には決定的に指揮官としての才能が欠落していた。
これでは百戦錬磨の美好重時の相手になるはずもない。
やがて戦端が開かれると,美好軍は徐々に後退を始めた。
具尚は,これを美好軍が敗退し始めているものと思い込んで,
自軍を一気に突出させる。
具尚は,美好軍の中央を突破する気であった。
しかし美好軍の後退は,
具尚を陥れるための罠だった。
突出しすぎた今原軍は,
いつしか美好軍の懐深くに包み込まれる形となっていた。
この間に美好軍の遊撃部隊は,
今原軍の後方へとすばやく回りこむ。
こうして今原軍は,美好軍によって完全に包囲される形となり,
壊滅的打撃をこうむる結果となった。
今原当主 具尚は,勇将 花倉行貴(はなくら・ゆきたか)の働きによって
辛くも美好軍の包囲を脱し,
無事,本拠 青綾へ帰還することに成功した。
しかし,伴瀬での惨憺たる敗北は,
今原家の威信をおおいに傷つけるものとなった。
結果として,今原方から美好方へと鞍替えする諸侯が相次ぐようになる。
天啓9年(1494),こうした状況を機に宗治が動いた。川上氏に使者を派遣したのである。
その目的は,川上氏を今原方から美好方へと鞍替えさせることにある。
「先の戦い以来,美好家は今原を圧倒し始めております。
重時公は,このまま一挙に今原家をたたこうと考えておいでの様子。
しかし,今原を攻めるとき,後顧の憂いとなっている者があります。
重時公の後顧の憂い,それは川上殿,あなたにほかなりません。
重時公は,今原に止めをさす前にまず,
あなたを攻め滅ぼそうとなさるに違いありません。
そのとき,力を失った今原ではあなたを救援することなどできますまい。」
と安達の使者は,川上当主 清秀に懇々と説いた。
清秀はもっともなことだと思い,
ついに今原と絶縁,美好家に臣属する道を選んだのであった。
いよいよ劣勢に立たされ始めた今原方は,新たな手を打った。
北氏との講和,及び同盟である。
これまで北氏は,美好方と組んで今原氏に敵対していた。
しかし,今原方が二見地方を差し出すことを提案すると,
北家当主 詮房(あきふさ)は,たちまち美好氏と手を切って今原氏と講和,
あまつさえ同盟まで結んだのである。
北氏との同盟樹立により,
今原方はかろうじて土俵際に踏みとどまった形になった。
しかしそれでも完全に態勢を立て直すところまではいかない。
ここにきてもなお,今原から美好へ寝返るものがちらほらと出ていたのである。
中でも今原家にとって大きな衝撃となったのは,
天啓10年(1495)に,金山の点在する山吹地方の小諸侯 中山義直が,
美好方へと転じたことであった。
山吹地方の金山はこれまで,
常盤有数の金産出量を誇ってきた。
それだけにその喪失は,
今原家の財政に取って大きな打撃となったのである。
情勢は,一気に美好方に味方するかに見えた。
ところが,またしても突如として事態は一変する。
天啓12年(1497),美好家でも,当主 重時が逝去したのである。
重時の後を継いだのは,彼の嫡男 重直(しげなお)であった。
彼はいまだ年若く,その手腕は未知数と言うほかなかった。
重時の死により,美好陣営には若干の動揺が生じた。
つい2年前,今原方から美好方へと転向した山吹地方の中山義直が,
今原方へと戻ってしまったのである。
乱世とはいえ,いかにも節操のない話ではあった。
今原家は,この時とばかりに美好遠征を敢行した。
先の伴瀬の戦いで失った,海西中部の支配権を奪い返すのが目的である。
今原軍は,北軍と共同戦線を張った。
美好方は,今原軍と北軍の挟撃を受けて敗退をくり返し,
ついに伴瀬・成沢(なるさわ)地方を失陥するに至る。
勢いに乗った今原・北連合軍は,美好領を東西に分断すべく,さらに南下してきた。
美好方の重鎮となっていた安達宗治は,
自身の本拠 舞丘とは真秀川を挟んで対岸にある,砂岡に陣を敷いた。
砂岡は,“岡”とは言うが,真秀川の川砂が堆積したいわば,湿地帯である。
宗治は,さらにこの頃ようやく出回り始めた新兵器「鉄砲」をも持ち込んだ。
常盤へ鉄砲を持ち込んだのは,イストラ人や,ペルトナ人である。
南海諸島や海東の日生国,安達家の本拠がある海西には,
15世紀の後半に入って続々と西洋の船が来航するようになっていた。
さて,今原・北連合軍は,砂岡に攻め寄せた際には,
6万にも膨れ上がっていたという。ところが……
連戦連勝の状況に加えて,
今や美好方を圧倒する兵力を持つ今原・北連合軍は奢っていた――
さしたる作戦を練ることもなく,砂岡の安達宗治の陣を攻めた。
足場の悪い湿地。大軍は動きを鈍くした。
そこへ,新兵器「鉄砲」の斉射である。
今原・北連合軍は,大混乱に陥り,
気がつけば,5分の1程度の安達勢に打ち破られていた。
それも惨敗である。
今原勢は,花倉行貴や吉木尚毅(きつき・ひさたけ),
中町行師(なかまち・ゆきもろ)らの勇将と万を超える兵士を失った。
砂岡の一戦で,形勢は逆転,
ことに,歴戦の宿将と多くの兵士を一時に失った今原家の衰退は顕著であった。
宗治の正室 寛子の兄 内藤行年は,これを機に美好方に鞍替えしている。
天啓13年(1498),せっかく取り戻した山吹の金山を美好方に奪い返され,
翌年には,鈴見地方も失って,北家との連絡まで遮断された。
宗治は,ここで再び動く。
花岡同盟以来,今原家と親交の深い,藤真家を美好方に引き込んだのである。
藤真氏は,もともと,北海の諸侯であったが花岡同盟下で勢力を蓄え,
畿内東部にも勢力を伸ばしていた。
ところが,親交が深かった一条家は,
帝国の覇者から西国の一諸侯へと転落してしまい,
藤真氏の南の盟友 今原家もこのところ勢力の減退が著しい。
ちょうど,藤真家は孤立したような形になっており,
宗治に誘われて美好方に鞍替えしたのも無理からぬことではあった。
天啓15年(1500),美好重直は,藤真軍との挾撃により,
今原家から首北の静加地方を奪った。
重直は,今原攻撃の手を休めない。
宗治の進言にしたがって,今原本拠の青綾を孤立させにかかる。
「青綾は,海西でも随一の備えをもっている。
一挙に攻め落とすことは難しく,
孤立させて,じっくりと包囲の輪を狭めてゆくのが良い」
というのが,宗治の考えである。
毎月のように今原方は支城や拠点を失った。
そして,やがて完全に青綾は美好方によって包囲された。
もはや,美好の勢力圏を突破して直接,青綾を救援できる諸侯は,皆無である。
無論,花岡同盟の諸侯らは,
海上から青綾を救援しようとする動きも見せた。
しかし,兵船をだそうとも,青綾への補給を図ろうとも,
そうした動きはことごとく美好方によって阻止された。
ついに天啓帝の皇后の実家でもある名門 今原家は,
諸侯としての終わりを迎えた。
天啓19年(1504),今原当主 具尚は降伏,美好重直によって幽閉の身とされてしまった。
海西を制した重直は,いよいよ,畿内へ進出する。
一条氏の覇権を継いだ今原家は滅んだが,
当の一条氏は,西国で健在であり,その勢力を盛り返していた。
かつては,花岡同盟に対抗できる連合勢力は広奈国内に存在しなかったが,
いまや,美好家は単独で花岡同盟を凌ぐほど強大化した。
ここにいたり,一条氏を盟主とする連合を西軍,
美好氏を盟主とする連合を東軍とも称するようになる。
天啓20年(1505),両者は,西軍諸侯 京極氏の領内,鶴見の地で激突した。
西軍は,一条軍5万,これに次ぐ河本氏1万5千や京極氏1万,
沢渡氏5千などを軸としており,
その他,中小諸侯の軍勢を含むとその合計,およそ10万。
東軍は,美好軍6万,藤真軍2万,安達軍1万,川上軍8千などを軸とし,
その他の軍勢を含め総勢は,およそ12万であった。
対陣は1か月以上にも及んだが,
結局,安達勢が一条軍の背後へ迂回して,
300丁ばかりの鉄砲をうちかけながら突入したのを皮切りに,各所で激戦となった。
西軍は,主力の一条勢が混乱状態となり,
戦死者数千,負傷者数万という甚大な被害を出して敗退した。
一条一族の重鎮であった綱貴,京極当主の元久は,壮絶な討死を遂げている。
勝った東軍でも,美好軍の驍将 石田時景が戦死し,
美好重直の弟 重村が重傷を負い,西軍同様万を数える死傷者を出すことになった。
東軍には,広京へ引き上げる西軍を追う余力はなかった。
美好重直は,一旦,海西に戻り態勢を立てなおすことにした。
ところが,海西に引き上げてきた重直は,
突如として謀反を起こした馬淵頼忠(まぶち・よりただ)によって,討たれてしまった。
これを事件が起きた天啓21年(1506)の元号と干支から,
天啓丙寅(てんけいへいいん)の変と呼ぶ。
馬淵氏は,美好家譜代の臣で,
頼忠は3代に渡って美好家に仕えてきた長老格の重鎮でもあった。
その発言力も非常に大きかったため,
美好家の当主権力の強化を図る重直にとっては,
煙たい存在でもあった。
結果,重直と頼忠の仲は年々,
険悪なものとなっていったという。
加えて,独裁的な重直は,
有力家臣を度々,粛清している。
「次は,頼忠の番では……」
という噂がまことしやかにささやかれるようになるまでに
そう時間はかからなかった。
頼忠が,保身のために謀反を起こしたとしても
不思議ではない状況ではあった。
とはいえ,頼忠が謀反に走った実際の理由は,
今もって定かではない。
しかも,頼忠の挙兵は,
周到さにかけているようにも見える。
協力者の姿が見えないのである。
そして,重直暗殺を,
馬淵氏単独による計画であることをいち早く見通したのが,
安達宗治であった。
宗治は,重直の嫡子 国重を奉じて馬淵討伐の兵を起こした。
こうなると大義は宗治の方にある。
美好傘下の多くの諸侯・領主が宗治のもとに集い,
その軍勢は5万を数えるまでになる。
他方,頼忠が集められたのは馬淵氏の兵のみであり,
その数は1万8千と宗治方に大きく劣っていた。
安達軍と馬淵軍は,睦城(むつき)の地でまみえたが,
結果は安達軍の大勝であった。
馬淵討伐の指揮を採った宗治は,
一躍,美好傘下における筆頭諸侯となる。
美好家中での影響力を大きく増した宗治だが,
その権力は,まだ盤石とは言えなかった。
美好家中には,宗治を敵視する勢力もいたからである。
その筆頭が,有間直久である。
有間家には,二流ある。
吉井の有間家と塔摩の有間家であった。
以前から宗治と親しく,
陸戦において宗治を大いに支えてきたのは吉井の有間歳久,
美好家中の大諸侯で強力な水軍を有し,
以前より美好重直と親しかったのが,塔摩の有間直久であった。
吉井の有間家が本家であり,
塔摩の有間家は,各務国時代に本家から分かれ出た家である。
しかし,このころその勢力は,
塔摩有間家の方が段違いに大きかった。
美好家中は,安達派と塔摩有間派に分かれていた。
宗治が,美好家の政務を独断で行うようになると,
有間直久は,これを激しく糾弾した。
一時,両者は武力衝突寸前にまで至っている。
しかしながら,直久は,このころ病を得ていたと言われており,
程無く身罷ってしまった。
事態は急展開をむかえる。
直久の子 博久(ひろひさ)が,謀反を企てているという報が,
突如として美好家中を騒がせるようになった。
宗治が,博久に追及の使者をおくると,博久は,
「謀反人に謀反人呼ばわりされるのは,むしろ誇らしい。これほど愉快なことはない」
と大笑したという。
かくて安達派と塔摩派は,武力衝突にいたる。
海西中南部に固まる安達派領国は,
海西北部・東部に散らばる塔摩派領国に半包囲されている格好であった。
塔摩派は,派内の双璧である南の有間直久と
北の八田時定を中心とした軍が,宗治を挟み撃ちにするべく動いた。
しかし塔摩派討伐に動いた宗治は極めて軽快であった。
宗治は当初,塔摩有間氏の拠点 絹川を攻撃した。
ところが,北から時定が南下してくると,
たちまち,時定攻撃に転じ,慌てる時定の軍を壊走させてしまった。
その後,宗治は,本拠 諸岡に篭る時定を攻撃し,
八田氏重臣 十時定祐(ととき・さだすけ)を調略によって内応させた。
これが,決定打となって八田氏は滅亡をむかえてしまう。
片方の翼をもがれた形となった塔摩派は,
塔摩に逼塞することになる。
美好家中における優勢を宗治が確立しつつあることを見て取ると,
美好家の同盟者であった川上氏も,安達家との友好を望んだ。
川上軍は宗治の求めに応じて,塔摩征伐の軍に加わった。
塔摩は陥落,博久は自刃し,塔摩有間家は滅亡したのである。
宗治は完全に美好家中を掌握した。
戦後,宗治は,吉井有間家から養子を出させ,
塔摩有間家を復興させている。
復興した塔摩有間家の当主となったのは,
有間歳久の長男 有間治久である。
海西では,また新たな事態が生じた。
天啓22年(1507)の北詮房の逝去である。
かつては,今原,美好と並んで
海西三大勢力の一角を担っていた北家では,
嫡流が詮房の死によってとだえてしまったのであった。
北家中は,諸派閥が様々に運動し,
お家騒動の前夜といった様相を呈し始める。
安達宗治は,母が北家の出身であることを理由に、
弟の治輔を北家に入嗣させるべく,北家中の主流派を取り込んだ。
治輔は、北家の家督を相続し,この後治房と改名している。
その一方で,北家中には,
傍流の晴房を当主に推す声も強かった。
晴房派は,首内の河本詮尊を後ろ盾として安達宗治に対抗する姿勢をみせた。
以後、安達家と河本家は北家の掌握をめぐり
激しく衝突することとなったのである。
河本氏の時の当主は,詮尊(あきたか)という人物であった。
詮尊は,なかなかの傑物であった。
状況判断に優れており,先の鶴見の戦いでも,
敗北した西軍の中にあって,最も死傷率が低かったのが河本勢であった。
大勢力となった安達家と事を構えるにあたっても,
詮尊は,いち早く後背地の安全を確保しにかかっている。
仇敵であった香上家と和睦したのである。
また,要衝である河津(こうづ)の地に城塞を築いて防備を固めた。
安達宗治は,5万を河津攻略に差し向けたが,
専守防衛に徹する河本軍からこの地を奪うことは出来なかった。
しかし,宗治はこれで河本討伐を諦めたわけではなく,
河津,沢口といった真秀川中流の港湾では,
こののち嘉徳2年(1510),同4年(1513),同9年(1517),同11年(1519)と
十年近くにわたり,安達,河本両軍が数度,対峙することになるのである。
そして,真秀川上の水上戦では,
宗治の弟 南義廉の南水軍や塔摩有間水軍が活躍した。
このころ,宗治に「美好家当主」として奉じられた国重は,
もはや完全に傀儡といってよかったが,
天啓24年(1509),突如として宗治討伐の兵を挙げる。
「国重挙兵」の事実は,宗治による捏造とも言われているが,
結局,国重は,石田景悦(いしだ・かげよし)・
宇野忠理(うの・ただまさ)らの腹心とともに安達軍によって討たれ,
美好家は滅亡にいたるのであった。
かつて,美好家を盟主としていたいわゆる「東軍諸侯」は,
すでに宗治を自陣営の実質的な盟主とみなしていたが,
ここにいたり,宗治は名目の上でも,東軍の長となったのである。
何より宗治は,祖父の代以来失っていた
「皇帝以外には家来扱いされない立場」を
ついに取り戻したのであった。
この年,都では天啓帝が崩御した。
天啓帝には,皇子がいなかったため,
従前より帝は従弟を後継と定めていた。
新帝の御代となり,元号は嘉徳と定められた。
久方ぶりに騒乱のない帝位継承であった。
ところで宗治は,折しも繁栄していた南蛮貿易を独占するべく,
内海全域の制海権を握ろうと画策していた節がある。
そのためには,亜州へ進出しなければならないのだが,
かつて順正帝の攻勢を前に結束していた亜州の諸国は,
再び相互に激しく抗争するようになっていた。
亜州では,名和国が,後瑞穂国に取って代わられ,
その後瑞穂国と後志賀国が激しく覇を競い,
日生国は,首都である久礼を奪った緒土国に反抗を仕掛けていた。
宗治の目には,こうした亜州の状況は付け入るべき隙に見えたのかもしれない。
ちょうど,亜州の緒土国では,国王 経久が亡くなり,
その後継をめぐって内乱が勃発していたのだが,
これは,宗治が調略を持って緒土国内に親安達派を形成させて
王国の取り込みを図ったことが契機で起こった内乱だとも言われている。
親安達派の前久(さきひさ)と反安達派の朝和(ともかず)が,
いずれも緒土国王を称して抗争していたのであった。
ちなみに,後志賀国は,前志賀国と区別するために,
湯来(ゆき)氏が建てた王朝であることから,
湯朝(とうちょう)と呼ばれ,
後瑞穂国は,古代の瑞穂帝国と区別するために,
綾湊(あやのみなと)宮家が建てたことから,
綾朝(りょうちょう)と呼ばれる。
綾朝は元々、安達氏の亜州進出を警戒しており、
緒土国反安達派の朝和を支援していた。
しかし,綾朝が,内海進出を果たしたことから,
綾朝と朝和の仲は悪化する。
親安達派であった前久は,朝和を討とうと,
綾朝に接近した。
安達宗治は,前久の綾朝接近に厳しい態度を示す。
前久は綾朝への接近を中止する。
宗治は、綾朝討伐を決意した。
嘉徳7年(1515),緒土国前久派は、宗治の要請に応じ、
南義廉、有間歳久ら安達軍10万を綾朝領へ先導した。
これに対し綾朝は,猛将 里見泰之(さとみ・やすゆき)が、
3万を率いて有間歳久を奇襲,大破した。安達軍は,撤退を余儀なくされる。
綾朝は,建国以来最大の危機を乗り越えたのであるが,
反対に安達宗治は,美好家を乗っ取って以降,最大の危機をむかえたのである。
宗治による亜州遠征の失敗は,たった一度の敗北によるものであるが,
それは順正帝の失敗を連想させるものに他ならない。
しかも宗治は,まだ「覇者」としての権力を確立したばかりである。
一度の失敗が,安達家の勢力を崩壊させる致命傷になりかねない。
そうした中で,嘉徳8年(1516),宗治は海陽地方への遠征を敢行した。
盟友である川上氏からの救援要請を受けたことが,きっかけであった。
海陽地方では,東部の川上氏を中心とする勢力と,
南部の南條氏を中心とする勢力の抗争が長らく続いていた。
当初,優勢であった川上氏は,嘉徳元年(1509),壁川(かべかわ)の戦いで
南條方の連合軍に大敗を喫し,以来,苦境に立たされ,
連年,勢力圏を後退させていた。
ここにいたり,海陽統一を目指す南條方は,
川上氏に止めを刺すべく,
ついにその本拠 高良(たから)にまで迫ってきたのである。
その数,2万。
高良に籠もる川上勢は6千であった。
宗治は,
本領の留守を賢臣 秋山政時に任せると,
盟友を救うべく,自ら4万を率いて舞丘を出た。
南條方は,安達軍の到着前に川上氏を滅ぼしてしまおうと,
高良に猛攻をかけたが,川上勢の抵抗は激しかった。
また,安達軍の行動も迅速であり,
南水軍・早良(さわら)水軍が安達軍を載せて南下した。
圧倒的物量を油断なく動員した安達軍の到着により,
南條方は大破され,本領の財満(ざいまん)へと引き上げていった。
しかし,南條方は依然として安達家に抵抗する姿勢を示した。
安達軍は,矢代口,虎伏(とらぶせ)口,安浦口の三路より
南條方の勢力圏へと侵攻した。
矢代口では,本宮(ほんぐう)氏が抵抗の構えを見せたが,
有間歳久率いる安達軍の総攻撃の前に,わずか2日で降伏した。
これにより安達軍の勢いを知った周辺の諸豪は,次々と安達方に鞍替えした。
歳久は,亜州遠征失敗の汚名を見事にそそいだのであるが,そこには,
「勝敗は兵家の常。歳久ほどの良将が敗将の醜名を着つづけるのは惜しい。
挽回の機会を与えたい。」
と考えていた宗治の配慮があったという。
さて,安浦口では,安達方の早良比良(さわら・ひら)率いる早良水軍が,
財満南條氏の傍流にあたる南海衆を撃破した。
早良勢はそのまま,南海諸島まで遠征,南海衆の勢力圏を制圧する。
三路のうち,最大の難所でもある虎伏口では,ひと月を超す長期戦となったが,
南條家当主 堯晴(たかはる)は,
「もはや,こちらの劣勢は明らか。虎伏を抜かれるのは時間の問題」
と考え,ついに安達軍への降伏を決めたのであった。
宗治の南攻は成功し,
安達家は先の亜州遠征失敗で迎えた危機を脱したばかりか,
より一層の勢力拡大を果たしたのである。
宗治の南攻の隙を衝いて,河本詮尊が動いていた。
詮尊は一条家をも誘って安達本領への侵入を狙った。
陸路を行くのは,名将 四方堂尊国(しほうどう・たかくに)率いる河本軍,
真秀川の水路を行くのは,黒瀬顕時(くろせ・あきとき)率いる河本軍である。
その数4万。
対する安達方は,有間治久・北治房ら2万5千。
当初,陸路において四方堂尊国の誘引により,
治久の弟 久続(ひさつぐ)が突出しかけたが,
真秀川で船上にいた治久が急使を出して間一髪,久続を制止した。
誘引を看破された尊国は,持久の構えをとる。
「宗治は,先に亜州での戦を失敗させた。
にもかかわらず盟友たる川上氏を救うだけではなく,
長駆して南海にまで進んでいる。
安達本領は不安定な状態であり,つけいるのは今である。
また仮に宗治が南海を制して本領へ戻ってきたとしても
その軍は疲弊しているだろう。
さらに,こちらは,一条公も安達領へ軍を進められた。
負けにくい局面である。」
というのが河本・四方堂主従の考えであり,
だからこその出兵でもあった。
しかし,一条軍は藤真軍によって進撃を止められた。
宗治も無事に南海を制した。
その上,河津を守る安達方の将 有間治久は若いながら,
隙を見せない。
ここに至って河本軍は,引き上げを選択した。
折しも,都で変事が起こる。
嘉徳10年(1518),皇太弟 詮晴が廃されたのである。
新たに,帝の実子である詮秀皇子が
嘉徳帝の太子に立てられた。
もともと嘉徳帝には男子がなく,
それゆえに弟 詮晴を後継者としていた。
ところが,実子が誕生したことで,皇太弟 詮晴の立場は危ういものとなった。
実子を可愛がる嘉徳帝は,
次第に詮晴を疎んじるようになり,ついに廃するに至ったという。
詮晴は廃された後,我が身の危険を大いに感じ,
危難が迫るより早く都を出,東軍盟主である宗治のもとへと落ちのびた。
宣昭帝以来,帝室は花岡同盟および
その枠組みを引き継いだ西軍を頼みにしてきた。
しかし,詮晴皇子は,より勢力伸長が著しい東軍の方を頼ったのである。
宗治は,詮晴皇子を帝室の正統を継承するべき人物として迎え,
かつて初代皇帝 始元帝や九代皇帝順正帝が行宮としていた
水奈府を御所として整備した。
「君側の奸を除き,詮晴皇子を皇太弟として復帰させる」
それが,宗治が掲げた名分であった。
つまり,嘉徳帝自体を直接否定するのではない。
嘉徳帝を惑わせようとする奸臣が朝廷を席巻しているので,
そうした現状を改めるという立場を採ったのである。
宗治は,西軍からの寝返りも視野に入れて,
西軍と親しい関係を保つ嘉徳帝を否定することは避けたのであった。
西軍内にも,皇太弟 詮晴を廃して詮秀皇子を皇太子に立てた嘉徳帝の決定に対し,
疑問をもつ向きがあったからである。
いきなりあからさまに東軍に鞍替えするという西軍諸侯はいなかったが,
戸惑う諸侯もいた。
すでに皇太弟が廃された段階から,
西軍内にはすくなからず,動揺が生じていた。
宗治の方針は,西軍陣営にくさびを打ったことは確かである。
ここにきて,河本詮尊は,西軍崩壊の危機を感じ取っていた。
それだけに,
「宗治は,真に陛下に忠義を誓うものではない。
宗治は,陛下と詮晴皇子を利用するだけの者に過ぎない。
宗治にいいようにさせては,帝室は危機をむかえる」
と,こちらも名分を掲げ宗治討伐の軍を起こした。
嘉徳11年(1519),宗治の入京を防ぐため,
河本軍,水陸4万は,安達の勢力圏にある沢口を攻撃したのである。
宗治は,自ら沢口に入ったが,
堅守の姿勢を崩さず,決戦を避け続けた。
対陣は3カ月に及んだが,
結局,大規模な衝突はなく,両軍ともに引き上げたのであった。
翌年,安達・河本両家は和睦した。
両家の抗争の発端であった,北家については,
宗治の弟 治房を正式な家督継承者とすることで決着した。
北家の所領については,現状維持となった。
つまり,現時点で安達方が制している地域は,
宗治の弟 北治房の所領,
河本方が制している地域は,
河本家が北家当主に推していた北晴房の所領と定められたのである。
従前より,宗治には,
入京のために後背地の安全を確保したいという思いがあった。
また,河本側も周囲の状況は,厳しさを増していた。
同盟者である香上家や本田家が,
姫村家や新名家といった新興勢力に押されだしたからである。
ところで,姫村氏と河本氏は元々,
ともに花岡同盟に参加する盟友であった。
しかし,姫村氏は、より強大で勢いある宗治の方に将来性を見出した。
こうして,姫村氏は,花岡同盟に起源をもつ西軍を離れ,
安達氏を盟主とする東軍に参加したのであった。
ともかく,背後を安定させたい安達側と
周囲の情勢を好転させたい河本側の利害は一致し,
両者は十年来の敵対関係にひとまず終止符を打った。
事態は急展開を迎える。
嘉徳13年(1521)広京で嘉徳帝が崩御したのである。
皇太子となっていた詮秀皇子が践祚したが,
無論,詮晴皇子を奉じる宗治は,これを認めない。
宗治は,河本氏と和睦して後背地が安定したこともあり,
この機を捉えて入京することにした。
安達の入京軍,総勢12万。
対する詮秀皇子側は,その半数,6万しか集められなかった。
西軍陣営は詮秀皇子の正統性をめぐって揺れていた。
というよりも,分裂したと言った方が正確であろう。
詮秀皇子の援軍要請に,
一条智成や河本詮尊などは応じなかったのである。
詮秀皇子は,畿内の平泉・久瀬両氏,
湾陰の本田氏の軍のみで,
安達軍を迎撃することになったのである。
河首の高田・秦(はた)氏なども,
詮秀皇子を支援していたが,それら諸侯は都からは遠く,
しかも,近隣に敵対諸侯を抱えていたため,
詮秀皇子を救援することはできなかった。
広京近郊,向原の地で平泉氏ら詮秀皇子方の軍を大破した安達軍12万は,
意気揚々と入京した。
詮秀皇子は,自害して果てる。
詮晴皇子は践祚し,やがて章仁の元号を建てる。
宗治は左大臣に昇進し,名実ともに天下人としての道へ踏み出すことになった。
安達政権の始まりである。時に宗治62歳。
章仁2年(1523),宗治は,章仁帝の詔に仮託して,
西軍諸侯に上京を促した。
ところが,一条智成,沢渡城(きずく)などは,
章仁帝の即位を認めながらも,
「宗治は,自身の権勢のために陛下を利用する者。
安達氏にくみすることはできない。」
として上京を明確に拒否し,
河本詮尊・香上義邦などは態度を明確にしなかった。
宗治は,まず,一条・沢渡両氏の討伐に動いた。
安達軍と一条・沢渡連合軍は,
西国から畿内への入口ともいうべき要衝,松下の地で対峙する。
松下で一条・沢渡両氏と安達軍が対峙すると,
河本詮尊は,安達氏との和約を破棄,
平泉氏や香上氏を誘って安達討伐軍を仕立てた。
さらに詮尊は,背州の海賊をも煽動し,
安達氏を牽制させる。
安達氏は,西軍に包囲されることになってしまったのであった。
さらに,直堂(じきどう)派と呼ばれる宗教勢力も反宗治の輪に加わった。
いわゆる直堂一揆である。
直堂派は,当初,安達政権に従う姿勢を見せた。
しかし,安達政権は,所領の直轄検地,人事への介入,信徒の直接把握など,
直堂派に対して内部介入を強めていく。
ここに至り,直堂派の堂主である周昭(しゅうしょう)は,
直堂派の自立性を保つため,松下の会戦に乗じて西軍と連携し,
安達政権に反旗を翻したのであった。
危機に陥ったかに見える宗治であったが,その対処は敏速であった。
宗治は,一条・沢渡連合軍に対する備えとして,
有間歳久・治久父子を残して都に帰還すると,
自身は,河本・香上・平泉氏らの討伐へと赴く。
また,畿内各地で蜂起した直堂派には,
苛烈極まる徹底した弾圧を持って臨んだ。
この間,背州の海賊はいち早く,早良比良が打ち破っている。
宗治率いる安達本軍には,藤真氏、京極氏の軍が加わっており,
また新名、紗耶(さや)、姫村などの諸氏は,
宗治の号令に従って河本領や香上領へと侵攻する。
畿内南部の平泉氏は,宗治に反旗を翻した後,
河本・香上両軍が畿内に到達するのを待っていた。
しかし安達軍は,河本・香上両軍の到着よりも早く平泉氏に猛攻をしかけ,
これを大破,滅亡させる。
河本・香上連合軍は,畿内と首内の境目である要地 中島の地に陣取り,
安達軍を邀撃する態勢を整えた。
地の利は先に布陣した河本・香上にあったが,
指揮系統と物量では安達方に利があった。
河本・香上が対等な連合関係であったのに対し,
安達方(東軍)は,主導権を宗治が握っている軍である。
また,河本・香上両氏は,
麾下の諸領主の意向に影響されやすい体制を有していた。
一方,安達方は,美好氏が始めた当主権力の強化を一層推進して,
集権的な体制を築き上げていた。
つまり当主宗治の命令が障害なく伝達・実行されやすい体制だったのである。
社会は変動し,新しい機構が必要とされ始めていた……
河本氏が割拠する首内地方や香上氏の湖庭地方と比べて,
宗治がのし上がってきた海西地方は,一足早く新時代へ突入していたのである。
結局,指揮系統と物量の利を活かした安達方が,
河本・香上連合軍を圧倒する形となった。
香上軍が甚大な被害を出して壊滅,これにより河本軍は側面攻撃を被る。
河本詮尊は,本拠 生原への退却を即断,名将 四方堂尊国が殿軍を努め,
大敗の中でありながら河本軍の被害は最小限に抑えられた。
戦後,河本・香上両氏は、安達側の条件を受け入れ、所領の一部を割譲して降伏する。
割譲された領土は新名、作耶、姫村氏などに分配された。
また,河本傘下の北晴房は所領を没収され,
その所領は,宗治の弟 北治房に与えられた。
北家の家督継承騒動は,ここに至ってようやく完全なる終結を見たのである。
宗治は,首内・湖庭での国分を終えると,すぐに松下へ戻った。
一条・沢渡連合軍は,有間歳久・治久父子を攻めあぐねていた。
そんなところへ,宗治が安達本軍を率いて戻ってきたのである。
宗治に最後通牒をつきつけられると,
ついに,一条・沢渡両氏は宗治に降伏を申し出た。
ここに西軍は崩壊した。
西軍の敗北により,「天子」を「奉戴」する宗治を,
「君側の奸」として排除しようとする勢力は消滅した。
直堂派は,連携し得る相手が消えたために勢いを失った。
常盤の地に国を開いたとも言える古代瑞穂帝室の末裔であるとして,
広奈国君主は,皇帝号を称した。
瑞穂帝室の血脈は千年,連綿と続いてきた。
「皇帝」の持つ精神性は,ある種「信仰」のような力を持つようになっていた。
帝王という存在を否定し,貴族共和制を続けてきた日生国でさえも,
「隣国の皇帝」には,敬意を表した。
ここにいたって,直堂派上層部の知識人階級は,「朝敵」となることを恐れた。
無論,抵抗継続を唱えるものもあったが,周昭を始めとする主流派は,降伏を選択した。
3年に及んだ直堂一揆の終焉であった。
そして,直堂派は内部抗争を展開し始める。
この内部抗争は直堂派の勢力を減じるために,宗治が仕組んだとされる。
宗治は,自身の実力と朝廷の威光をもとに政権運営を行う。
位階も官職も章仁帝の御名のもと,安達政権によって与えられるものとなり,
また実際の所領や職分に即したものとなった。
さらに,諸侯を安達政権への貢献度・血統を複合的に勘案して格付けし,爵位を与えた。
また,安達政権は,諸侯の領地についても加増や削減,移転,没収など,
ほぼ意のままに断行できた。
実際,松下の会戦の際,安達方の新名氏を攻撃した本田氏や,
同じく安達方の紗耶氏を攻撃した秦氏などは,戦後,所領を没収されている。
安達政権は,皇帝権力を背景とした帝国の復興を企図した。
結果として,身分秩序は厳格なものとなっていく。
従来,広奈国時代の首州や同時期の亜州では,
海西・海東や首北など先進的な地域では,身分制からの解放が興っていた。
寺内町などでは,宗教性に基づいた身分秩序の軟化が見られた。
また,社会一般でも,諸侯・士族・庶人など身分の区別はありながらも
身分同士の力関係は,均衡していく傾向があった。
つまり,庶人が一揆契約を結んで,
士族・諸侯に抵抗する事例も頻発していたのである。
無論,士族層も一揆契約を結んで,諸侯を牽制していた。
安達政権は,こうした社会の分権化を追認する形で制度設計をするのではなく,
過度の分権化を抑制する方向性を打ち出した。
広奈国は,惣無事令・兵農分離・相国検地などにより中間支配層が解体され,
安達氏による政権が,直接的に諸階層を統御する新しい封建制へと移行したのである。
それは,美好氏が海西で実施していた諸政策の発展形でもあった。
さらに,安達政権は,新たなる貿易国を迎えることにもなった。
フリギスの商人が来航し交易を求めてきたのである。
従来から,常盤に来航していたペルトナやイストラは,
フリギスへの敵愾心から,宗治に対して
「フリギス人は海賊である」
などと悪し様に吹きこもうとしたのであるが,
宗治は取り合わず,フリギス(後のレーヴェスマルク)との交易を開始した。
安達政権は,これ以後,リーフランドとも通交を開始するなど,
活発な貿易活動を行って,西洋からの文物や技術を本拠地である海西地方に蓄積していく。
直堂一揆,本田氏や秦氏の残党などによる一揆,
また相国検地に抵抗する各地の諸領主らの抵抗も,今や沈黙した。
広奈国内の戦乱は完全に終結したのである。
かつて一条智綱も成し得なかった帝国の再統一という大事業を成し遂げた宗治は,
章仁5年(1525),太政大臣へと昇進し,
幼少時の言葉の通り名実ともに「花岡公を超えた」のであった。
やがて宗治は,更なる栄典をも受けることとなる。
章仁帝は,
「朕を大いに輔けて,大乱を鎮め,社稷を安んじたことは,
古今類を見ない忠義と大功である。」
として,宗治に准三后(じゅさんごう)を受けさせたのである。
准三后とは,「三后に准ずる待遇」という意味を持つ。
三后とは,太皇太后・皇太后・皇后のことを表す。
つまり,准三后を受けたということは,
皇族並みの待遇を受けるということである。
しかも,宗治は,章仁帝の皇子のうち,
自身の娘 順子(なおこ)が生んだ詮貴を皇太子に立てることに成功した。
安達氏は,外戚となったのである。
さらに,章仁7年(1527),宗治が太政大臣の位を退くとその位には,
宗治の嫡男 元治が就いた。
太政大臣の位は,安達本宗家によって世襲されることになったのである。
宗治以降の安達家は,後世,相国(=太政大臣)家と称される。
発展する安達政権であったが,危機は突如として訪れる。
宗治の後継者である元治が,太政大臣位就任の翌年,薨去してしまったのである。
宗治は,元治の嫡男 正治を後継者に定めた。
しかし,宗治は
「元治は,余と共に苦労し,また思慮に優れ,人をよく見て適材を適所に配した。
守成に長けており,後を託すのに頼もしく思うところがあった。
しかるに,正治は,安達の家が随分と大きくなってから生まれ,
経験も少なく,未だ若い。
また,軽薄なところも見える」
と,正治の経験と器量に不安を感じていたのである。
宗治は,一門の結束を強化するとともに,一門の若手育成にも腐心し,
若手筆頭格であった甥の北元房を参議とした。
また,早良比良・有間渉遊(治久)ら賢臣を公卿に列し,
正治の周囲を固めていく。
老齢となった宗治は,次代を睨んだ体制整備にいそしんでいたのであるが,
章仁10年(1530)には,章仁帝が,崩御する。
11歳の皇太子 詮貴が帝位を継ぎ,
やがて清正(せいせい)の元号が建てられた。
宗治は,自身の孫を皇帝として戴く身となった。
ところがこの頃より宗治は,病床に伏し,
清正3年(1532),ついに薨去した。
享年72。
前年に,新帝の即位の礼が行われたばかりであった。
宗治は,首州を統一した。
しかし,その勢力を,亜州にまで及ぼすことはできなかった。
常盤全土に平安が訪れるのは,今少し後の世のこととなる。