新名梓 概要

新名梓(にいな・あずさ)は,広奈時代後期の武将・諸侯。

新名優(にいな・すぐる)の嫡男。


英雄の末裔

新名氏は,古代に左末(さま)国を築いた英雄 志賀の末裔と言われる。

志賀は,湾陰を制したが,
志賀の後継者も左末国の勢力を順次拡大させていったという。

志賀の六代後の王 志貴の代に左末国は全盛期を迎え,
その版図は湾陰・湾陽・河首・湖西にまで及んだという。

志貴の時代,常盤では左末国の他に,
海西の諏訪国,首北の美保(みほ)国,多治(たじ)国,
首内の久能(くの)国,海東の烏兎(うと)国,
海陽の久慈(くじ)国などの勢力が有力であり,互いに覇を競っていた。

中でも諏訪国は急速に台頭して抜きん出た存在となっていたのだが,
志貴は,美保国や久能国などと結んで,諏訪国に対抗,
衣奈(えな)の戦いでは諏訪国軍に大勝した。

志貴は,反諏訪連合の英雄として大いに名声を高めたが,
盟友の裏切りにあって諏訪国に捕らえられ処刑されるという悲劇的な末路を迎えてしまう。

英雄 志貴を失った反諏訪連合は,諏訪国に各個撃破され,左末国も滅亡してしまった。

国の滅亡により,王室の本流は断絶したものの,いくつかの傍流は残った。

そのうちのひとつが,新名氏につながる。

志賀の末子 巨勢(こせ)に始まる一族である。

この一族は,左末国滅亡の時に当主 金手(かなで)に率いられて,
諏訪国の力の及ばなかった,河首南部に逃れた。

やがて,金手は,諏訪国より国譲りを受けた瑞穂国の不二による河首制覇に協力し,
故地に近い河首北部の遊井(ゆい)で諸侯に封じられ,
早摩奏(さまの・かなで)を名乗った。

家を復活させた奏(金手)は,諏訪国時代の逃亡生活の中で,正妃も側室も失っており,
遊井に落ち着いた老境にさしかかって,新たに世利姫という若い娘を正妃に迎えた。

やがて,世利姫は,奏の八男となる武(たける)を生んだ。

武は,父 奏にはもちろん,兄弟にも大いに可愛がられたといい,
やがて遊井地方の要衝 新名を所領として与えられる。

新名氏の始まりであった。

奏の血統で,広奈時代まで残ったのは,
この武の新名氏のみであった。

古代瑞穂では諸侯には公・侯・伯・子・男までのいずれかの爵位が与えられ,
諸侯の臣や,下位の廷臣には,名爵・士爵という爵位が与えられた。

武は,諸侯の分家の当主として,朝廷から名爵に叙せられた。


梓誕生

新名氏は広奈国時代,
湾陰地方の甘波(かんなみ)というところに本拠を構える小領主であり,
高山氏に仕えていた。

新名氏は,武以来,所領と爵位を保ち続けてきたのである。

武の子孫達は千年を生き残ったのであり,
守成には恐ろしく長けていたと言える。

しかし,新名氏には危機が訪れた。

名島の乱の後,新名氏の主君 高山顕斉(あきなり)は,
正妃が一条智綱の姪である縁もあって,智綱率いる花岡同盟に参加し,
反花岡派の諸侯である両日野氏や秦氏と争っていた。

しかし顕斉は,蘇我日野氏との戦いで戦死,
後を継いだのが若年の利斉(としなり)であったために勢いを失う。

次第に高山氏の家政は,
重臣の岩倉氏によって壟断されていくようになった。

ここに至って新名氏は,親岩倉派と反岩倉派に分裂する。

親岩倉派には新名融(とおる)の一党と新名譲(ゆずる)の一党があり,
反岩倉派は甘波の新名啓(ひろむ)の一党であった。

高山氏領国では,台頭する岩倉氏になびく者が多く,
結果として反岩倉派に属する甘波新名家の勢いは振るわなかった。

しかし,啓なき後状況は変わる。

啓の後を継いだのは,
啓の従弟である誉(ほまれ)であった。

啓に男子が生まれなかったため,後継と定められたのである。

新名氏は,始祖の奏以来,一字名である。

さて,誉の時代には,花岡同盟が全盛期を迎えていた。

反岩倉派は連携して,主君の母の実家である一条家に訴えた。

「今や主君 利斉は,岩倉氏の単なる強欲によってのみ押し込められております。

岩倉の一族は日に日に驕慢となり,
真に主君に忠義を尽くそうとする者をことごとく害して行くありさま。

あまつさえ,岩倉氏には,
両日野氏や秦氏,大神氏と親しく連絡を取りあっている節がうかがえます。」

智謀をもって鳴らす一条智綱が,
こうした流言めいた一方的な訴えを信じるはずもない。

しかし,高山利斉の母は,一条智綱の姪である。

そんな利斉が下克上で打倒されれば,
花岡同盟の威光に傷がつく。

いや,一条の血を引く利斉が傀儡になってしまっている現状が
すでに智綱にとっては,看過できない状態と言えた。

智綱は,岩倉氏を潰す機会をうかがっていたとも言える。

結局,智綱は,反岩倉派の訴えに乗った。

真偽はともかく岩倉氏は,
様々な証拠を揃えられて逆賊とされ,
花岡同盟から追及を受ける立場となった。

これにより,岩倉氏と誼を通じていた高山領内の諸領主は,
手のひらを返すように岩倉氏を見限った。

ついに岩倉氏は,高山氏の領国から追放されるに至る。

この後,高山利斉は,岩倉氏の旧領を,反岩倉派の領主たちに分配,
さらに,親岩倉派であった諸領主を圧迫していく。

結果として親岩倉派に属した領主は,主君 利斉に対し一揆を起こした。

しかし,花岡同盟が利斉を救援,一揆勢は鎮圧される。

一揆に参加していた新名融は戦死,一族も滅ぼされた。

この後,一揆に不参加であった新名譲も,
長男 扶(たすく)を廃嫡して,誉の三男 理(さとる)を養子に迎えている。

扶に謀反の嫌疑がかかったためと言われている。

こうして新名氏は誉の下に統一された。

誉は,新名氏の中興の祖と言って良いが,
彼の事業は,誉の嫡男 優(すぐる)ではなく,
孫の梓(あずさ)が引き継いでいくこととなる。

新名梓は,天下人 一条智綱が薨去した翌年の興徳23年(1477),
新名優の嫡男として甘波で生まれた。


家督相続

一条智綱の力を背景に実権を取り戻した高山利斉は若くして亡くなり,
またも,幼主が高山家を相続することになった。

利斉の長女 慶子(よしこ)を正室としていた梓にとっては,
この幼主は義理の弟である。

幼主斉英(なりひで)を補佐したのは,
高山氏にとって譜代の臣である本田斉清(ほんだ・なりきよ)であった。

かつて,岩倉氏がそうであったように,
本田氏も幼主を傀儡にして家中の実権を掌握していく。

岩倉氏は,花岡同盟の盟主 一条智綱の怒りを買って滅亡に追い込まれるが,
その智綱は,すでにこの世の人ではない。

花岡同盟も智綱に比肩しうる新たな盟主を得られずに衰退していた。

高山氏を下克上から守ってくれる勢力はもはや存在しなかったのである。

本田斉清は,斉英成人後も斉英に実権を返さなかった。

そして天啓6年(1491),斉清は斉英を攻撃した。

斉英が河本氏や蘇我日野氏と結んで本田氏打倒を図ったためである。

新名優はこの時,斉英のために,反本田の兵を挙げ,
本田氏の猛攻を受けることとなる。

「当家は,帝国(広奈国)の始め,
始元帝の股肱であった高山之斉(たかやま・ゆきなり)公に従って,
功を認められ,始祖の地とも言えるこの甘波を与えられたのである。

奸悪なる本田斉清を討ち果たし,今こそ主家の大恩に報いねばならぬ。」

新名優という人は,
心の底からこういう考え方をする人であり,
側近の唯暁広(ゆい・あきひろ)に勝算について追及され,
諌められても挙兵をやめなかった。

結局,斉英や優が頼みとした河本氏や蘇我日野氏は,
斉英の救援には消極的であった。

本田氏が,高田氏や香上氏,秦氏と結んで
河本氏や蘇我日野氏を牽制していたからである。

そのうえ,斉英は,同じ西軍諸侯である姫村氏とは疎遠であった。

斉英は,三島姫村氏を成り上がり者として嫌っていたのである。

結局,斉英は,本田軍に攻め滅ぼされた。

新名軍は本田軍に大敗し,傘下にある多くの領主の離反を招いた。

本田斉清は斉英の又従兄弟にあたる 斉尋(なりひろ)を高山氏の当主に据えた。

優は,挙兵に失敗して以降,病気がちとなり,
天啓13年(1498),ついに家督を嫡男の梓に譲って隠居する。

梓は,父を否定する言動を一切取らなかった

新名梓とは,そういう人であった。

新名氏は引き続き本田氏と対立する道を選択する。

本田氏に対抗するため,
梓は,斉尋を説得して疎遠だった高山家と姫村家の関係を改善させた。

天啓14年(1499),梓は自領 坂牧(さかまき)に攻め寄せてきた本田軍を,
姫村の客将 紗耶正信(さや・まさのぶ)との連合で撃退している。


甘波籠城

坂牧での勝利はしかし,ささやかなものであった。

引き続き勢威を誇る本田氏との抗争の激化を睨んで梓は,
天啓15年(1500),本拠 甘波の防衛強化を図る。

従来,常盤の都市は街壁を持たなかったが,
長引く戦乱の中で,状況は変化した。

城下の都市も土塁や石塁,濠を巡らせる
総構(そうがまえ)という防衛体制を採りはじめるようになった。

甘波も梓によって,
二重三重に濠と石塁を巡らせた堅固な構えを持つこととなる。

このころ,もはや何の権力も持たされていなかった高山斉尋であるが,
坂牧での本田軍敗北を見て,本田氏打倒を決意し,
梓のもとにも協力を求める密使がやってきた。

梓は,時期尚早であるとして,主君 斉尋を諌めた。

しかし,斉尋はあくまでも決起の構えを崩さず挙兵する。

結局,新名軍も斉尋のために出陣したが,
梓の予測通り斉尋の軍は本田氏に大敗,
新名軍も多くの損害を出した。

天啓17年(1502),斉尋は一族とともに自害,高山氏は滅亡した。

新名氏を始めとする反本田勢力は,
河本詮尊の庇護によりかろうじて滅亡を免れていたが,
天啓18年(1503),新名氏本拠 甘波には,
本田氏の大軍が押し寄せてくる。

新名方2千,本田方2万だったとも伝えられる。

梓は,甘波を堅く守って動かなかった。

甘波は,真秀川支流である結川(ゆうかわ)に面しており,
周囲は当時,湿地帯であった。

しかもその守りを梓が増強したばかり。

本田軍は,城兵に十倍する兵力を持っていたのであり,
それは常識的には攻城に十分とされる兵力比である。

本田軍は強攻を選択した。

しかし,湿地に足をとられて,
城内からの矢の雨の的になるばかり,
たちまち攻めあぐねてしまう。

本田方はなんとか新名勢を甘波から引っ張りだそうと,
甘波の周囲にひろがる田畑や集落を焼き払うなどして挑発を仕掛けた。

ところが,梓は一向に乗らない。

いよいよ,長期戦の様相を呈してきた。

本田軍が甘波に釘付けになっている状況を見て,
これまで傍観者であった河本軍が動く。

本田領へ侵入したのである。

本田方には,動揺が走り,梓は,これを見逃さなかった。

新名軍は,夜襲を決行した。

突如として,静から動へと転じた新名勢の攻撃に本田軍は大混乱に陥り,
甚大な被害を出した。

しかも,引き上げる本田軍は,
甘波の救援にやってきた姫村の客将 紗耶正信に襲撃され,
ここでも惨敗した。

河本詮尊などは,
混乱する本田家中に調略を仕掛け,
家永氏を寝返らせている。

しかしながら,本田氏の停滞は,
一時のことでしかなかった。

連年,本田氏は,蘇我日野氏の領土を蚕食し,
天啓21年(1506)に至って,ついに蘇我日野氏を滅亡に追い込んだ。

そして新名家では,戦勝から程なく,梓の父 優が亡くなった。


三氏連合

広奈国内の情勢はめまぐるしく動く。

天啓20年(1505)に,美好氏を盟主とする東軍と
一条氏を盟主とする西軍が激突した鶴見の会戦があり,

翌21年(1506)には,東軍盟主 美好重直が暗殺された天啓丙寅の変が起きた。

そして,美好氏に取って代わった安達宗治が台頭してくる……

特に,安達氏の勢力伸長は,
新名氏を取り巻く環境に大きな変化をもたらした。

このころ,旧高山領国内は,
ほぼ四分の三を本田氏が制している状態であった。

残りの四分の一は,新名氏を始めとする反本田勢力であったが,
これらの勢力は依然として河本氏の庇護を受けていた。

その河本氏は,安達氏と抗争しはじめると,
後背地の安全を確保するために,
これまで,敵対していた本田氏,香上氏を西軍に引き込んで講和したのである。

ここに至って,新名氏は,本田氏と敵対する限り,
もはや河本氏の庇護を得られなくなってしまった。

梓は,

「本田になびいてしまっては,死して後,父に合わせる顔がない。」

として,河本氏ら西軍とは断交する道を選び,
安達宗治に進物を献じ誼を通じたのであった。

この梓の姿勢は,隣国の姫村氏と歩調を合わせるものでもあった。

姫村氏も,安達氏に属して西軍から東軍へと転じていたのである。

姫村氏の客将であった紗耶正信も,
天啓21年(1506)に河本家から沼原(ぬはら)の地を奪うと,
独立した群雄としての道を歩み始めていた。

天啓22年(1507),新名・姫村・紗耶の三氏は,
西国における東軍勢力として攻守同盟を結んだのであった。

とはいえ,本田氏が西軍に属したため,
新名氏は,新たに強大な敵を迎えることになった。

有帆日野氏である。

天啓23年(1508),本田・日野連合軍は,
新名氏と姫村・紗耶との連絡の遮断を狙って,
結川沿いの要衝 川島へ進撃してきた。

姫村・紗耶両氏も,新名氏を救援する。

3万を数える本田・日野連合に対して,
新名・姫村・紗耶の三氏連合軍は,1万6千程度であったというが,
新名軍の拠点である川島の守りは堅い。

このため,本田・日野連合軍は,
要地を占める三氏連合を攻めあぐねた。

両軍は,対陣一月余りの後,停戦を約して引き上げている。


本田斉清の死

梓は,有帆日野氏の勢力を殺ぐべく調略を仕掛けた。

日野氏と日野家中の有力者 冴島氏を反目させたのである。

日野氏当主 詮親は,祥親の代から始められた諸侯権力の強化政策に,
躍起になって取り組んでいた。

勢力圏における日野氏の存在を,
連合体の盟主程度のものから,
絶対的な支配者へと変えようとしていたのである。

それは,日野氏だけでなく,
この当時,各地の多くの群雄が取り組んでいる課題でもあった。

しかし,群雄が権力強化を図れば,
その傘下の領主達は,自己の領主権を奪われていくことになる。

それは,群雄に対する諸領主の反発を招くことになる。

日野氏の領国は,
日野氏の権力と傘下の諸領主の危うい均衡の上に成り立っていた。

姫村孝治は,かつて香上氏当主に津島邦貴という有力領主を殺害させて,
香上氏と香上家臣団を反目させたが,
梓はこれとはまた違った形で,
群雄と領主層の危うい均衡をうまく利用する。

冴島氏は,新名氏と連携をとって日野氏に反旗を翻した。

冴島氏にしてみれば,日野氏の傘下にいるより,
新名氏の盟友になった方が,独立性を保てる。

また,新名氏が危うくなっても,
日野氏の下に戻ればよいだけの話である。

群雄が自領国での権力を確立しきっていないこの当時,
そうした「出戻り」は,多く咎めを受けずに認められていたのであるから。

天啓末年(1509),冴島氏に背かれた有帆日野氏は,
本田氏の援軍とともに冴島氏を攻撃するため軍を動かしたが,
成功しなかった。

本田軍が戦線離脱したためである。

これは本田家で,当主の斉清が急死したのが原因であった。

斉清の後継となったのは,その嫡男 信熙であった。

しかし,信熙は元来,病弱であり,
家督継承からわずか1年で継嗣のないまま亡くなってしまう。

信熙の後は,その従弟である信茂が継いだが,
病弱な当主を間に挟んで短期間に繰り返された当主の交替は,
確実に本田家を弱めてしまった。

攻勢を強める新名軍は,本田氏の勢力圏へ連年侵攻し,
岩井氏や杉森氏などの有力領主を降したばかりか,

嘉徳4年(1512)には,
要衝 平岡へ侵入してきた本田方の中村顕繁を敗死させ,
翌年には,逆に中村氏を攻め滅ぼすなど勢威を示している。


小原崩れ

冴島氏を日野氏に対する防波堤とし,
梓は,結川流域を確保,いよいよ真秀川本流への進出を図っていた。

真秀川は,常盤一の大河であり,
首州を横断しその河口は内海に注いでいる。

しかも内海の東には亜州がある。

真秀川へ出ることは,
つまり常盤全土とつながる道へと打って出ることでもあった。

新名軍は,真秀川の要衝 吉羽(よしわ)への進出を企図し,南下した。

吉羽はかつて蘇我日野氏の支配下にあった土地である。

吉羽には,蘇我日野氏の旧臣もおり,
特に長老格である中川総政(なかがわ・ふさまさ)は,
主家を滅ぼした本田氏に従いながら,
主家再興の機会をうかがっていた。

嘉徳7年(1515),梓は,密かに総政と連絡をとる。

「私も本田の家に,主家を滅ぼされた身です。

かつて,本田は謀反人でしたが,その後,西軍にうまく取り入って,
高山候と蘇我伯(蘇我日野氏)の領国の領有を認めさせてしまいました。

かつて,花岡公が国の秩序を守るためにお創りになった西軍は,
今や,謀反を助長するばかりになっています。

もはや,西軍に頼ることはできないと思い,
私は東軍や志ある諸侯と結びました。

それは,父の宿願でもある謀反人の追討を果たすためでもありますが,
帝国に秩序を取り戻すためでもあります。

どうか,中川殿の力をお貸しください。

貴殿が蘇我の内より我が軍に呼応してくださいましたなら,
本田勢を東へ逐うことができます。

そうすれば,蘇我伯をお迎えして日野の家を再興できるでありましょう。

共に,戦いましょう。」

梓の密書を受け取り,総政は,新名家への内応を約束した。

ところが,総政の新名家への内応は,
吉羽の守将 片貝清寿(かたがい・きよとし)に露見してしまう。

清寿に屋敷を襲撃された総政は,
激闘の末に壮絶な戦死を遂げた。

甘波から南下し小原に進出した新名軍も,
本田方の伏兵に奇襲され,大破される。

世に言う小原崩れであった。


吉羽攻略

梓は,なおも吉羽の攻略を目指した。

ここを制圧出来れば,
本田氏と有帆日野氏の連絡を完全に遮断することができる上,
真秀川交易圏へと進出できるからである。

嘉徳8年(1516),新名軍8千が南下すると,
呼応して姫村軍4千も本田領を侵した。

本田氏は,北の新名と南の姫村に
挾み撃ちにされる格好となったのである。

本田方はまず,より少数である姫村の侵攻軍に猛攻を加えて撃破,
そののち,新名軍に全力を傾注した。

吉羽の包囲に入っていた新名軍は,包囲を継続しつつ,
姫村軍を破って勢いに乗る本田軍を迎え撃つべく態勢を整える。

両軍とも慎重であり,
吉羽近辺の各所で小競り合いが続いたが,
対陣二か月に及び,ついに新名軍は撤退した。

梓は,吉羽の内部切り崩しにとりかかった。

中川総政の内応が本田方に露見した前例があるためか,
このときには,より徹底した調略が行われたようである。

嘉徳9年(1517),旧蘇我領の分配を約束して,
福満真幸(ふくみつ・さねゆき)・常光繁尚(つねみつ・しげなお)・
真崎忠広(まさき・ただひろ)を内応させた。

片貝清寿は敗死,吉羽は,新名領となった。

有帆日野氏との連絡を絶たれ本田氏は,
孤立するかに見えた。

ところが,有帆日野氏が,大挙して真秀川を渡り,
冴島氏を攻撃,支えきれなくなった冴島氏が日野方へ復帰してしまった。

これにより,有帆日野氏と本田氏の連絡は,復活したのであった。

嘉徳10年(1518),日野・本田両氏は,
早速,吉羽の奪還を目指して侵攻してきた。

新名氏の盟友である紗耶正信が,
河首の秦氏と争っている隙をついた攻撃であった。

しかし,吉羽を堅守する新名軍に,
日野・本田連合軍はなすすべがない。

紗耶正信は,秦氏を破ると,
たちまち新名氏の救援に動く。

日野・本田連合軍は,
紗耶正信の素早い行動に動揺し,撤退したのであった。


安達政権の影響

安達宗治の勢力伸長が著しくなった。

嘉徳帝が,皇太弟 詮晴を廃し,
実子 詮秀を太子に立てると,その決定をめぐって西軍は割れ,
詮晴皇子の復権で一致した宗治率いる東軍陣営の前に劣勢となっていた。

西軍の有力諸侯である河本氏が安達氏と和睦すると,
いよいよ西軍の凋落は顕著になる。

その影響は,新名氏と本田氏の争いの上にも現れてきた。

西軍方の本田氏から
東軍方の新名氏へと鞍替えする領主が出てきたのである。

中でも嘉徳13年(1520)に,本田傘下の有力領主である,
春瀬氏が新名陣営へと転じたことは,
本田陣営を大いに動揺させた。

しかも,新太子 詮秀に対する態度の違いから,
本田氏は有帆日野氏とも疎遠になり,孤立し始める。

本田氏は,新太子 詮秀を支持しており,
同じ立場をとる秦氏や香上氏,
畿内の諸侯と連携を図ろうとした。

しかし,秦氏は紗耶氏との抗争で手一杯であり,
香上氏は,姫村氏の攻勢の前に風前の灯,
畿内の諸侯は,安達氏の来襲を予期して戦々恐々としていた。

嘉徳帝が崩御すると,
皇太子 詮秀皇子と宗治が推す詮晴皇子が
帝位を争う事態が本格化する。

東軍はいよいよ,詮晴皇子を押し立てての入京を企てた。

新名氏は,詮晴皇子を支持し,男爵を授けられ,
「諸侯」の格を手に入れたのである。

本田信茂は,詮秀皇子方の救援要請に応じて畿内に入る。

詮秀方は大敗,
宗治率いる東軍が入京を果たして詮晴皇子を践祚させた。

本田軍は,当初より詮秀方の旗色悪しと見て積極的には戦わず,
いち早く戦場を離脱したため,被害は大きくなかった。

章仁3年(1523),安達宗治に対して西軍が包囲網を形成すると,
新名氏は,安達政権に属する勢力として,
河本・香上征伐への参加を求められる。

新名家中では,留守を本田軍に狙われるとして,
河本・香上征伐への参加を見送るべきであると唱える声もあった。

しかし,梓の腹心である湯生暁高(ゆい・あきたか)は,

「西軍にはもはや,安達氏の覇権を脅かすだけの力はありません。

宗治公の命に従い兵を出すことこそが
当家を守る最良の方法でございます。

本田を恐れて,兵を出し渋ることは,
宗治公の力を信頼していないと天下に公言するようなものです。

後々,宗治公の怒りを買うことになりましょう。

逆に宗治公のために兵を出せば,
宗治公に恩を売ることができます。

出兵のために仮に一時,
本田信茂のために所領を失うことになろうとも,

危険を冒してまで宗治公のために働いた新名の家を,
宗治公はおろそかにはしないでしょう。」

と,安達氏に従うべきだと説き,
さらに留守居を買って出た。

梓は,湯生暁高に自領を任せて,河本・香上征伐へと出陣した。


悲願成就

梓が新名軍主力を率いて出陣すると,
本田信茂は,水陸2万の兵を率いて,
新名領へと侵攻した。

本田軍は,真秀川の制水権奪還を狙い,
吉羽攻略を目指したが,
水陸双方で新名方の強烈な抵抗に遭遇する。

他方,西軍による反安達包囲網は,
早くも崩壊し始めていた。

一条・沢渡連合軍は,
松下の安達軍を突破できず,
平泉氏は新郷で宗治の軍に大破された。

さらに,宗治は,
その勢いのまま河本・香上連合軍をも潰走させる。

この間,わずかにふた月余り……
東軍の勝報を聴くと,本田信茂は,即座に新名領から撤兵した。

戦後,本田氏は安達政権によって改易された。

本田氏はこれに反発して蜂起したが,章仁4年(1524),
安達氏の援軍を得た梓が鎮圧した。

梓は父の代からの悲願である,
本田氏の打倒をついに果たしたのである。

さらに,新名氏は,
河本・香上討伐,本田氏の蜂起鎮圧を賞されて,
本田氏の旧領を全て与えられ,爵位をも進められて子爵となった。

また,先に湯生暁高が梓に進言した通り,
危険を冒してまで宗治のために働いた新名梓に対する宗治の覚えは,
非常にめでたく,
安達政権は,新名氏に,
一条氏や河本氏に対する牽制の役割をも期待したと言われる。

梓は,名実ともに有力諸侯の仲間入りを果たしたのである。

しかしながら,
潜んでいた動乱の影は再びうごめきはじめた。

清正3年(1532),入京から11年,天下人 安達宗治が薨去したのである。

翌年,安達政権中枢部で事件が起こる。

政権の要人である有間治久が宗治の後継者 正治の勘気を被り,
左遷されたのである。

正治が示した一条氏討伐の意向に,
治久が反対したことが原因であるとされている。

正治が一条討伐を考えだしたのは,
宗治薨去後,一条智成が政権の許可無く
領内防備の強化を図ったためと言われる。

有間治久は,戦わずして勝つことができる状況を作り上げるのが先で,
武力行使は最後の手段であると考えており,
いきなり武力を用いようとする主君 正治を諌めたのであるが,
正治には届かなかったのである。

新名氏も出兵の命を受けた。

梓は,出陣はしたが,
まともに一条勢とぶつかりあうことはしなかった。

正治の力量に疑問を持っていたからである。

清正5年(1534),正治は自ら兵を率いて一条討伐に出陣し,
そして敗れ,一条・沢渡・日野三氏による
西国諸侯の連合軍に包囲される危機に陥った。

正治に左遷されていた有間治久は,
急遽手勢を引き連れ正治の救出に向かい,
そのまま一条・沢渡・日野連合軍を潰走させてしまった。

新名梓は,安達宗治薨去の直後から,

「有間殿のある限りは,安達氏の天下が続くであろう」と語っていたが,

一条氏ら旧西軍諸侯も
有間治久という人物の胆力と才略に一目おくようになった。

とはいえ,正治と治久の主従関係は以後も,
決して安定したものではなく,
宗治に資質で数段劣る正治のもとで,
安達政権は緩やかに衰え始めるのであった。



西国進出

西国諸侯が有間治久に敗れると,
梓は,敗戦の傷が癒えていない西国への進出を企図する。

西国制覇を考え始めた梓の脳裏には,
新名氏の始祖とも言える
古代の左末王 志賀や志貴の活躍があったかもしれない。

そして,新名軍の標的となったのは,有帆日野氏である。

日野氏は一条氏に救援を求めた。

清正5年(1534),日野氏と一条氏の連合軍2万5千は,
湾陰中部の要衝 大熊に伏兵を配して,
進撃してくる新名軍を撃破しようと目論んだ。

しかし,これを察知した梓は,
二手に軍を分けた。

一隊は自身と嫡男 志(しるす)の部隊。

もう一隊は,次男の匡(ただす)・
桐野暁良(とうの・あきよし)らの一隊である。

そして,匡・暁良の一隊を
日野・一条連合軍の伏兵に対する伏兵として山中に配した。

結果,日野・一条連合軍は,
新名本隊と新名軍の伏兵に包囲される格好となり
数千の戦死者を出す惨敗を喫した。

勢いにのる梓は,
日野氏にくみしていた小領主を傘下に加えながら,
日野氏本拠 有帆に迫る。

しかしながら,有帆は西国随一の大都市であり,
また屈指の防備を持っていた。

梓は,撤兵を決意し,
有帆に近い沓名(くつな)に桐野暁良を入れて守りを固めさせると,
甘波に引き上げていった。

清正7年(1536),日野氏は,
沓名の奪還を狙って大挙して押し寄せてきた。

梓は,紗耶氏に救援を要請し,
自身も沓名の救援に向かった。

ところが,紗耶氏の救援は遅れた。

紗耶氏は,すでにかつての小勢力ではなく,
京谷氏・平瀬氏・高田氏を立てつづけに下して,
河首道を制覇していた。

紗耶氏は,常盤で安達氏に次ぐほどの
強大な勢力となっていたのであった。

その紗耶氏の次の目標は,実は湾陰・湾陽であった。

梓も湾陰・湾陽制覇を目指していたから,
当然,新名氏と紗耶氏の目論見は両立し得ない。

新名氏による日野氏攻略を望ましく思っていない紗耶正信は,
わざと沓名への救援を遅らせたとも言われる。

梓は,沓名の地に固執して名将 桐野暁良を失うことを恐れた。

暁良は,梓の命に従い沓名から撤兵し,
大熊までやってきた梓の軍と合流した。

新名勢は再び日野勢と戦うこととなった。

とはいえ,今回は,双方が慎重を期して動かず,
決戦には至らなかった。

対峙ひと月あまりで両軍は停戦を約し,引き上げている。


新名氏と紗耶氏

戦後,梓は,紗耶氏との関係改善を図る。

湾陰・湾陽の内,大神・一条氏の領国は,紗耶氏の領分,
日野氏の領国は,新名氏の領分とすることが両氏の間で取り決められた。

このころ,紗耶氏は,広奈国からの独立を画策しており,
その準備を進めていた。

紗耶氏は,独立を表明した時に,安達政権の討伐を受けることを強く警戒していた。

有間治久という傑物が,安達政権に存在しているからであった。

紗耶氏の軍師 藍原広真は,

「当面は,新名・姫村両氏を安達政権から引き離し,
当家の味方としておくべきです。

両氏は安達方に対する強力な防波堤となります。」

と主君 正信に説いた。

正信は,広真の進言を容れ,新名氏との親交を継続することとしたのである。

程なく,紗耶正信は,各務国の復興を宣言,皇帝号を称して,光復の元号を建てる。

さらに河首道の大宮を公京(くぎょう)と改名して都とした。

この年,清正7年(1536)は,各務国では光興元年となる。

各務国とは,広奈国に滅ぼされた首州の統一王朝であり,
紗耶氏は,その末裔でもあった。

先の各務国と区別するために紗耶氏の建てた各務国は,後各務国と呼ばれる。

このころ,安達政権は,
一条氏を始めとする西国諸侯との関係を改善しており,
紗耶正信打倒のための包囲網を敷き始めていた。

無論,その包囲網を組み立てたのは安達正治ではなく,有間治久である。

梓は,有間治久を畏怖しながらも,
安達政権に不安を抱き,紗耶氏との親交の方を重んじた。

安達政権の不安材料……
それは,暗愚と言われる安達正治の力量と,
正治と有間治久の不安定な主従関係に他ならない。

また,梓という人は「ゆかり」を大事にする人である。

彼は,父の遺志である本田氏打倒を目指し,
それを果たした後は始祖の栄華を追いかけている。

梓にとっては,自身が最も苦しい時期から,
盟友であった紗耶正信とのつながりの方が,
安達政権より大事だったのである。

「安達家には大恩を受けた。

しかしそれは,安達家が天下の覇者となったからであり,
覇者として当たり前に天下を経営しただけのことである。

けれども紗耶家は,数多ある群雄の中から,当家を盟友とした。

しかも紗耶家自体も決して大きな力を持っていなかった頃に,
危難にある私を救った。これは類まれなる恩である。」

と梓自身が,語っているとおりである。

ところが,その紗耶正信は,清正9年=光興3年(1538)に,崩じた。

この時,一条・日野・大神の三氏による連合軍が,
後各務国領である遊井地方への侵入を試みたのだが,
新名軍は,直ちに遊井を救援している。

結局,陣中で一条当主の智成が病死したため,三氏は撤兵していった。

そして,清正12年(1541),梓も,日野氏との抗争を繰り広げる中,卒去した。

65歳であった。

後を継いだのは嫡男の志である。

志は,文武に優れた人であり,新名氏は,さらに勢力を拡大していく。