諸国 ナヴィディー朝

ファリド地方のナヴィドを始祖とする
ナヴィディー家が建てた王朝。

15世紀の中葉,ナヴィディー家のカイヴァーン1世は,
センゲ亡き後,群雄割拠の状態となっていたファリド地方を統一した。

カイヴァーンは,当時,
西アリアで超大国となっていたイリハム朝と戦って敗れ,
失意のうちに身罷った。

しかし,それでも,イリハム朝の攻撃を凌ぎ続け,
16世紀中葉,5代目にあたるジャハーンダール1世の時代になると,
レイア諸国と連携するに至る。

レイア諸国は,
イリハム朝の後背地で台頭するナヴィディー朝と連携することで,
イリハム朝の牽制を図ったのである。

こうしてナヴィディー朝は,レイアとサラスの中継貿易で富を蓄えて隆盛を極め,
またレイアの火力兵器なども手に入れて軍事力をも強化していった。

ジャハーンダールのナヴィディー朝軍は,
イリハム朝軍との戦いで度々勝利を収めている。


諸国 デジャ朝

南アリアのサラス亜大陸に存在する王朝。

デジャは,「ダシュ人の」という意味。

その名の通り,ダシュ人の末裔を名乗る一族によって建国された。

15世紀,センゲ帝国の末裔 アルサラーンが
北サラスに侵入して同地を制圧,建国した。

アルサラーンの孫 オーランの時代には,
多民族・多宗教を抱える広大な版図を得る。

オーランは,文化的・宗教的に寛大な政策をもって,
統治に臨み,諸族・諸地域の融和に務めた。

レイア諸国は,15世紀にはサラス亜大陸に到達し,
その沿岸部に拠点を築いていたが,
オーランの安定した治世には,
デジャとレイア諸国の交易も盛んであった。

そして花開いたデジャ文化,
サラス全土の3分の2にまで拡大した版図,

16世紀中葉 フーシュマンドの時代には,
軍事的にも文化的にもデジャ朝は,全盛期を迎えたのであった。


諸国 信朝

13世紀初頭に興った,華国の歴代王朝の一つである。

アリア大陸東部の広範な地域を指して「華国」と呼ぶ。

華国にダシュ人が建てた玄朝は,
12世紀末,権力闘争と経済政策の迷走などにより,衰退,
統治力を低下させていた。

こうした中,大規模な農民反乱が勃発する。

1293年の班乾奇(はん・けんき)の乱である。

農民軍の中から頭角を表した辛格(しん・かく)は,
江水一帯を制圧すると,1301年,信朝を建国して皇帝に即位(大統帝),
玄朝打倒のため,北伐を開始した

信の北伐軍が,玄軍を破ると,
玄の勢力は,都 真都を放棄してダシュ地方へ撤退していった。

その後も,信朝とダシュ人の抗争は続き,
大統帝は,次男 辛英をダシュ人に対する備えとした。

1321年,大統帝が崩じるが,その後継であった建興帝は,
弟 辛英を信任してダシュ人の遠征に当たらせた。

辛栄はその期待によく応え,幾度もダシュ軍を打ち破っている。

建興帝が崩御すると,その子 顕徳帝と辛栄は対立するに至る。
1344年,辛栄は顕徳帝を破って即位した(永泰帝)。

永泰帝は,即位時,すでに54歳であったが,
長寿に恵まれ,なお20年在位する。

建興帝以来の対外積極策を継続し,ダシュ高原へ親征,
さらに,南洋へ鄧瑞(とう・ずい)の大艦隊を派遣して朝貢を求めている。

しかし,永泰帝の崩御後,
財政難から莫大な資金を必要とする大航海は控えられ,
信朝は海禁政策を採るようになる。

永泰帝の後継者 光和帝は,版図拡大より,
国内の安定に主眼をおく政策を採った。

その治世は「光和の治」と称され,
史家に信朝の全盛期とも評価される。

15世紀の末から16世紀には,
勢力を盛り返したダシュ人や,海賊の寇略など
信朝は,外患に悩まされることとなった。


リュイト 概要

リュイト大陸とその周辺島嶼部を含む地域。六大洲の一つ。

リュイト大陸は,東西両大洋に挟まれれおり,北半球に存在する。


諸国 リュイト

リュイト大陸は,16世紀初頭には中部から南部にかけての大部分がイストラの植民地となっていた。

リュイト(北部音ではリュイセ,中部音ではロイツ)は,「美しい人」を意味する古代リュイト語
「エリュピティ(Elypiti)」を語源とする。

この「エリュピティ」という語は,
中期リュイト語においては,語頭のE音が脱落し,語中のP音がF音に変化,
「リュフィト(Lyfit)」と発音されていたようである。

これが後に,F音が脱落して南部音の「リュイト(Lyit)」となり,
北部ではさらに語尾のT音がS音に変わって「リュイセ(Lyise)」となり,
中部ではy音が初めu音に,やがてo音となって,
語尾のT音もTs音となって「ロイツ(Loits)」と発音されるようになったと見られる。

中世リュイト帝国は,リュイト大陸西半を領し,
最盛期には,推計人口4000万に達する超大国であった。

15世紀から,イストラ人の侵攻を受け衰退,
各地で皇族に率いられた残党が帝国の復興を目指した。

中でも,大陸北部の湿原に拠る,アルタメセル家,
大陸中部の山岳に拠る,フィルメリス家が有力であり,
両者が連携してイストラ人に対して抵抗を継続していた。

16世紀,アルタメセル家のリュセリーク帝の時代にリュイト人は,
常盤人の支援を借りて大陸の西半を回復した。

しかし,この近世リュイト帝国は,
アルタメセル家を盟主とする領邦の連合体であった。

17世紀後半には,権力闘争が激化して,
派閥ごとに都合の良い皇族を皇帝に奉じる事態が生じる。

1696年,皇帝ユティーヌ3世が臣下に弑殺される事件が起こる。
17世紀後半の権力闘争の日常風景に思われたこの事件は,しかし,
リュイト世界を新しく変えた。

ユティーヌ帝の甥 エクール・ニーナメリス・アルタメセルは,
ニーナメリス・アルタメセル家の軍を率いて伯父の仇を討った。

エクールは,ユティーヌ帝の息子 イゼーに請われる形で皇帝に即位する。

ところが,エクールは,自身の反対勢力を討伐した後,
イゼーに中部リュイトを譲って,
自身は,ニーナメリス家領である北部リュイトのみを統治するようになる。

帝国には分割統治が導入されたのである。

エクール(エクール1世)が在世の間は,
ニーナメリス家の影響力は,リュイト世界全域に及んだが,
エクールの息子以降の代になると,
ニーナメリス家は完全に中部リュイトへの影響力を進んで放棄し,
ニーナメリス家領の統治に全力を傾けた。

なおも領邦国家の連合体とも言える体制を色濃く残す中部リュイトと,
中央集権的な体制に移行していた北部リュイトとを
統一的に支配することが困難だったからである。

こうして,エクール1世の後,
全リュイト世界を支配するものは二度と現れなかった。

やがて,市民階級が台頭すると,中部では革命によってアルタメセル家の支配が終わり,
連邦制・共和制の国家へと移行した。

他方,北部では,ニーナメリス家を皇帝家としながらも,
皇帝は,君臨すれども統治せずを旨とする国家の象徴となり,
帝国は立憲君主制へと移行してゆく。