光粛帝 概要

光粛帝は,即位前は紗耶(さや)を宮号としていたが,これは,前各務国時代に宮家の始祖が皇帝から与えられたものであり,広奈国の臣下時代には名字化していた。諱は正信。光粛は諡号。後各務国の祖。

前各務国第5代皇帝 懐文帝の第七皇子 久正(ながまさ)皇子の末裔。

後各務国では,前各務国の制を継承したことから,一世一元の制を採らず,
そのために,広奈国のように,皇帝を元号で呼称することはない。

以下記事では,即位前の光粛帝については,名字化していた宮号と諱を用いて記述する。


相続

紗耶正信は,広奈国の興徳21年(1475),
高山氏麾下の小領主 紗耶正幸の次男として生まれた。

一条智綱薨去の前年のことであり,
正信は,新名梓より二歳年長ということになる。

高山氏当主 利斉は,このころ一条家の力を借りて,
岩倉氏の専横を排除したところであった。

しかし利斉の後を幼主 斉英が継ぐと,
高山家中では,今度は本田斉清の専横が強まる。

正信の父 正幸は,斉清の専横に反対して本田氏に所領を奪われ,
姫村氏を頼って落ち延びたと言われる。

興徳年間の末から天啓年間の初めころ(1480年代半ば)のことだとされている。

姫村の客将となった正幸は,
姫村領北辺の防備を担うこととなり,本田氏と争った。

正幸は天啓5年(1490),逝去し,
その後を,長男 正村が継いだ。

ところが正村は,翌年の本田氏との戦いで重傷を負って,
そのままなくなってしまう。

正村には幼い一女があるのみで,
後継となる男子がいなかったため,
正信が紗耶家の当主となった。

この時,正信は姫村孝治の末娘を正室に迎えている。

天啓9年(1494),姫村当主 孝治が逝去すると,
これに乗じて,香上氏・秦氏が失地回復を目指して姫村領に侵入する。

正信は少数の手勢で秦軍に突入,これを撃破し,
一躍,周辺諸地域に武名を轟かせることとなった。


客将時代

正信は,旧領奪還を目指していた。

しかし,身を寄せている姫村氏は,
東の香上氏の打倒を目指しており,北の本田氏に対しては,
守りに徹していた。

正信の思いと姫村氏の方針は相容れない。

しかも正信は,
先に秦氏を単独で撃破したこと,
天啓14年(1499)に坂牧で,
新名梓と共に本田軍を打ち破ったこと,
これらによって,声望をにわかに高め始めていたから,
姫村家中で警戒される存在になっていた。

正信は,独立を考えるようになった。

とはいえ,今現在,
姫村明治から与えられている所領を奪ってまで自立する気はなかった。

孤立無援に等しくなることが明白だったからである。

正信が鬱々とした煩悶の日々を送る中,
天下の形勢が大きく動く。

これまで,広奈国内で最大の影響力を持っていた西軍が,
天啓20年(1505)の鶴見の戦いで,東軍に敗北したのである。

東軍の盟主は,翌年の丙寅の変で美好氏から安達宗治へと移ったが,
それによって東軍の勢いはむしろ増したかのようであった。

姫村明治は,従来,香上氏に対抗する遠交近攻の相手として,
河本家を選んで西軍に属してきたが,
ここにきてその相手をより強大な安達宗治へと変えた。

姫村氏が西軍から東軍へ鞍替えしたことにより,
姫村領北辺の防備の一翼を担っていた正信は,秦軍や本田軍に加えて,
河本軍とも向き合わなくてはならなくなった。

窮地とも思える事態であったが,
正信には,あらたな出会いがあった。

突如,藍原広真という青年が会見を求めてきたのである。


邂逅

「藍原」と耳にした正信は,広真にひとまず興味を持った。

正信は,傍流とは言え,
広奈国の前に首州の統一王朝であった各務国の帝室の末であり,
藍原と言えば,その各務国の名門諸侯の家であった。

広真の姿は,「水賊」そのものであった。

「水賊」は,「海賊」に似ている。

活動の場所が海ではなく川というだけである。

独立した武装勢力といってよく,真秀川の航路を取り仕切り,
そこから収益をあげている。

広真は,水賊の若き頭領であった。

広真は,先祖が各務国皇帝より賜った太刀を正信に見せたといい,
それによって自身が藍原家の人間であると証明したと伝わる。

創作めいた話ではあるが,
現在も続く藍原広真の子孫の家には,
確かにその太刀が存在しており,
専門家らの鑑定からも,
本物であると信ずるに充分な特徴を備えているとの結果が出た。

とはいえ,広真の出自云々の話は,
正信にとっては,どうでも良い事になってしまった。

広真の献策の方が興味深かったからである。

端的に言えば,広真は,

「各務国を再興せよ。」

と正信に示したのであった。

「旧領奪還というのならば,
各務国の末裔である以上,
首州すべてをお取りになるべきです。

しかし,そのためには,
目先の遺恨にとらわれるべきではありません。

本田氏との対決を選んで,
新名家に縁の深い湾陰河北の地に進出するべきではないでしょう。

新たに新名家という敵をつくるだけです。

それぞれ縁ある地を抑えている姫村・新名両氏とは友好を保ち,
後背の備えとするのが良いでしょう。

また,河本家も代々,首内を領して恩徳を施しましたから,
これも崩し難いでしょう。

あなた様が取られるべきは,
あなた様に縁ある各務国発症の地 河首道です。

河首道は,その中心域は堅牢な盆地であり,
守りやすい土地。

また,盆地を取り巻く山脈のうち,西の外側には,
大陸との貿易港を抱える海まであります。

彼の地で,守りを固め,財を蓄え
天下の情勢をうかがって中央へ打って出るのが得策です。

しかも,河首道の諸侯は,
いずれも領内をうまく掌握できておりません。

与し易い相手です。」

と広真は説いた。

広真は,正信のもと藍原水軍を率いることとなった。

正信は,広真を下にもおかない厚遇で迎え,
しばしば親しく語らったという。

ここにおいて正信は,天下を志す決意を固めた。


独立

正信は,秦氏攻略を企図したが,
まずは,河本軍の侵攻に対処することとなった。

東軍に鞍替えした姫村氏に一撃を加えるべく,天啓21年(1506),
河本詮尊は,堀内親直に1万の兵を与えて湖西へ差し向けた。

姫村領の前線を預かる紗耶正信は,手勢3千。

この戦いは,英主 河本詮尊が差配を誤った稀有な例である。

堀内親直は武勇に優れ,鶴見の戦いでも戦場で勇躍し,
詮尊に気に入られた。

しかし,彼は一軍の将として万の兵を動かせる器ではなかった。

河本家の名将 四方堂尊国は,
香上氏と対峙しており湖東地方にいたが,
堀内親直が将として選ばれたという報を聞いて,
直ちに,書簡をしたためて主君を諌めている。

だが,この遠方からの諫止は,一歩遅かった。

正信率いる紗耶軍は,領内で敵を迎え撃つのではなく,
積極的に河本方の勢力圏へ打って出る方針を採った。

藍原広真の進言を容れたものである。

この動きに堀内親直は虚を突かれた形となった。

少数しか持たない紗耶勢の方が,
河本領へ侵入してくるとは思ってもいなかったのである。

真秀川をいち早く渡河した紗耶軍は,
河本軍に夜襲を仕掛けて,その陣も渡河用の兵船も焼き払った。

将としての経験がない堀内親直には,
動揺する軍を上手く立て直すことができない。

河本軍は,沼原(ぬはら)に撤収するが,
城内は不穏であった。

なにしろ,紗耶軍には,
早晩,姫村本隊から救援がやってくるはずだからである。

藍原広真が沼原に籠る諸将に調略を仕掛けると,
河本方から紗耶方へと寝返るものが少なからず現れた。

疑心暗鬼に陥った堀内親直は,
沼原を放棄して河本家本拠 生原へと落ちていった。

正信は,軸となる戦力を失った沼原を陥落させ,
以後,ここを本拠に独立した群雄として歩み始める。


西討

天啓22年(1507),紗耶・姫村・新名三氏による連合が成立した。

三氏は,そろって安達宗治のもとへ使者を遣わして,進物を献呈している。

さて,正信が狙う河首道には,秦氏・高田氏などの西軍諸侯が存在し,
東軍の平瀬氏や京谷氏と争っていた。

しかし,両湾・河首など西国は,西軍勢力の強い地域であった。

平瀬氏は,主に北の高田氏と対峙し,
京谷氏は,南の秦氏と相対していたが,

平瀬・京谷両氏は,互に連合することで後背の安全を保ち,
天険に頼ってやっと前面の敵に対抗しているという状態であった。

両氏は,河首道に接する紗耶・姫村・新名三氏が連合して東軍に属すると,
これ幸いとばかりに,三氏と接近を図り始めた。

嘉徳2年(1510),正信は,平瀬・京谷両氏と連合した。

正信の当面の目標は,白石(しろいし)攻略である。

白石は,要地である。

河首道の東の境は,山脈――

真秀川より北は,遊井山脈,
南は,白岳(しらたけ)山脈と呼ばれる。

山脈を突っ切って西から東へと流れる真秀川がちょうど,
河首道と外部の連絡路のようになっている。

白石は,この真秀川大渓谷沿いにあり,
河首道の東の入口ともいうべき場所であった。

さらに,白石の北西には,小規模な渓谷もあり
この渓谷は,京谷氏の領国へと通じていた。

「白石は堅牢です。いきなり攻め落とすことはできません。

まずは,周辺諸城を攻略して白石を孤立させましょう。」

広真の進言に,正信は頷いた。

紗耶方による秦領内への調略が激しくなった。


白石包囲

正信は,かつて姫村氏の客将だった際,
侵攻してくる秦軍を単独で,撃破した。

また,近くは,沼原で河本の大軍を破っている。

そうした影響もあって,
紗耶方からの誘いに応じる秦軍の領主は少なくなかった。

槙島氏,大宅氏,園上氏など,
白石より北東の山岳部に勢力を持つ諸豪が紗耶氏になびくと,
正信は,これを足掛かりに,白石周辺の要衝の攻略に取り掛かった。

さらに,藍原水軍が,
白石の南を流れる真秀川の制水権を掌握しにかかった。

秦氏は,東の出入口である白石の防衛に全力を傾注したが,
嘉徳5年(1513),矢口の戦いで,藍原水軍に敗れると,
白石周辺での制水権維持がおぼつかなくなる。

しかも,秦氏は当時,紗耶氏以外にも困難を抱えていた。

秦氏は,嘉徳3年(1511)に,河首道河南地方の亘理氏を滅亡させた。

秦氏の本拠は,河首道河北にあるため,
亘理氏とは真秀川を挟んで向かい合っている。

この亘理氏は,
もともと秦氏に属する領主だったが,
秦氏から離反する動きを見せた。

秦氏はこれを看過できず,真秀川を渡り,
亘理氏を潰したのである。

しかし,事はそれですまなかった。

亘理氏の残党は依然として河南に勢力を張って,
抵抗を続けたからである。

秦氏は,亘理氏を抑えるために,
水上勢力を割かなくてはならなかったのである。

こうしたこともあって秦氏は,紗耶方の藍原水軍に競り負けてしまった。

もちろん,正信は,亘理氏を裏から支援していた。

こうした中,嘉徳7年(1515),
白石の最終防衛線の要衝ともいえる若槻が紗耶氏に降った。

若槻の守将 吉永久法(よしなが・ひさのり)が秦氏から紗耶氏に鞍替えしたのである。

白石攻略が一挙に近くなった。


危機

嘉徳8年(1516),正信はいよいよ白石攻略にとりかかる。

秦方の白石救援軍は,真秀川上では,藍原広真に撃破され,
陸路では,紗耶家譜代の名将 北田泰政,若槻の吉永久法らに打ち破られた。

救援軍の敗北を受けて,著しく士気が低下した白石は,ついに開城した。

この直後,正信は,

「河首ヘ入るのに,沼原は遠すぎて不便をきたす。」

として,先に占領した矢口へと本拠を移している。

さて,勢いに乗る紗耶軍は,
白石を落した翌年には,真秀川支流の伊吹河畔で,
京谷氏と連合して秦軍を破っている。

ところが,順調に見えた正信の秦領攻略に異変が生じる。

嘉徳10年(1518),若槻の吉永久法が離反し,
白石を攻撃し始めたのである。

久法の突然の離反には諸説ある。

有帆日野氏が吉永久法と連絡をとっていた節も見えることから,
有帆日野氏が策動した結果であるとも言われる。

折しも,正信の盟友である新名梓が,
有帆日野氏と本田氏の連合軍と抗争している最中であった。

さて,白石は東西から挾撃される危険が出てきた。

吉永久法に呼応して秦軍も反抗を開始したからである。


白石防衛

白石の兵は数百,
敵方は吉永久法が5千,秦軍は8千。

白石の守将 林正俊は,攻め寄せる吉永久法を
降伏を騙って油断させ打ち破る。

初手でつまづいた久法は,
紗耶正信の本隊が若槻に迫ると撤退していった。

正信は,若槻に近い星宮で久法の軍と衝突した。

紗耶軍1万に対し,久法の軍は3千に減っていた。

久法は奮戦して,はじめ紗耶方を苦しめたが,
衆寡敵せず若槻へ敗走,そのまま正信に降伏を申し出た。

「吉永久法は,貪婪な性質です。再び背くでしょう。
その時,久法の剛勇は,当家にとってあだとなります。」

藍原広真の言を受けて,正信は,久法を謀殺させた。

久法に降伏を許しておいて,
実際に久法が若槻を出て降伏してくると,
即座にこれを監禁,自害へと追い込んだのである。

秦軍はといえば,
紗耶方の北田泰政の激しい抵抗を突破できずにいたこともあり,
久法が滅亡すると,好機は去ったと見て本領へ帰還していった。

危機を脱した正信は,新名梓を救援し,
共に日野・本田連合軍を撤退させている。


秦家衰退

嘉徳10年(1518)の皇太弟 詮晴の廃位により,
西軍が割れる中,河首道の西軍勢力は割れず,
高田氏も秦氏も,共に新たに皇太子となった詮秀皇子を推していた。

とはいえ,西軍全体の動揺は,
高田・秦両家中にも伝染した。

両家の家中が,
詮秀皇子支持でまとまっているわけではなかったからである。

紗耶方 藍原広真の秦家中への調略は,一層効果を上げた。

元々,広真は,河首道東部から湾陰にかけて活動していた水上勢力であり,
秦家に属している水上勢力ともつながりがあった。

中でも有力な椎名水軍の長 椎名超(こゆる)は,
広真の姉の子に当たる甥であり,
嘉徳11年(1519)に,広真の誘いを受けて紗耶方についている。

秦家の水軍力は,低下の一途をたどり,
今や,河首道河南に秦家の勢力は,及びにくくなっていた。

正信は,亘理党を傀儡化して亘理家を再興させ,
河南の支配権を得た。

秦家の衰退によって,京谷家は勢いづき,
秦家の版図北辺を蚕食した。

こうした情勢を受けて章仁2年(1522),
秦家重臣 草壁久時,安平輝高(やすひら・てるたか)が,
紗耶家に寝返った。

両名とも,
遊興に耽る秦家当主 元久に,
諫言を繰り返したことで疎んじられて,不遇をかこつ身であり,
そのために紗耶家からの誘いに応じたと言われる。


安達政権下

さて,章仁元年(1521),安達宗治は入京を果たして,
章仁帝を登極させることに成功していたが,
章仁3年(1523),河本詮尊・一条智成を中心に形成された反安達政権包囲網と
衝突する事態となった。

正信は,宗治より河本・香上討伐への参加を求められた。

藍原広真は,

「すぐに安達軍へご参加を。
時流は,宗治公に味方しております。

今は,宗治公のもとで力を蓄える時です。

他に遅れては,旨みが減りましょう。
留守は私がお預かりいたします。」

と言って,正信を送り出した。

実際,広真は,正信留守の間隙を突いてきた秦軍をあしらっている。

一方,正信が参加した安達軍は,河本・香上軍を降した。

安達政権による広奈国内の統一が完成したのである。

秦家は,安達政権に属する紗耶家を攻撃したことを咎められ,
宗治によって改易された。

秦家の旧領は,河本・香上討伐および秦軍撃退の功績により
正信に与えられたが,これは,
後に紗耶家と京谷家の間の火種となる。

京谷家は,長く秦家と抗争しており,
所領の一部を秦家に奪われていた。

今回,正信に与えられた秦家の旧領には,
元々,京谷家の所領だった地域が含まれていたのである。


京谷氏との対決

清正3年(1532)の安達宗治薨去,
翌年の有間渉遊の左遷により
安達政権が不安定となると,
紗耶正信と京谷晴基の対立は,にわかに先鋭化する。

清正5年(1534),京谷軍は,
紗耶領に侵攻した。

安達正治が一条軍に大敗して包囲を受けるという,
いわゆる松下の変が生じたことで,
安達政権がたちまち瓦解するであろうと予測しての行動であった。

京谷方は,紗耶方の不意をついたつもりであったが,
従前より正信は,

「京谷方の当家への恨みは,もっともなこと。
機が熟せば,必ずやその恨みを晴らそうとするであろう。」

と警戒を怠ってはいなかった。

松下の変の報を受けた紗耶方では,
極秘のうちに戦力を動かし,
京谷氏との境界付近の防備の充実にあたった。

ここにおいて京谷軍は,
紗耶方の北田泰政,結城慶成(ゆうき・よしなり)らの猛将に難なく撃破され,
ほうほうの体で撤退する羽目となった。

さらに,実は京谷軍が紗耶領に侵攻したまさにその頃,
松下の変は,有間渉遊の活躍によって安達方の勝利に終わっており,
京谷方が予測したような急速な安達政権の崩壊は訪れなかった。

とはいえ,宗治時代に出された「私戦禁止令」は破られたのであり,
これを機に湾陰・湾陽や河首など西国は,安達政権の影響力を脱していくのである。


安達政権の衰退

松下の変を安達方勝利に導いた有間渉遊は,
「私戦禁止」に背反した京谷家への懲罰の必要性を重々承知していたが,
安達政権による河首への直接介入は今や難しかった。

松下の変で声望を高めたのは,有間渉遊個人でしかなく,
西国諸侯の連合軍に包囲される事態を招いた安達当主 正治の実力は,
諸侯から疑問を持たれてしまっていた。

正治は,命の恩人とも言える渉遊に始めこそ感謝したが,
結局は,主君である自分を凌ぐ影響力を,
天下に示し始めた渉遊を警戒するようになってしまう。

政権の全盛期を支えた賢臣・名将にしても
軍師 早良比良や渉遊の父 歳久を筆頭に,
今やその多くが鬼籍に入っていた。

かくも安達政権は不安定な状態だったのである。

しかし,傍観していては,
紗耶氏の勢力が突出するばかりである。

そこで,渉遊は政権の命として,紗耶氏に加えて,
京谷領を取り巻く高田・平瀬両氏さらには,紗耶氏と親しい新名氏にも京谷討伐を命じた。

新名氏を河首道へ進出させ,紗耶・新名両氏の関係に溝を作る目的も含まれていた。

清正5年(1534),
紗耶・高田・平瀬・新名四氏による京谷討伐が開始された。

紗耶軍2万5千は東南から,高田軍9千は北から,平瀬軍1万5千は西南から
さらに新名軍9千は,それぞれ京谷領に侵攻した。

京谷方は2万5千。

戦力で劣勢である上に孤立無援である京谷方諸城の士気は低く,
各所で開戦前から降伏が相次いだ。

京谷晴基は,諸領主から見捨てられたのである。

京谷方は敗北,滅亡した。

京谷領は,紗耶・高田・平瀬・新名四氏により分割された。

正信にしてみれば,
単独で京谷氏を打倒する気でいたのであるから,
安達政権の横槍による平瀬氏や高田氏,新名氏の介入は面白くない。

しかし,

「正治は暗君で,下策を採るばかり。

渉遊は,鬼才ですが,正治の失策の穴埋めで手一杯。

安達政権に,
西国へ直接介入する余裕はこれからも生まれないでしょう。」

と藍原広真に言われて,正信は気を良くした。

安達政権の直接介入が無い以上,
格段に力を増した今の紗耶家は,
思いのままに河首道を切り取れるからである。


小郡会戦

正信の勢力は今や湾陰・河首にまたがり,
人口200万強,動員兵力6万という強大なものとなっていた。

平瀬・高田両氏は,危機感を強め,
反正信で連合,政略結婚などをすすめた。

正信はこの両氏の動きを,
諸侯間での私婚を禁じている安達政権に対する明確な背反であると,
大義名分を掲げ,平瀬・高田両氏の討伐に着手した。

権威を勝手に利用された形の安達政権では,正治が
側近の柿木玄修(かきぎ・げんしゅう)による進言を採って,
かえって紗耶氏討伐の命を平瀬・高田両氏に下した。

正信は,玄修を主君を惑わす佞臣であると主張して,
あくまでも平瀬・高田両氏の非を鳴らし,出兵を敢行した。

清正6年(1535),紗耶軍3万6千と平瀬・高田連合軍2万2千は,
平瀬領 小郡(おごおり)で衝突した。

平瀬方には,本拠 大宮での籠城を唱える意見もあったが,
小郡が,遊井街道の要衝であるだけに,
最終的には当主 重之(しげゆき)が野戦を決断したという。

正信は,要地を攻撃することでうまく敵方を野戦へと誘ったのである。

この小郡の戦いは,別名 広川合戦とも呼ばれる通り,
真秀川の支流 広川で起こった。

紗耶方は,自軍が数で勝ることを活かし,敢えて二手に分かれた。

紗耶軍の結城慶成が,1万5千を率いて迂回,上流からの渡河を試みると,
高田勢9千がこれを阻止しようと,上流へ移動した。

紗耶軍本隊2万1千は,敵軍正面からの渡河を決行,
平瀬軍1万3千へ襲いかかった。

高田勢は,猛将 結城慶成相手によく戦った。

しかし平瀬軍は,
紗耶本体の前衛 北田泰政の突入を受けて瞬く間に潰滅してしまう。

間もなく結城隊と平瀬軍を大破した紗耶本隊の挾撃を被った高田軍は,
甚大な被害を出して潰走した。

平瀬軍では,直島之継(なおしま・ゆきつぐ),
銀山顕宣(かなやま・あきのぶ)らが戦死,
高田軍は,支柱とも言うべき森沢長友を失った。

平瀬・高田両氏にとって小郡での敗戦は致命的なものとなったのである。


平瀬氏滅亡

小郡失陥により,平瀬氏の所領は,
本領と旧京谷領との連絡が著しく悪化した。

しかし,旧京谷領を守備していた猛将 真平将廉(さねひら・まさかど)・康廉父子は,
なおも抵抗の構えを見せ,紗耶方を苦しめていた。

さらに,平瀬本領では早川良泰が,富国強兵の指揮を採って,
平瀬家の態勢立て直しを図っていた。

正信は,偽書を用いて平瀬重之に真平父子や早川良泰を疑わせた。

その結果,本領から救援も補給も受けられなくなった真平父子は,
紗耶方に降伏,早川良泰も平瀬氏本拠 大宮を出奔した。

疑念により重臣に背かれた重之の求心力は,
著しく低下し,先の小郡の敗戦による痛手も大きかった。

ここにおいて,紗耶軍の包囲攻撃を受けた大宮では,
開城論が支配的となり,平瀬重之はついに降伏した。

紗耶家の本拠は,矢口から大宮へ移された。

この後,正信は,藍原広真より

「先に大宮を出奔した早川良泰殿は,領内でもすこぶる評判が良く,
領民より信頼を寄せられております。

これこそ,国家の柱石とも呼べる人物,当家に招聘なさるべきです。」

と言われて,自ら良泰の元へ赴いた。

良泰は,はじめ,

「私は,主君より疑念を抱かれるような軽率な人間です。
また生来病弱でとてもお役には立てません。」

と招聘を固辞していた。

しかし正信が,
幾度も辞を低くして良泰のもとを訪ねたので,
ついに良泰も陣営に加わった。

軍略で正信を支えた広真に対し,
良泰は政務を得意とし,正信の事業の要となる。


河首道制覇

遊井地方には,高田氏が残っていた。

清正7年(1536),正信は,藍原広真から

「高田氏に遊井を保つだけの力はもはやありません。出兵を」

と促されると,自ら兵5万を率いて遊井征伐を開始した。

高田方は,小郡の敗戦で衰弱しており,
家中には紗耶方への降伏論も出ていた。

しかし,高田家中で影響力の強い,
森沢長治・長靖兄弟の主戦論が押し切る形となった。

森沢兄弟は,父 長友を小郡で討たれている。

高田氏は大神氏より援軍を得て,総勢1万8千,
遊井地方の南の入口とも言える遠久保まで打って出て紗耶勢に備えた。

大神勢を率いる雨森余一(あめもり・よいち)は,西国に名高い驍将で,
高田勢の森沢隊も復讐戦に燃えて士気は高かった。

要地 遠久保を占める高田・大神連合を紗耶勢は,攻めあぐねた。

正信は,
二度の総攻撃が失敗すると,撤退を開始した。

だが,これは遠久保から高田・大神連合をおびき出す偽装であった。

紗耶勢を追って出てきた高田・大神連合は,
紗耶方の伏兵の襲撃をまともに受けて大破された。

雨森余一は,血路を開いて落ち延びたが,
森沢兄弟は,北田泰政隊の突入を受けて壮絶な戦死を遂げる。

紗耶軍は,遠久保を占領した。

高田家当主 元義は,紗耶方への抵抗の不可能を覚り,
重臣 平戸吉充に勧められて遊井を開城,浜道(はまじ)地方へと落ち延びていった。

正信は,遊井地方を手に入れ,河首道全域を統一したのである。


即位

正信が遊井へ入城した翌月,
紗耶家のもとには,有帆日野氏と戦う新名梓から救援の要請が入った。

正信は,

「当家も連戦続き。民力,将兵ともに休養が必要。」

として,新名家への救援を遅らせた。

正信は,新名軍と日野軍が膠着状態となったところで,
様子見程度に出兵するに留めている。

西国への進出を図る新名梓の動きを,
同じく西国で勢力拡大を狙う正信が
快く思っていなかったとも言われている。

とはいえ,
正信は,河首道で各務国を復興し,
自ら皇帝に即位することを考えている。

それは,広奈国からの独立にほかならない。

藍原広真は,

「当家単独で安達政権に対抗するのは無謀,同盟者は必要」

と考えていたから,
正信に新名梓との友好継続を進言した。

その結果,将来的に大神・一条氏の領国を紗耶氏が,
日野氏の領国を新名氏がそれぞれ占領することが取り決められた。

従来からの同盟者との友好関係を安定させた正信は,
ついに,各務国の復興を宣言,皇帝に即位した。

光興の元号が建てられ,大宮が公京と改称されて都とされた。

正信は,後世,光粛帝の諡号で呼ばれることになる。

太子には,光粛帝の長男 正永が立てられた。

正永は,正室 宮子の所生ではなく,林正俊の娘である側室 妙子の所生である。

正信と正室の間には,子ができなかった。

光粛帝の各務国は,先の各務国と区別するために,
後各務国と称されるのが一般的である。

早川良泰,藍原広真,林正俊が大臣,
西尾国良,北田泰政,椎名超,結城慶成らは納言,
佐倉智章,真平将廉,緒川誠智,朝倉弘任らが参議に列せられた。

世代交代

光興2年(1537),大神氏は,
高田元義を遊井に復帰させようと,
浜道地方から後各務国領へ侵入してきた。

光粛帝は,親征を敢行,遊井に入る。

大神方は,
大神軍本隊・高田残党・大神傘下の多賀氏の軍で構成されていた。

大神本隊には,雨森余一,東城朝愛,二宮朝光ら大神三将や米倉秀仲らの勇将がおり,
高田残党は北浦綱利を将とし,多賀勢は千手兼久に率いられていた。

雨森・二宮隊は,遠久保方面へ進出,
東城・米倉・高田・多賀隊は,別働隊として遊井地方西南の要衝 月丘を攻略した。

光粛帝は,月丘へ北田泰政を派遣する。

東城朝愛が囮となって南進,公京をうかがう姿勢を見せたが,
北田泰政は,東城隊を無視して月丘の米倉・高田・多賀隊を強襲した。

月丘の米倉・高田隊は潰滅,
米倉秀仲・北浦綱利・千手兼久ら主だった将がことごとく戦死,
東城隊も敗走した。

他方,遠久保を攻めた雨森余一・二宮朝光も
光粛帝の命を受けて遠久保を守る朝倉弘任・真平将廉の堅守を突破できず,
ついに退却した。

戦後,佐倉智章の調略により,
高田氏は大神氏から離れ,各務国に降伏,
多賀氏も大神氏から独立している。

光興3年(1538),光粛帝は公京へ凱旋するが,
直後に病に倒れ,そのまま崩御した。

64歳であった。

光粛帝の崩御により,太子 正永が践祚した。

後各務国は,創業者を失った。

これを好機と見た,
一条・日野・大神三氏は,遊井攻略を狙った。

一条軍・大神軍は,浜道地方の陸路・海路より,
日野軍は,遊井の北にある大谷方面へ向けて陸路より各務国領へ侵入した。

後各務国は,新名氏の援軍を得る。

北田泰政・藍原広真は一条・大神軍を大破,
特に北田泰政は,一条の将 神名宣虎(かんな・のぶとら)を討つ殊勲を上げた。

宣虎は,天啓20年(1505)の鶴見の戦いで一条の殿軍を務め,
近くは,松下の変で安達正治の大軍を打ち破る大功を立てた程の驍将であった。

他方,朝倉弘任と新名の将 新名匡も,日野軍を十面埋伏で潰走させてしまった。

新帝は,建国の功臣と盟友の支援によって,最初の危機を乗り越えたのである。

新帝 正永は,お世辞にも英邁とは言い難かったが,
群臣に支えられて,その勢力を西国で次第に拡大していくのであった。