元光帝は,即位前にははじめ十和宮号を称し,後に綾湊(あやのみなと)を宮号とした。諱は昭成(あきなり)。
元光は,在位時の元号。
後瑞穂国(綾朝瑞穂国)の初代皇帝。
綾湊(あやのみなと)は,古代瑞穂帝国 十二代皇帝 明楽帝の
第五皇子 久世皇子に連なる家系である。
瑞穂皇帝位は,315年,吉野勝(よしの の まさり)に簒奪された。
勝は,二十四代皇帝 懐静帝から
譲りを受けたとして自らの正統性を喧伝している。
しかし,二十三代皇帝 隠霊帝の弟である相川皇子は,
勝を認めず亜州の長門で皇帝に即位した。
光烈帝である。
光烈帝による政権は後世,「長門政権」と称される。
久世の十世の子孫である嘉高(よしたか)は,
帝国復興を目指す光烈帝の命により,
亜北地方の抑えとして亜北東岸の綾湊に入ったことから,綾湊宮(あやのみなとのみや)と呼ばれる。
嘉高は,綾湊を拠点に,
ユグダ人などの反対勢力に対抗し強盛を誇った。
さらに嘉高の玄孫 嘉尋(よしひろ)は,
亜北内陸の山内(せんだい)の地へ進出して,ここを拠点とした。
この嘉尋の三男で高屋川沿岸の十和に拠った嘉成(よしなり)が,
綾湊宮家の直接の祖先となる。
5世紀中葉のことであり,嘉成は,十和宮家(とおわのみやけ)の初代となる。
十和宮家は,十和周辺に勢力を保ち続けて中世に至ったが,しかし,
勢力は弱く,名望のみの存在となっていた。
長門政権滅亡後,中世まで亜州では,瑞穂皇帝の血族が勢力を取り戻すことはなく,
代わりに,土着の勢力が首州の皇帝に朝貢し,「臣下」となり,
「皇帝の代理」として,「王」に封ぜられ,国を治めてきた。
9世紀に興った志賀国,10世紀に志賀国に取って代わった川内国がそうであり,
13世紀以降,亜州中部を押さえた名和国も同様であった。
これら,亜内の有力国は,しかし実際には,首州の皇帝に面従腹背であり,
本来,皇帝のみが立てられる元号を勝手に立てたり,首州側との関係が悪化すると,
反旗を翻したりすることも厭わなかった。
名和国も,順正帝の代に「首州の帝国」と敵対して以降は,王位は,「自称」のものとなったのである。
さて,長門政権滅亡後,十和宮家が本拠をおく亜北は,
志賀国や川内国,名和国など歴代の亜内の有力国の直接支配を受けず,
群雄割拠が続いていた。
名和国は,亜北を間接的に支配する正統性を得るために,十和宮家の名望を利用する。
十和宮家を守護する名目で,王室の一門である船岡氏を征北大将軍として,亜北鎮守府におき,
亜北の諸豪を監督させたのであった。
15世紀前半,亜州諸国は,広奈国の順正帝の遠征軍に対抗するため,
相互に同盟した。
しかし,名島の乱以後,広奈国の亜州への軍事的圧迫がなくなると,
亜州諸国の連合は,不協和音を生じ始める。
折しも名和国では,成徳王のあと,建興王が立ったが,
この建興王が建興3年(1452)年に崩じると,
天爵王と正名王による王位継承争いが勃発した。
さらに,亜北の将軍家 船岡家でも家督継承をめぐっての争いが生じる。
王位と将軍位をめぐる争乱は,
朝廷の有力者を軸とした諸侯間の権力闘争と結びつき,
大乱へと発展した。
いわゆる,壬申・癸酉(じんしん・きゆう)の乱である。
結局,天爵王が唯一の国王となったが,
それは,正名王の病死がきっかけとなったものである。
天爵方は,完全な勝利をおさめたわけではない。
正名王病死後,正名派は,その子 永恒(ながつね)を
担いだが,劣勢に立たされるようになり,
結局は,永恒を国王にすることを諦め,
天爵派と和睦したのであった。
「和睦」であるから結局,
正名派は,処断されることなくその勢力を保ち続けた。
各地での諸侯間・諸侯家中の争乱は終結せず,
王国内では群雄割拠が進むことになる。
さらに,この動乱に乗じて,
湯朝志賀国などは連年,名和国へ侵攻してきた。
首州のみならず,亜州でも情勢は混迷の度合いを深めていたのである。
後に後瑞穂国の元光帝となる昭成は,
こうした動乱のただ中にあった
名和国の天爵13年(1464),
亜北地方の十和宮家当主 英成王(ひでなりおう)の嫡男として誕生した。
壬申・癸酉の乱の影響により,十和宮家を守護する名目の征北大将軍家 船岡家が分裂した。
十和宮家も当然,争いに巻き込まれた。
船岡家は,天爵派だった船岡南家(南家)の敬和(たかかず)が
征北大将軍位を得たが,
正名派だった船岡本宗家も鎮守府で健在であり,
亜北の大部分を実効支配して征北大将軍を自称した。
英成王は,天爵17年(1468),船岡南家に庇護される。
船岡本宗家の当主 義堅にしてみれば一大事である。
征北大将軍の役割は,十和宮家を守護することであるのだから,
その対象を南家に持って行かれては,自身の存在意義が否定されてしまう。
遅れを取り戻すべく義堅は,
集権化をはかったが,傘下の諸領主の離反を招くこととなった。
これを船岡本宗家打倒の好機と見た南敬和は,
天爵21年(1472),本宗家に対して征伐軍をおこす。
英成王も,南家のこの遠征に参加していた。
敬和は,本宗家から離反した諸領主の軍も加え,
本宗家の本拠 府中を目指した。
しかし英成王は,
「府中は極めて堅牢。長期戦を覚悟しなくてはなるまい。
にもかかわらず,府中を攻める場合,
我が軍は敵地深くまで入り込むことになる。
大いに困難を伴うであろう。
むしろ,衣を剥ぎ取るように徐々に敵の版図を削り取り,
府中に達するのが良策ではないか。」
と敬和に述べた。
だが,敬和に英成王の言葉は届かなかった。
なにしろ,この時の府中の兵力は2千程度で,
敬和の側は,亜北の諸領主を糾合したために,
2万にまでふくれあがっていたのである。
南家の陣営全体が,気が大きくなっていた。
だが結局は,英成王の読みが正しかった。
府中は,南勢の数度の総攻撃にも動じなかった。
疲弊と焦燥から動揺を生じたのは南勢の方であった。
南陣営からは,府中方への寝返りが相次ぎ,
敬和は,撤兵を決断した。
とはいえ,南勢の撤退は容易ではなかった。
英成の前言どおり,
府中は,敵地深くにある。
南勢は,敵地に孤立していると言っても良かった。
撤退に際して,南勢は大損害を出し,
英成王も府中方の猛反撃にさらされることとなる。
しかしながら英成王は,良く府中方の追撃を凌いで,
辛くも十和に帰還することができた。
南勢を潰滅できなかったとはいえ,
府中方には勢力挽回の機会が訪れた。
府中方に取って頭が痛かったのは,戴くべき「十和宮」がいないことであったが,
これも,英成王の叔従父にあたる成延という人物を担いで「十和宮」とすることで凌いだ。
いよいよ府中の船岡義堅が攻勢に出る番であり,
将軍位の統一を狙って,南家の版図へ侵攻してきた。
府中勢の攻撃にさらされる事になったのは,
英成王の拠る十和であった。
十和は,高屋川西岸の要衝であり,
山内の入り口とも言える場所であった。
天爵22年(1473),
船岡義堅は,1万5千を率いて高屋川を渡り,
十和を望む吉和川河畔の室岡に陣を敷いた。
英成王は南家の敬和に援軍を仰いだ。
未だ加冠前であった昭成王子であるが,
「今,当家は危急存亡の時です。
どうか,軍に加えてください。」
と英成王に懇願し,許可を得てついに初陣を迎えることとなった。
南勢は,先手の国木和資(くにき・かずすけ)・永富和正が,突出,
吉和川を渡河して室岡の府中勢に襲いかかった。
ところが,これは先の府中攻囲戦の雪辱を果たそうとする余りに生じた,
両将の勇み足であった。
始め府中勢を押していた国木・永富らは,執拗に相手に追いすがり,
そのために敵の懐深くに誘い込まれた形となった。
結果,包囲攻撃を被った南勢の先手は壊滅し,国木・永富両将は,
戦死してしまった。
緒戦で完勝した府中勢であったが,
日が落ちた後,十和・南勢の第二波の攻撃に遭遇する。
府中勢は,この夜襲に大混乱となり,
当主の船岡義堅を討ち取られ,潰走を余儀なくされた。
船岡本宗家は,この敗戦によって急速に衰退,
傘下の重光義忠(しげみつ・よしただ)が台頭する。
重光氏は,船岡家当主を傀儡化して,
やがて,船岡家を乗っ取ってしまうのである。
十和宮家は,危機を免れたのであり,
昭成王子も初陣を勝利で飾ったのであった。
船岡将軍家は,皮肉にも本宗家が重光氏に滅ぼされたことによって,
南家のもとに統一された。
しかしながら,船岡将軍家が代々本拠をおいていた鎮守府は,
当然,船岡本宗家を乗っ取った重光氏に押さえられたままである。
南家と重光家は,亜北の覇権をめぐって引き続き争った。
大康5年(1478),重光義忠は,
南家に属していた早和久(そう・かずひさ)を調略して寝返らせ,
志和の地を攻略させる。
重光氏はさらに攻勢を強め,
南家の古川,佐沼を占領し,
南家の本拠 山内と要衝 三沢の連絡を遮断した。
南敬和は,名和平原の有力諸侯 鷲尾文俊(わしお・ふみとし)の協力を仰ぐ。
鷲尾氏は代々名和国の大臣職を占めた程の名門であった。
文俊は,佐沼・古川を攻め落として重光方を圧迫,
重光義忠は志和を引渡して南敬和と和睦した。
この年,昭成王子は,南敬和の娘 明子を正室に迎えている。
義忠は,劣勢を覆すため,大康7年(1480),
鷲尾文俊と敵対する名和平原の高宮武豊(たかみや・たけとよ)と連携した。
重光・高宮連合軍は,志和を陥落させ,
翌年には,三沢までも攻め破った。
こうした中,昭成王子は,大康10年(1483),宮束の戦いで重光軍を大破し,
十和宮家の存在感を示している。
しかし,南家の勢力圏が後退したことにより,
十和家の所領は,半ば敵地に突出する形となっていた。
殊に大諸侯 高宮氏と境を接しており,連年高宮軍の攻撃を被る事態は,
十和宮家にとって非常に脅威であった。
瑞穂皇帝の血を引く十和宮といえども,
敵対する諸侯にとっては,敵方の正統性を担保する厄介な存在でしかなく,
むしろ,積極的に標的にされ得る状態であった。
事態は年々,十和宮家にとって困難となっていく。
大康12年(1485),南敬和が薨去,後継争いが生じる。
英成王は,敬和の嫡男 熾和(おきかず)を助け,
この後継争いに介入した。
熾和は,対立候補であった和盛を破って南家の当主となった。
ここまでは,十和宮家にとって望ましい展開であった。
ところが,大康14年(1486),南熾和は,それまで敵であった高宮武豊と和睦,
武豊の娘を嫡男 貞和の正妃に迎えたのである。
南家は,鷲尾・高宮両氏が和睦したのに合わせて両者と連合したのであり,
宿敵である重光氏への包囲網を形成したのであった。
熾和は,この和親の際に,南側と高宮側の係争地で一部,
高宮側に譲歩した。
その中には,十和宮家が実効支配していた所領や,
南家に属していた諸侯の勢力圏も含まれていた。
高宮方は、南家の軍勢が件の土地から引き上げると、
たちまち、これらの土地へ兵をいれた。
抵抗する領主もあったが、衆寡敵せず高宮勢に逐われてしまった。
英成王は,
「熾和公は,当家の守りでありながら当家を損ない,
また諸侯らの力を借りて将軍位に就いておきながら,
諸侯らに何の断りもなく,高宮に諸侯の所領を引き渡してしまった。
血を流したのは,我らである。
我らを蔑ろにするにも程があろうというもの。」
と憤慨し,英成王と同じく熾和に不満を持った周辺諸侯と連携して,
にわかに南家と袂を分かち,十和宮家独自の勢力を形成した。
長門政権滅亡以後,奉戴される飾りとなっていた「十和宮家」が,
自立したことは,画期的な出来事であった。
南熾和もかつての船岡義堅と同じ手法を採った。
十和宮家の血筋の人間を引っ張ってきて「十和宮」として立てて「名分」を得,
英成王を「十和宮」の偽主として打倒しようという手法である。
さて昭成王子の正室 明子は,熾和の妹であったが,
夫 昭成王子はもとより,舅 英成王や家中の信頼を得ていたこともあり,
そのまま十和家に留まって,この年,昭成王子の嫡男 頼成王子を産んでいる。
新たな一歩を踏み出した十和家であったが,
しかし,当主の英成王子自身が,
翌大康15年(1488),突如として薨去してしまう。
南熾和は,英成王の薨去を十和派打倒の好機と見て,
十和遠征を敢行する。
ここに至って,十和宮となった昭成王は,
初手から困難を迎えることになった。
南勢1万8千は,十和に攻め寄せた。
十和方は,本拠を固守する。
押井氏や温岡氏,布施氏ら十和派諸侯らも,
十和救援を決定して軍を進発させた。
救援到着まで,十和方は総勢2千で持ちこたえ無くてはならない。
さらに昭成王は,十和宮家の菩提寺たる安正寺に赴き,
賢人として名高い覚信という僧を訪ね,
「私は,瑞穂の帝の血を引く者です。
天下をあまねく治め,安んじた帝室の末なのです。
私は,それをただ誇りに思うだけではなく,今の乱世を鎮めて,
帝室の末として恥ずかしくない大業を成し遂げたいと思っております。
しかしながら,私は非才で,この度もただただ右往左往するばかり。
どうか,貴方様のお力をお貸しください。」
と,辞を低くして協力を求めた。
覚信は,
「まずは,今の困難を乗り越えましょう。私を北方(きたがた)へお遣わしください。
春田家や督(かみ)家と結べば,南家を南北から挟撃できます。
春田・督両家は,先の南家の継承争いの際,熾和と対立する和盛を推しており,
それ以前にも,しばしば南家との間で境を争っております。
利害を説いて参ります。」
と進言した。
昭成王は,覚信を北方へ遣わした。
北方とは,亜北の西北地域の事を指す。
北方随一の港湾 長瀬には春田氏がおり,北海交易で繁栄しており,
北方西岸では,督氏が,内海交易で利をあげていた。
覚信は,これらの諸侯を説得し,
南家の領国へと侵攻させることに成功した。
さて,南勢の総攻撃を被った十和では,
昭成王の股肱 里見泰之の働きが目覚ましかった。
南勢の十和攻撃軍を押し戻すと,
機を見て再三,寡兵で打って出て,
南勢を恐慌状態に陥れた。
南勢は泰之を「鬼夜叉」と呼んで畏怖した。
南勢は決定打を欠いたまま,
十和を攻めあぐね,
十和派の十和救援軍を迎えることとなり,
さらに春田・督両氏の本国侵入の報に接する。
ここにおいて,南勢は,
撤兵を余儀なくされたのであった。
多くの諸侯・諸豪が南熾和から離反した。
熾和は,新たに離反した諸勢力の掃討,
さらには,春田・督両家との勢力争いに忙殺されることとなる。
重光義忠は,これに乗じて南家の版図を切り取ろうと
大康16年(1489),
従弟の義脩(よしなが)を総大将に任じ,兵1万5千を与えて西進させた。
昭成王率いる十和派は,
南家の滅亡が自派の危機につながるため,
重光軍の西進を遮る動きに出る。
ここにいたり,重光方は,
先手の早家の軍を三沢へ入れ,
総大将 義脩が志和へ入城,
十和領をうかがった。
三沢に入った早家の当主は,
かつて南家から重光家に鞍替えした
早和久から既にその子 重久へと代替わりしている。
重光方は十和へ向けて進発,
陸路で,高屋川の水上で,
各所において十和方を破った。
昭成王は,重光軍の先手を屠ろうと弟 成晴とともに十和を出撃する。
程なく,昭成王は重光軍が黒沢を進軍中であるとの報を得た。
十和は,三沢と志和の線を底辺とする逆三角形の頂点にあたり,
志和は,十和のほぼ真北,三沢と志和の大体中間に有る。
昭成王が三沢から出てきた重光軍の先手であろうと思い突入した相手は,
実は,志和から三沢へ移動中の重光軍の本隊であった。
重光軍本隊は期せずして十和軍の突入を受けたのであり,
態勢も整ってはいなかった。
黒沢が隘路であり,進退が容易でないことも手伝って,
重光軍は,混乱を極める。
十和軍は,総大将 義脩を討ち取った。
早重久は,三沢を放棄して撤兵し,後には昭成王の弟 成晴率いる十和勢が入城,
志和は,里見泰之の攻撃に抗いきれず開城した。
亜北の二大勢力であった南家と重光家が衰退したことにより,
亜北ではにわかに群雄割拠が進んだ。
さて,今や昭成王の参謀となっていた安正寺の僧 覚信は,
先の黒沢の戦いの直後,還俗した。
覚信の実家の父 早意智(そう・おきとも)と兄 貴智(たかとも)が亡くなり,
実家を継がなくてはならなくなったからである。
覚信の父兄は,黒沢の戦いの前哨戦で戦死したのであった。
覚信は,早智秋となった。
珍しい「早」の姓で明らかなように,
重光氏に属している早重久の血縁に当たる。
重久の早家が本家,智秋の早家は傍流である。
黒沢の戦い以後,
早重久は,重光氏から独立する動きを見せていた。
智秋は,
「早重久公と結ぶ好機です。
重久公の所領は当家の北にあり,
重光・南両氏を牽制できる地を占めています。
当家は,亜北のことは重久公に預け,
人口多く,交通の開けた名和方面へ打って出るべきです。
山深い亜北に居ては,大業の成就はおぼつかないでしょう。」
と進言した。
智秋は,本家の重久を説き,
大康17年(1490),十和家と早家の同盟が成立したのであった。
十和・早両家の同盟直後,
南家および高宮軍が動いた。
南軍は隣接する早家領国へ,
高宮軍は,十和宮家領国へ侵攻してきた。
黒沢の戦いで重光氏の勢力が後退したことで,
南家は一息つくことができた。
南熾和は,これを機会に十和派を降そうと考え,
高宮家と十和派を挾撃しようと狙ったのである。
十和軍と高宮軍は,早瀬原で衝突した。
十和軍は,数で勝る高宮軍に押され,
徐々に後退を余儀なくされる。
十和軍総崩れは,時間の問題とも言える状況となった。
しかし,十和軍は,
小勢であるにもかかわらず二手にわかれており,
里見泰之の一隊が伏兵となっていた――
十和勢を圧倒し始めていた高宮勢は,
側面より十和方の伏兵となっていた里見泰之隊の突入を被った。
「鬼夜叉」とまで呼ばれた猛将の攻撃を受けて,
今や,高宮勢の方が総崩れとなった。
依然として,早重久は,南熾和と対峙していたが,
十和軍は,高宮軍を破るとそのまま,早重久救援に動いた。
ここにおいて,南熾和は,好機は去ったとみて,
撤退していったのであった。
この早瀬の戦いの後,十和家は徐々に高宮家の勢力圏を蚕食していく。
大康19年(1492),高宮武豊が42歳という若さで卒去した。
後継は,武豊の長子 綱豊である。
綱豊には暗愚の評があり,
昭成王は,
「この機会に、高宮から当家の所領を取り返そうと思うが、
どうであろうか。」
と家中に諮った。
ここでいう「当家の所領」とは、もちろん、
南家が高宮家との和親の際に,
勝手に高宮側へ引き渡した十和家の所領である。
早智秋,東条誠久らは
「まだまだ,高宮家には,
主君のために働く勇将・智将も数多くいます。
彼らは,武豊の死を深く悼み,
かえって綱豊を支える気持ちが強く,結束しています。
兵を動かす前に成されるべきことがまだまだあります。」
と出兵を反対したが,
賛成の声も多く,
結局,昭成王は,智秋・誠久らを留守居として,
弟 成晴・里見泰之とともに自ら兵1万5千を率いて十和を進発した。
十和軍は,
旧領である矢内地方を目指して出撃した。
しかし,十和軍は,
高宮軍の頑強な抵抗に遭遇し、
戦果は全く挙がらない。
こうした折,
早瀬の戦いの後,高宮方から十和家に鞍替えしていた
篠井豊元(しのい・とよもと)が,
高宮家の八幡元彦の調略によって高宮方へ復帰し,
十和軍の背後を突く動きを見せた。
昭成王は,十和への帰還を即断する。
里見泰之が自ら殿軍を買ってでた。
泰之の活躍により,十和軍は高宮方からの追撃を凌ぐことができた。
退却中に篠井勢と遭遇すると
昭成王の弟 成晴は,自ら篠井勢を引き受けて昭成王を逃した。
泰之も,成晴もからくも死地を脱して十和に帰還することができた。
帰還後,昭成王は,
「このたびのことは,智秋・誠久の折角の忠言を容れなかった私に
全面的な非がある。」
として早智秋・東条誠久,将兵ら深くに詫びている。
大康20年(1493),
高宮方で,八幡元彦・西井元孝が十和方に内通しているという噂が流れた。
高宮綱豊は,にわかに動揺したが,
側近の一人である川中豊広が
「これは、十和方の謀略です。」
と綱豊に進言した。
一旦は,落ち着いた綱豊だが,
今度は,川中豊広が十和方と通じているといううわさが立ち,
さらに,豊広が十和方とやりとりしていると見られる密書まで出てきた。
川中豊広は,綱豊の前で
潔白を訴えて,
「敵の流言蜚語の類に乗せられてはなりません。」
と忠言した。
川中豊広は,その場では罪を得ずに済んだが,
それは主君 綱豊の優柔不断の賜物でしかなかった。
綱豊は,結局,疑心暗鬼を生じて噂の立った諸将を遠ざけ始める。
不遇をかこつこととなった豊広は,
懊悩するうちに病にたおれ,亡くなってしまった。
この有様を目の当たりにし,西井元孝は、
「忠義とは,なんであろうか。」
と煩悶を抱え,親交の深い八幡元彦と語らって,
ついには,共に本当に十和家に奔ってしまうのである。
元より流言蜚語は,早智秋の謀である。
高宮綱豊は,川中豊広の懊悩による死に触れ,
豊広が真に無実であったことを覚った。
しかし,本来なら
西井・八幡両将を失わずに済んだことまでは,気づかなかった。
両将が始めから,
十和家に通じていたのだと思い込んでしまったのである。
綱豊の猜疑心は,いまや強固なものとなった。
猜疑心と豊広を死なせてしまった悔恨から無気力となった綱豊は、
遊興に耽溺するようになってしまう。
綱豊を見限る者が増え、
徐々に十和方の高宮方に対する調略は効果を上げ始め,
十和方になびく者が続出した。
大康21年(1494)に入ると,
増田国継・依井元伴(よりい・もととも)ら高宮領北辺の有力領主が
十和方の誘いに応えて相次いで十和家に鞍替えした。
十和家の旧領であった矢内地方は孤立,
昭成王は,兵を進め,ついに旧領を奪還した。
十和家の勢力圏は,
今や高宮家本拠 長山の最終防衛線にまで迫った。
ここにいたり,昭成王は,
長山の最終防衛線となっている拠点の中でも
その中核とも言える石岡を攻撃した。
高宮方の士気は低かったが,
石岡は堅牢であり,よく十和勢の攻撃に持ちこたえた。
また,この頃になると,勢力拡大を続ける十和宮家に対して,名和国宮廷が危機感を抱き始めた。
瑞穂皇帝の血筋を受ける十和宮家が名和国を凌ぐ力を持つようになると,
「皇帝の代理」として名和平原を治める名和国は,その存在意義を脅かされるからである。
鷲尾家は大軍をもって,高宮家を救援する動きを見せた。
昭成王は,
「今や,将兵は疲弊し始めている。
鷲尾の新手を相手にするのは厳しいであろう。」
と,撤退を検討し始めた。
しかし,早智秋は,
「高宮綱豊は,石岡の救援を従弟の豊貞に任せきりで,
自身は長山に籠ったまま遊興に耽っています。
結果,高宮軍は,全体として士気が上がっておりません。
当事者が無気力であるために,
高宮の友軍である鷲尾勢も石岡の救援に積極的になっていません。
石岡はあと一押しで落ちます。」
と昭成王を励ました。
まもなく,石岡の将の一人,野中氏元が十和方に寝返った。
氏元の手引きにより十和勢は,石岡になだれこむ。
十和軍による石岡占領の報を受けて,
鷲尾軍は,本領へ帰還していった。
綱豊の無気力,
その無気力を反映する形となった石岡救援の失敗――
綱豊の求心力は奈落の底まで落ちたといって良く,
高宮家中は崩壊するに至る。
大康22年(1495),昭成王は,いよいよ高宮家本拠 長山へ進撃した。
高宮方からは,十和方へ大量の投降者が出る。
綱豊は,ついに長山を出て名和平原の寺内町 川島へと落ちていった。
十和軍は,ほぼ無傷で長山に入ることができた。
高宮家を滅ぼし,その版図を併呑した十和家は,
一躍,名和国内の有力勢力となる。
昭成王は名和平原へ一歩を記した。
その翌年である大康23年(1496),
名和国の都 津京(しんきょう)で変事が起こった。
大康王が弟 義枚(よしひら)を奉じる一派によって弑殺されたのである。
この年の干支から丙辰の変と呼ばれる。
義枚派の筆頭は,鷲尾文俊である。
弑された大康王は,先の国王 天爵王の甥であるが,
天爵王に男子がいなかったために,後継とされたのであった。
しかし,元々,天爵王の後継候補と目される王族は幾人もいた。
大康王は,候補の中ではむしろ不利な立場にあった。
元服前だったからである。
にもかかわらず幼年の大康王が即位できたのは,
名門 鷲尾氏の意向が働いたためであった。
ところが,大康王は成人後,親政を志したから,
朝廷での実権を掌握し続ける鷲尾氏との確執が年々,
深くなっていった。
ついに大康王は,側近の泉義映(いずみ・よしあき)と結んで
鷲尾氏の排除を画策するようになった。
ところがこの企ては,朝廷に深く勢力を張る
鷲尾文俊の知るところとなった。
文俊は,
先手を採って大康王を弑逆し,政敵の泉義映を敗死させ,
より従順な性質の王弟 義枚を王位につけたのである。
大康王の太子 義知は,難を逃れ都を脱出した。
鷲尾文俊は,堀田典豊に義知の捕捉を命じた。
十和家中では,早智秋が
「ここは,太子に救援を出して当家に迎えるべきです。
当家は,皇帝の末といえど,恐れながらまだ力は名和国全体に対して小さく,
名和国の諸侯・諸臣で,名和国王に忠義を誓う者は多くございます。
太子を迎えれば,当家は,名和国を安んずるという名分を得,名和国王に忠義を誓う者を集めることもできます。」
と主張した。
昭成王は智秋の言を採用して,太子 義知救援のために長山を進発した。
昭成は,里見泰之を太子の救援に向かわせると,
自身は鷲尾勢の退路を絶ちにかかった。
このため,鷲尾方の堀田典豊は,
義知の捕捉をあきらめて引き上げた。
鷲尾文俊は,典豊を叱責する。
鷲尾家中の重鎮 大熊俊就は,
「堀田殿が無理に義知を追っていれば,
我が軍は潰滅していた可能性があります。
堀田殿の判断は妥当です。」
と擁護した。
しかし文俊は,納得せず堀田を擁護した大熊俊就に不信を抱くようになる。
また,文俊は,時永貴廉(ときなが・たかかど)から
早期の昭成討伐を勧められていた。
ところが,文俊は,昭成の存在を重く見てはおらず,
貴廉の進言を受け流した。
この間に,昭成は,入京に向けて態勢を整えていく。
早智秋は,
「今,盟友である早重久公は,
南・重光両氏の南進を引き受ける事態となっています。
この事態をそのままにしておいては,
重久公は,当家との誼を断ち切ってしまうでしょう。
重光家はともかく,南熾和公とは,和睦の余地があります。」
と語り,昭成に南家との和睦をすすめた。
昭成は,早智秋を南熾和のもとへ遣わして,南家と講和した。
講和にあたって,十和方は,三沢と志和を南家に割譲している。
三沢と志和は,もともと南家の所領であったが,
重光氏が奪取,その後,大康16年(1489)の黒沢の戦いで
重光氏から十和家が奪った土地であった。
熾和は,重光氏に対抗する必要から,
強大化した十和家との和睦を喜んだ。
十和家でも昭成の正室 明子が実家と十和家の対立の終焉に,
胸を撫で下ろしたという。
さらに昭成は,太子 義知の正統性を諸侯に喧伝して義知派を形成し,
鷲尾氏と敵対する比奈氏や才原氏に鷲尾領をうかがわせた。
ここにいたり,ようやく事態を重く見た鷲尾文俊は,
十和討伐を企図するようになった。
とはいえ,先に文俊が時永貴廉の進言を受けた時とは,
情勢は変わっていた。
昭成王は,今や名和王太子 義知という大義名分を手にし,
後背地を安定させ,鷲尾氏に対する包囲網を築き始めていた。
鷲尾家臣 時永貴廉は,主君 文俊に進言するに当たって,
こうした情勢の変化に鑑み
短期決戦論から,持久戦論へと主張を変えていた。
その一方,鷲尾家内で従前より貴廉と対立していた
村谷師康(むらたに・もろやす),三山俊勝らは,
貴廉の進言を場当たり的と批判,
文俊に短期決戦を進言した。
十和宮家が,いまだ高宮領を併呑してから間がなく,
人心を安定させていないだろうという予測が,
短期決戦論の論拠であった。
文俊は,自身が短期決戦を望んでいたこともあって,
自らの意向を後押しする村谷・三山らの進言を採用した。
大熊俊就は時永貴廉を支持して,
村谷・三山らの意見を根拠薄弱な楽観論であると指摘,
持久戦論を展開して,再考を文俊に促したが,
これは,文俊に煙たがれるだけの結果となる。
村谷師康は,
大熊・時永両将が家中での強盛を恃んで増長していると讒言した。
情勢の変化を考慮しない文俊は,
時永貴廉の進言内容の変化を臨機応変とは受け取らず,
「一貫性を欠いている」
と断じて,貴廉と貴廉を支持した大熊俊就の両将を疎んじるようになる。
昭成王は,早智秋・里見泰之を率いて,
長山を進発,鷲尾勢に対処する構えを見せた。
留守は東条誠久が預かった。
高い行政手腕を信頼されてのことである。
旧高宮領などは,前年に十和家領となったばかりであったが,
誠久は,よく昭成王の信頼に応えてその留守を守った。
大康24(1497)鷲尾文俊は,
猛将 桐島景宏・菊川俊継,水軍の将 高木景矩らを率い,
三万の兵を擁して十和領の久慈を攻撃する。
久慈は名和平原北方の穀倉地帯をおさえる要衝で,
高屋川の水上交通網から見ても主要港湾の一つである。
昭成王は,早智秋の言を採って,軍を囮と主力に分けた。
さらに,智秋自身が早水軍を率いて鷲尾勢の背後を撹乱する。
十和軍の囮部隊は,西井元孝・八幡元彦で,
久慈救援の主力は,里見泰之・泉忠映であった。
泉忠映は,丙辰の変で,大康王とともに鷲尾文俊に討たれた
泉義映の子であり,復讐戦に燃えていた。
鷲尾軍の先手 桐島景宏は,囮部隊の陽動につられて,
突出し西井・八幡隊を攻撃した。
西井・八幡隊を押していた桐島隊であったが,
里見・泉隊の強襲を受けるとたちまち潰乱し,
景宏自身も里見隊に討ち取られることとなった。
さらに早水軍も,鷲尾水軍を破って,高屋川東岸に上陸,
鷲尾軍の側面を攻撃して大勝を博した。
この事態に鷲尾文俊は,ついに久慈の攻略を諦め,
退却を決める。
鷲尾軍の殿軍を引き受けた菊川俊継は,
十和軍の追撃を受け,成晴に討たれた。
十和方の完勝であった。
久慈で昭成王が鷲尾軍を破ったことによって,
名和平原の反鷲尾勢力は,にわかに勢いづいた。
名和平原西部の才原氏,南部の比奈氏,東部の片島氏らが,
昭成王に接近してきた。
また,今は鷲尾領となっていた泉氏の旧領でも,
かつて義映に仕えていた残党が蜂起した。
昭成王は,義映の子 忠映を泉旧領へ派遣して泉残党の指揮を採らせた。
大康25年(1498),昭成王は,
「機は熟した。今こそ名和国の逆臣と偽王を打ち倒す時である。」
と,津京を目指した。
昭成王の十和軍は,泉軍,才原軍とともに北西から,鷲尾領へ侵攻,
南西からは比奈軍,東からは片島軍がこれに呼応した。
しかし,鷲尾方は孤立したわけではなかった。
名和平原の南方 川手地方に拠る山奈広康は,
鷲尾文俊を救援した。
山奈広康は多年,単独で湯朝志賀国の名和国領への侵攻を
阻止し続けている人物である。
名和国の一地方の一諸侯に過ぎない立場で,
湯朝という名和国全体の好敵手であり続けた一国と,
渡り合っていたのである。
しかしその湯朝志賀国は,近年,深刻な飢饉に見まわれ,
名和国領へ侵攻する意欲も力も失っていた。
このことが広康の野心に火をつけた。
広康は,
「当家飛躍の機会は,今にある。
十和宮と対峙し,うまく打ち勝てば,
当家は,衰えゆく鷲尾家を抑えて名和国の主となれるであろう。」
と考えた。
広康は,自ら兵1万5千を率いて北上,
智将 里谷行賢に兵5千を与え,
別働隊として友谷(ともたに)というところに伏せさせ,
比奈勢を襲わせた。
比奈勢は,潰滅した。
広康は,行賢と合流すると,東へ進路取り,片島軍を襲った。
片島勢は兵5千程度であり,2万の山奈勢の前に潰走を余儀なくされた。
電撃的に比奈・片島両軍を破った広康は悠々と津京に入り,
鷲尾文俊の歓迎を受けた。
十和方の鷲尾家に対する包囲は,
山奈広康の動きの前に崩されてしまった。
山奈広康は,
「畿内へ進撃してくる十和軍を,
鶴岡の丘陵に陣して,固く守り,十和勢を待つべきである。」
と主張した。
鷲尾家中では,広康の台頭を快く思っていない村谷師康,三山俊勝らが,
広康の主張に異を唱え,積極的に打って出るべきであると,
主君 文俊に進言した。
一方,時永貴廉,大熊俊就らは,広康の主張を推した。
鷲尾文俊は,当初,広康に同調していたが,
結局,村谷・三山らの言を採って安原まで進出することにした。
鷲尾・山奈連合軍4万は,畿内への十和勢侵入を阻止すべく,
長瀬街道を横切る形で安原に布陣した。
十和勢は,これに対して,
先手の昭成王の弟 成晴や泉忠映らが,鷲尾勢の正面へ攻撃を仕掛ける。
鷲尾勢は,成晴・忠映に対処すべく動いた。
この間に,昭成王率いる十和軍主力は,才原勢とともに
鷲尾・山奈勢の側面に回り込み攻撃態勢を整えていた。
広康は,友軍の鷲尾勢が十和方の陽動につられて動いた事を知ると,
「勝敗は決した。ここに留まり鷲尾勢の盾になる義理はない。」
とあっさりと川手へ向かって引き上げてしまう。
昭成王・里見泰之・西井元孝ら十和軍主力,才原勢は,
側面から鷲尾軍に突入して,その軍を大破した。
求心力の低下した鷲尾文俊は,都を保つことができなくなり,
津京と川手のほぼ中間にある長津へと逃亡する。
昭成王は,入京してついに名和国王太子 義知を王位に即けた。
義知は天佑王と称される。
昭成王は,名和国の覇者となったのである。
時永貴廉,大熊俊就は,鷲尾文俊を長津へ逃すために,
津京近郊で抵抗を続けていたが,十和勢の猛攻の前に敗退した。
大熊俊就は逃亡したが,時永貴廉は,里見隊に捉えられてしまう。
昭成王は,
「貴廉殿のような賢臣の言を採っていれば,
鷲尾公は今日のような憂き目にあわずに済んだものを。」
と言って,時永貴廉の才を惜しみ貴廉を自陣営に誘ったが,
貴廉は,頑として受け入れず,死を選んだ。
自らが奉戴した義枚とともに長津へ逃亡した鷲尾文俊は,
まもなく病を得,そのまま不帰の客となる。
鷲尾家の勢力は分裂し,その一部は山奈広康に,
併呑されることとなった。
義枚も広康に保護される。
広康は長津に,勇将 佐伯嘉秀を配し,杉山頼友を副将につけて,
昭成王に備えるとともに,
自分に従わなかった大熊俊就らの鷲尾残党を討滅した。