天佑王即位

昭成王は,長津地方以外の鷲尾氏旧領を自らの直轄領として接収し,
また,朝廷において全権を掌握した。

即位よりしばらく後,天佑王は,

「この国にとっては,文俊を十和宮に変えただけであった。」

と,嘆息する。

天佑王の言葉を伝え聞いた昭成王は,

「国王は,先王を弑した逆臣と,私を一緒になさるのか。」

と,不快感をあらわした。

朝廷では,昭成王による権力独占を快く思わない諸侯や廷臣もおり,
天佑王から信頼を寄せられた有力諸侯 蓮城国貞を中心として反十和派が形成される。

昭成王の力で領国に復帰した泉忠映も,
十和宮家の台頭を疎んじて,次第に蓮城国貞に接近した。

朝廷の分裂を見て取った山奈広康は,
天佑3年(1500),兵2万を率いて津京を目指して北進する。

昭成王は,東条誠久に留守を預け,
弟 成晴や早智秋・里見泰之らとともに広康の迎撃に出た。

蓮城国貞は,泉忠映らと決起,天佑王を奉じようと動く。

しかし,東条誠久は,反十和派の動きを把握しており,
先手を打った。

蓮城国貞・泉忠映を始めとする反十和派は,
いち早くそれぞれの屋敷を個別に包囲され撃滅される。

反十和派の敗北を知ると,山奈広康は好機が去ったとして,
本拠 川手へ引き上げていった。

津京に帰還した昭成王は,
反十和派の残党を粛清する。

泉家は,本領で忠映の遺児 知映を奉じて抵抗したが,
力尽きて降伏し,昭成王の弟 成晴を当主として迎え入れたのであった。


長津の戦い

早智秋は,

「広康は,才覚優れ,時宜を得た安原の会戦以前には,
勢力を拡大しました。

しかし,鷲尾文俊の失策に巻き込まれて時宜を失い,
その後は,当家と戦っても成果を挙げられていません。

結果,今の広康は,その優れた才覚を求心力の維持に,
つぎこんでいる状態です。

先の戦でも,蓮城・泉らの当家への反抗が失敗すると,
早々と川手に引き上げました。

長く本拠 川手を空けることができないのです。

前線の長津には,佐伯嘉秀・杉山頼友を入れていますが,
彼の地の防衛に十分な備えであるとは言えません。

直ちに長津を攻めれば,勝利できるでありましょう。」

と昭成王に献策した。

これを受け,昭成王は,山奈広康への反撃を企図し,
天佑4年(1501),長津地方へ侵攻する。

早智秋が紗摩川を,昭成王は里見泰之・八幡元彦・西井元孝とともに陸路を進み,
元鷲尾配下の勇将 川下朋之が別働隊として友谷方面へ進出した。

広康は,川手からは山本統成を友谷の救援に派遣する。

山本統成は,
密かに川下朋之を急襲して敗死させた。

長津に近い中湊では,山奈方の杉山頼友が,
早水軍や八幡・西井隊の攻勢をよく凌いでいた。

しかし,昭成王は,里見泰之とともに,湯来街道の要衝 岩村を奪取すると,
中湊に迫り,ついに杉山頼友は劣勢となる。

佐伯嘉秀は,配下の市井真存(いちい・さねなが)の諫止を振りきり
長津を出,中湊の救援に赴いた。

昭成王は里見泰之とともに,長津を出てきた佐伯嘉秀を強襲,
里見隊が嘉秀を討ち取る。

十和軍は,長津を占領した。

杉山頼友は,市井真存に推されて守備軍の指揮を引き継ぎ,
中湊で堅守を続ける。

事ここにいたり,山奈広康は,
中湊の救援と長津の奪還を企図して川手を出た。

広康は,十和軍と対峙したが,
勝利はおぼつかず,頼友とともに川手に引き上げっていった。


天佑の変

天佑5年(1502),
天佑王の王后の実家 三枝家は,
天佑王の復権を目指して
畿内の寺社勢力を抱き込み,昭成王の排除を図った。

天佑の変である。

寺社勢力の中心 開成寺は,
鎮護国家を担う寺院として強力な政治的影響力と僧兵を持っていた。

その名の通り,開成年間に開山したが,
開成年間とは,名和国の初代国王 開成王の治世にあたる。

また,直堂派名和門徒も一揆を起こした。

後に安達宗治に敵対する首州の直堂派に属する集団である。

名和門徒の根拠地は,
名和平原東部の高屋川の中洲にある川島御坊であった。

寺社勢力は,三枝家の目的に賛同して蜂起したわけではなく,
昭成王が,入京以来始めた寺社統制に対しての反発から蜂起したのである。

昭成王は,天佑王への譲歩を言い出したが,
早智秋は,

「今や,畿内の寺社は,自らの利のために
命のやり取りをするような破戒僧の集団です。

彼らに大義などなく,恐れる必要は有りません。

さらに,当家に敵対する勢力は,国内では彼らと山奈広康くらいです。

広康は,先の長津失陥から立ち直っておりません。

つまり,寺社側に援軍はないのです。

粛々と兵を進めるならたやすく打ち破れましょう。」

と言った。

昭成王は,智秋の進言を受け,容赦なく開成寺を攻め破り,
また,直堂一揆の畿内への侵攻を撃退して,
孤立無援となった三枝一族を粛清した。

天佑王の后も計画に加担したとして廃され,連座して処刑される。

名和門徒は,堅牢な川島で抵抗を続けたが,
十和軍の包囲を被ることとなった。

ここに,天佑王は完全に孤立したのであった。


天命

天佑6年(1503),
名和国の諸侯,臣下は,亜州東海岸青海にある
青海宮(おうみぐう)に神託を仰いだ。

そこには瑞穂帝室の祖先神が祀られている。

青海宮では,
「明楽帝の血脈を世々,皇子の血により受け継いできた綾湊宮家の昭成王が,
帝位に就くべきである。」

との託宣が得られ,その結果,昭成は,
始祖の「宮号」である「綾湊」に復帰し,
綾湊宮となった。

「宮号」とは,
瑞穂帝室において帝位継承権を持つ男子の家の称号であり,
皇帝から臣下へと授けられる「姓」・「氏」や,
自ら名乗る「名字」とは別のものである。

臣籍降下してしまえば帝位継承権を喪失し,
「姓氏」を皇帝から与えられる。

綾湊宮家の始祖 明楽帝の第五皇子 久世皇子は,
明楽帝より,亜北の綾湊を与えられるとともに
「綾湊」を「宮号」とすることになった。

久世皇子とその子孫は,そのまま代々,都にあったが,
瑞穂国分裂の際には,当主 嘉高が長門政権に従って都から綾湊に移ったのである。

その後,綾湊家は,
嘉高の玄孫 嘉尋が病弱であった長男・次男に変わって
三男 嘉成に譲位し,本拠を十和に移したのであった。

ちなみに,広奈国の帝室の宮号は,「葉山」であり,
各務国再興をうたう紗耶正信の「紗耶」も「宮号」である。

紗耶家の場合は,前各務国時代に皇帝から「紗耶」の宮号
を与えられてそれをそのまま保持し続け,広奈国時代には,
名字化していた。

これを正信が「宮号」として復活させたのである。

さて,昭成が「綾湊」というより瑞穂帝室に親しい「宮号」を称したことは,
皇帝即位への意志を示したことにほかならない。


即位

諸侯・諸臣は,

「本来,名和国王は,
特別の事情によって帝室の代理としてこの地を治める者です。

今や,天意を受け,
名実ともに帝室を継承されるべきあなた様がおいで遊ばす以上,
名和国王はその権を奉還して退位すべきです。

何卒,あなたさま御自らご即位遊ばされ,瑞穂の国の再興を宣されて,
社稷を安んじくださいますようお願い申し上げます。」

と昭成王に皇帝即位と瑞穂国の再興を推めた。

ここにいたり,天佑7年(1504),
昭成王は即位,瑞穂国の再興を宣言して,
元光の元号を建て,後世,「元光帝」と称される。

「元」の字には,「始め」の意があり,
「光」の字には,「業績を受け継ぐ」という意がある。

つまり,古代の瑞穂の「業績を受け継ぐ」事業を「始め」る
という意味の元号である。

正室 明子は皇后となり,
皇太子には,皇后 明子の産んだ長皇子 頼成皇子が立てられた。

ちなみに元光帝には,側室がいない。

皇太子 頼成皇子,次男 安成皇子,三男 重成皇子,四男 熙成皇子の四皇子と
三皇女は,いずれも皇后 明子との間に生まれている。

一方で太子 頼成には,この時すでに正妃の他,多くの側妾があった。

名和国の天佑王は,政権を返上して退位し,
改めて元光帝から公爵として封建されている。


親征

元光帝による瑞穂国は,
古代の瑞穂国と区別して後瑞穂国,元光朝瑞穂国,または,
綾湊宮家による瑞穂国を意味する綾朝(りょうちょう)瑞穂国と称される。

綾朝は,しかしかつての瑞穂国に比べれば,
まだ名和平原と亜北の一部を実効支配するにすぎない,
極めて小さな勢力でしかなかった。

旧名和国諸侯の一部も,綾朝に抵抗していた。

元光帝は,各地に軍を派遣して,抵抗する諸侯を討伐させる。

元光2年(1505)には,早智秋、市村時足、上村晴世らの軍が亜州西海岸へ侵攻、
瀬野氏を破った。

結果、綾朝は、熊浜湊を確保して内海交易圏への進出を果たし,
常盤に続々と来航し始めた西洋諸国ともつながっていく。

この年には,また里見泰之が名和平原東南の浅見氏を降しているが,
それに伴い,山奈広康の勢力下にあった御風(みかぜ)氏が,綾朝に臣属する。

御風氏は,その領国が浅見氏の領国と接しており,浅見氏が綾朝に降伏したことで,
今度は,綾朝と接することになった。

長津の戦いで山奈氏が勢力を後退させる中,
御風氏は,綾朝の臣となることが最良と考えたのである。

綾朝と敵対し続ける,山奈広康はいよいよ孤立を深めた。

広康が奉じる名和国王族 義枚もこの頃には逝去し,
その家は,義枚の嫡子 義憲が継承したが病弱であったという。

元光3(1506),元光帝は広康に止めを刺すべく,
親征を敢行した。

綾朝軍は6万に膨れ上がっており,
対する山奈軍は,かつてより勢力を弱め,
兵9千程度しか集められなかった。

綾朝軍は,その数の力を活かし,
山奈領の要衝を次々に占領,川手に迫る。

ここにいたり,
広康は,湯朝の都 湯来に腹心の里谷行賢を派遣して,
名和王族 義憲を連れての湯朝亡命を打診するに至る。

即位直後であった湯朝の嘉楽王は,広康の亡命を快諾した。

湯朝の朝廷では,反対意見もあった。

広康が,かつて湯朝と敵対していたからである。

湯朝の王が長楽王や安舒(あんじょ)王だった頃である。

安舒王の後がその弟で先代の王 雍熙(ようき)王であり,
現国王 嘉楽王は,その雍熙王の従弟であった。

長楽王・安舒王親子の政権をそのまま引き継いだのが雍熙王であったが,
嘉楽王は,政権の顔ぶれを全く変えてしまった。

湯朝では政権の交替が起こったのであり,嘉楽王の新政権は,
別段,広康に遺恨を含んでいなかった。

しかも,名和王族 義憲を広康に担がせて名和国復興を掲げれば,
湯朝は名和平原進出の名分を得られる。

朝廷で広康受け入れに反対したのは,
前政権下の主流派で現政権下では反主流派となっている派閥であり,
結果として,反主流派の意見は採用されなかったのである。

無論,広康はそのあたりの事情を熟知していて,
かつての敵国である湯朝への亡命を考え,実行したのであった。

元光帝は,もぬけの殻となった川手に入り,

「今,我が国最大の敵を逃してしまった。
後に我が治世最大の失策と呼ばれるであろう。」

と広康を取り逃がしたことを大いに悔やんだという。


久香崎会戦

元光4年(1507),綾朝は,
湯朝の将となった山奈広康の反撃を受けることになる。

広康の調略によって,綾朝方の三原顕吉・鴨下憲長ら
旧鷲尾系の諸領主の一部が湯朝に寝返ったのである。

広康による,川手の奪還のための策であった。

その一方で綾朝では,
早智秋が湯朝内の反主流派を炊きつけるべく策動していた。

元光帝は,三原・鴨下らの反乱に対して,
里見泰之・西井元孝・上村晴世(うえむら・はるよ)らに陸路を,
早智秋・市村時足(いちむら・ときたり)らに紗摩川を南下させた。

一方,湯朝の嘉楽王は,山奈広康・稲森義興・火取並(かとり・ならぶ)らに兵を与えて
三原・鴨下の救援に向かわせた。

ところが,早智秋の策動が奏功,湯朝では,
反主流派が宮原政英を盟主として嘉楽王に対し蜂起する。

嘉楽王派の中心である稲森・火取両将や,精兵を持つ山奈広康らが
都を開けた隙をついてのことである。

山奈広康の軍は,取って返して宮原勢に対応した。

綾朝の早・市村水軍は,湯朝の火取水軍を破り,紗摩川での制水権を確保,
湯朝方諸城の連絡を遮断した。

これら諸城は綾朝の里見・西井・上村らによって個別に打ち破られた。

三原・鴨下らを下して勢いに乗る綾朝軍は,
内乱となった湯朝領を目指して,さらに南下する。

しかし,湯朝の内乱は,山奈広康が瞬く間に反主流派を破って終息させてしまう。

広康はそのまま軍を率いて,綾朝と湯朝の境にある要地 久香崎(くがさき)に
要塞を築くと,撤収してきた稲森隊や火取隊と合流,綾朝を迎撃した。

結局,早智秋が,

「湯朝の隙は今や消滅しました。本来の湯朝は大国であり,また山奈広康は名将です。

その上,久香崎には,堅牢な備えがあります。

今回はひとまず,三原顕吉・鴨下憲長らを討ち,
内憂を取り除けたことで良しとして引き上げるべきと考えます。」

と主張,これに諸将が同調し,綾朝軍は久香崎から撤収した。


川島包囲

名和国時代の天佑5年(1502)年以来,
元光帝は直堂派名和門徒との間に抗争を続けていた。

川島御坊で包囲を受けながらも,
なぜ名和門徒が長期に渡って綾朝に抵抗できたのか――

一つには綾朝が,山奈広康や湯朝との対決を抱え,
川島御坊に対して積極攻勢をかけにくかったのが原因である。

しかし,より名和門徒にとって幸いしたのは,
重光氏や緒土国との連携である。

重光氏や緒土国は,紗摩川下流域の制水権を確保して,
紗摩川と高屋川を結ぶ川島運河に面する川島御坊に糧食・武具などを運び込んでいた。

川島運河は,綾朝と重光氏の版図の境界線であり,
度々,衝突が起こっていたが,
大規模な水上戦力を保持する緒土国が重光氏を支援しているために,
綾朝は,劣勢に立たされることも多かった。

ところが,元光5年(1508),緒土国の王 経久が病床に伏し,
後継をめぐる争いが表面化すると事態が変わる。

この分裂は,内海の向こうの一大勢力 安達氏に対する態度の違いから生じた。

経久の嫡子 前久は親安達派であり,
その力を利用して日生国との対決で優位に立とうと考えていた。

一方で前久の弟 朝和は反安達派であった。

「安達を頼れば,安達に呑み込まれるだけであり,我らに何の益もない。

むしろ,綾朝・日生に安達の脅威を訴え,我が国の独立を保つべきであろう。」

と朝和は考えていたのである。

元光帝も安達氏の脅威は認識していた。

元光帝と朝和の利害は一致し,両者は連合する。

元光帝は,温岡朝因(ぬくおか・ともより)を朝和のもとに遣わして
直堂派名和門徒との断交を求めた。

重光氏が名和門徒を支援したのは,
名和門徒が重光領内で多数派だったためであるが,
緒土国王 経久とその嫡男 前久は,
単に台頭する綾朝に危機を感じて,重光氏や湯朝・名和門徒とともに
綾朝包囲網を形成しようとしていただけである。

朝和は,父や兄の親安達反綾朝の姿勢に疑問を持っており,
親綾朝反安達の方針を採るほうが自国の利益になると考えていたから,
綾朝側の意向を受け入れて,名和門徒と断交,
兄 前久が名和門徒を支援するのを徹底的に妨害した。

重光氏には,強力な水上戦力はなく,
緒土国前久派の川島御坊支援が滞るようになると,
川島御坊はいよいよ困窮し始めた。

湯朝が前年の宮原の乱の戦後処理に専念する様子を見て取った元光帝は,
川島御坊の包囲網を強化する。


天下二分の計

元光6年(1509),補給を絶たれて一年を経た川島御坊の困窮は,
深刻となった。

元光帝は,降伏を認めず,川島からの逃亡を図った門徒を攻撃して殲滅する。

降伏が認められないため,川島方は猛烈な抵抗を示すようになり,
また,必死に血路を開いて綾朝による包囲を脱しようとするものが相次いだ。

このため綾朝方でも,千近い戦死者を出すことになる。

とはいえ,川島方の飢餓は極限にまで達していたのであり,
ついに綾朝方は,川島に総攻撃を仕掛けて,
門徒を老若男女問わず殲滅した。

川島方の被害は綾朝方の十倍にもおよび万を数えたという。

重光領や前久派緒土国領へ落ち延びることができた川島の門徒は,
ほんの一握りであったという。

名和平原での戦乱は終結し,元光帝は,津京へ凱旋した。

さて翌元光7年(1510),綾朝と覇を競う湯朝では,
未だに宮原の乱が尾を引いていた。

宮原派に属していた亜南東海岸の外城(とじょう)政貴が,
湯朝内で台頭する山奈広康の排除を目指して挙兵したのである。

広康は,湯来平原から霧山山地を越えて東海岸へ遠征した。

湯朝の内乱に乗じて,元光帝は,湯朝遠征を開始する。

かつて,

「山深い亜北より,交通の発達した名和平原へ打って出るべき」

と元光帝に献策した早智秋は,

「豊かな名和平原を支配すれば,
亜州全土の平定が可能となる。

亜州を平定してはじめて,
内海の西を占める大勢力と渡り合えるのであり,
天下平定はその先にある。」

と考えていた。

いわば,天下二分の計である。

内海の西には,かつては今原・美好氏がおり,今は安達氏がいる。

既に名和平原を平定した綾朝にとって,「湯朝の打倒」という事業は,
安達氏と並ぶ勢力へ成長し,天下二分の段階へと進むために必須の事業であった。


第二次久香崎会戦

綾朝軍は水陸六万,久香崎を攻撃した。

その軍は元光帝自らが率い,帝の三男 重成皇子・早智秋・里見泰之・泉成晴・十和成俊・
西井元孝・八幡元彦・上村晴世・市村時足らが従っていた。

湯朝は,稲森義興・火取並・内頼久・堀川優(ほりかわ・すぐる)が久香崎に籠っていた。

久香崎は紗摩川と大内川の合流点にあり,
面積としては小規模だが湊と水塞を取り込むむ形で総構が作られている。

むしろ,面積が小規模であるため湯朝方の兵力が5~6千程度であるにもかかわらず,
久香崎の守りは行き届いていた。

早智秋・市村時足らの綾朝水軍と火取並・内頼久らの湯朝水軍の
紗摩川での戦いも膠着状態であり,
大内川の渡河を狙った里見・泉・上村隊の動きも堀川優に看破され阻止される。

久香崎での対陣は持久戦となった。

この間,山奈広康は,外城政貴を電撃的に打ち破って敗走させた。

政貴は,本拠 両城への帰還途中に配下の久谷定平の裏切りにあい討ち取られてしまう。

ここにいたり政貴の嫡子 清貴は広康に降伏した。

広康は,そのまま急峻な槌山を越えて久香崎の救援にやってきた。

槌山を避けて棟谷経由で久香崎を目指せば,
比較的整備された街道を進めるが,
この道は一旦,久香崎と反対方向に大きくそれる回り道になる。

槌山を越える道は,久香崎に一直線に進む最短距離の道である。

広康は,元より機動戦が得意であり,この時も綾朝方の予測を上回る速度で,
久香崎に現れ,その防御を一層固めた。

結局,広康が綾朝方に持ちかけた和議が成立し,
綾朝軍は,引き上げたのであった。


元光年間

元光8年(1511)末,元光帝は崩御した。

脳卒中だと言われている。

津京入京以来13年,在位7年,48歳の若さであった。

決して長い治世とは言えないが,その業績は大きかった。

綾朝は,元光末年までに名和平原の統一を果たし,
動員可能兵力は6万に達している。

十和地方の小勢力から出発した綾朝は,
今や日生国・湯朝と並ぶ亜州の三大国の一つになった。

征服した版図では,その都度,検地を実施,
特に即位後には従来の指出検地から,直接検地へ移行,
支配体制の一元化と兵農分離が進む。

さらに,従来の「座」の解体(楽座)により,
商業の自由化と新たな商工業者の掌握を実施,
各地で通行税の廃止を実施して物流も促進した。

また,諸侯統制の基礎を作り,これは,二代 建文帝(頼成)の代に
建文令として実を結ぶ。

綾朝の勢力圏では,中小の領主や地域の有力者など,
中間搾取を行う権力は衰退・消滅していき,
政府が直接的に各階層を把握する新しい封建体制へ移行していくことになる。

さらに、元光年間に綾朝は,熊浜湊を確保して内海にも進出、
海内貿易のみならず,南蛮貿易を開始した。

元光帝は,また一門・諸臣・諸将をよく用いている。

結果として,泉成晴・十和成俊・十和安成ら一門や,
早智秋・東条誠久・里見泰之らいわゆる建国の三傑を始めとした
多くの賢臣,名将らがまだ若い二代皇帝 建文帝を全力で支える体制が培われた。

綾朝は創始者を失ったが,次代以降も粘り強く勢力を拡大していくのであった。