入島神聖 概要

入島神聖(にゅうじまのしんせい)は,諱は,高慈(たかちか)。日生国の百二十九世総攬(国家元首),「神聖」。

貴族共和制の体裁を採る日生国においては,
最も知恵と徳を持つ者が統治者となるべきであると考えられており,
この考えに基いて,国家元首である「総攬」を選挙で選んでいた。

後に,優れた業績を遺した総攬を幾人も出した,ある一つの家に対して
元老院は,「神聖」の称号を「謹んで奉った」。

この一つの家のみが「神聖」に即位することができる家であり,
神聖家,または聖家と称される。


斜陽

入島神聖は,百二十七世3年(1490),神聖家の本拠 世羅で,
後に百二十八世総攬となる伯台神聖(はくたいのしんせい) 広慈(ひろちか)の長子として誕生した。

日生国は君主制でないため,元号を用いず,
代わりに総攬の代数を用いる。

百二十七世3年とは,初代総攬 明彦から数えて
百二十七代目の総攬 成瀬熙子が就任して3年目ということである。

日生国は伝説上では,通暦紀元前540年,実際には,
首州で統一王朝をつくった諏訪国と対立した集団が,
紀元前1世紀ころに南海で建国したとされている。

いずれにせよ,日生国は千数百年以上続いてきた歴史の古い国であったが,
入島神聖誕生の頃は,危機を迎えていた。

13世紀末以後,国家元首である総攬は,
日生国にあって別格と言える存在の神聖家と
玉・公・侯・伯・子・男の爵位の筆頭に当たる玉爵位を有する六つの家の持ち回りであった。

この体制は,当初は権力闘争を抑制して政治を安定化することに役立った。

しかし,やがて,負の面が目立ちはじめる。

体制内部の都合だけが優先される状況となったのである。

体制を担う貴族層は,何もせずとも権力と財力を有する立場であり,
下手に新しい政策を導入すると失敗して失脚する危険がある。

政府の政治は全て前例によって行われ,
前例を少しでも逸脱することが極端に恐れられた。

時代の変化に制度も政治も追いつけなくなった。

また貴族は無条件で官職を与えられて俸給が支払われ,
濫造された閑職が財政を窮乏させた。

日生国の虎の子と言える海軍力も衰退する。

進取の精神を失った日生水軍は,
緒土国の水軍に遅れを取った。

日生国の内海での勢力圏は後退し,交易網は縮小した。

大陸との貿易も緒土国に妨害される始末であり,そのために
莫大な収益が失われた。

財政は一層逼迫する。

そして,百二十八世5年(1495)――
日生国衰退を象徴する大事が生じた。

首都 久礼の陥落である。


意志

日生軍が,久礼沖海戦で緒土軍に敗れると
首脳部は,あっさりと伯台(はくたい)への遷都を決定した。

当時,総攬は,すでに成瀬熙子から代替わりして,
入島神聖の父 伯台神聖(はくたいのしんせい)になっていた。

伯台に居所を定めた神聖であるため,伯台神聖と称するのである。

香耶玉爵家の義治は,

「聖祖四十世の築かれた千年の都をむざむざと明け渡すことは有りません。」

と主戦論を唱えたが,他の玉爵家は成瀬繁直を筆頭に

「今は落ち延びて再起を図るべき」

という考えであり,結局,伯台神聖は,遷都を選択したのである。

聖祖四十世とは,四十世総攬 久礼神聖(くれのしんせい) 美慈(よしちか)のことであり,
久礼神聖時代から「神聖号」が始まったために神「聖」の「祖」という意味で
「聖祖」と称されることがある。

さて,遷都の決定は,緒土国側を勢いづかせた。

緒土国は,日生側の久礼防衛の意志は弱いと受け取ったのである。

その上,久礼の内部でも本当に士気が著しく低下してしまった。

「都」の地位を失ったことが原因である。

久礼は,陥落した。

聖祖四十世の25年(395)以来,千百年,繁栄を誇った国都の喪失――

入島神聖は,都落ちする都人の中にいて,久礼陥落の報に接した。

数え六歳だった。

千年の都を建て,数多の業績を挙げて神聖の称号を得た 祖先である聖祖。

千年の都を失った父 伯台神聖――

後に入島神聖は,

「都落ちが無ければ,私は総攬を志していなかっただろう。」

と語っている。


百二十九世の父 伯台神聖は,
神聖家の領国においては名君であった。

伯台神聖は,男子に恵まれなかった前の神聖 花宮神聖[諱は,由慈(よしちか)]によって,
聖族の中からその聡明さを見込まれて養子に迎えられた人であった。

聖族とは,「神聖」の血族のことである。

神聖家も瑞穂皇帝位同様,男系継承であるが,
神聖家の男系継承が絶えないように,いくつも別家が建てられて,
格付けされている。

しかし,神聖の血族でも
聖族「外部」に別家を立てて独立させられる場合がある。

瑞穂皇帝でいうところの「臣籍降下」のようなもので,
この場合は,「神聖位」の継承権を喪失し,「聖族」から外れる。

もちろん伯台神聖は,聖族の千楽家の出身である。

千楽家の格付けは高いとは言え,第一ではなかった。

しかし伯台神聖は,花宮神聖に見込まれて養子となり
聖太子に立てられたのであった。

皇帝に対する皇太子のように,
神聖を継承する者を「聖太子」と称するのである。

伯台神聖の義父 花宮神聖の時代には,
ペルトナやイストラの常盤への来航が始まったころであった。

花宮神聖は,舶来趣味であり,
西洋の文物の領国内への導入に熱心であり。
ペルトナやイストラとの交易が盛んになる。


底力

伯台神聖は,花宮神聖の方針を継承しながらも,
ペルトナ・イストラなど旧教国から離れ始める。

旧教国による布教が,
侵略の足がかりともいえる臭いを持っていることを嗅ぎとったからである。

16世紀初頭,伯台神聖は,積極的にフリギスの
遭難航海士や知識人などを恩典を与えて囲い込み,
軍事技術の改革,殖産興業に務めた。

伯台神聖は鋳造砲の国産を始めたが,
これは花宮時代の方針を受け継いだものである。

また日生国は良質の鉄鉱石の産地でもあり,
回復の早い豊かな森林資源も存在していたから,
やがて洋式の木炭高炉法すら早い段階で導入されていくことになる。

聖家は,西洋ではフリギスのみで追求されていた
鉄製大砲の鋳造をも研究し始めた。

さらに,伯台神聖は,フリギスの航海士を顧問として
洋船の製造にも取り掛かっている。

産業でも,陶磁器や絹織物の生産と西洋への輸出を促進する。

これは,すでに15世紀半ばに華国との私貿易などでもたらされていた
人材・製造技術が元になった。

こうした改革や殖産興業・富国強兵は,
神聖家の領国・一部諸侯の領国では盛んであったが,
それが,全くと言っていいほど,国政には反映されなかった。

政府直轄地の兵装は旧式であり,制度は旧態依然,
流通や徴税は既得権益者によって厳格に統制され,
前述のごとく何事も「前例」を第一とした。

日生国は,政府直轄領では緒土国に敗れ,
神聖家領や大諸侯家の所領では逆に緒土国を圧倒した。

神聖家内部や諸侯家内部にはしっかり体力・適応力があった。

これは,日生国にとっての救いであった。

問題は,その体力・適応力を
いかに日生国そのものに及ぼすかであった。


加冠

神聖家領内では名君であった伯台神聖も,国政では突破力がなかった。

国政の改革を志しながらも,大抵の場合,
数々の政策は骨抜きになっていった。

直轄領の軍制改革・兵装の更新も,
保守諸侯の抵抗に遭う。

諸侯は,政府の強大化によって自己の権益が侵されるのを嫌ったのである。

財政強化も頓挫する。

政府財政の再建のため,倹約令を出して緊縮財政を進め,
合わせて諸侯に国庫への資金の拠出を求める連帯金制度を始めたが,
諸侯の激しい反発を受けることになった。

結局,久礼半島の要衝 桃生が緒土国によって陥落したこともあって
政権の責任を問う声が高まり,連帯金制度は凍結された。

伯台神聖は,政策立案において参謀役であった議政 白石吉成を辞職させざるを得なくなった。

議政とは,首相のような存在である。

この後,伯台神聖の御代に,
改革派が議政の地位に就くことはなくなった。

政権内の保守諸侯の力は強く,
伯台神聖は改革派の任用を断念せざるを得なくなったのである。

百二十八世15年(1505),
伯台神聖の聖太子であった入島神聖は,加冠を終え,元老院議員となった。

入島神聖は神聖家領内で,有力者の懐柔を進め,
さらに元老院内では,平民議員および改革派・中立派議員と密かに連携を進めていく。

百二十八世19年(1509),入島神聖は,
中立派の有力諸侯 深町広平(ふかまち・ひろひら)の娘である琴子を
正妃に迎えた。

深町家を通じて神聖家は,中立派領袖である浅宮家とつながった。

深町広平が浅宮家の外戚だったからである。

入島神聖は,父に代わって神聖・総攬となろうとしていた――

しかしまた,入島神聖は,

「日生人(ひなせびと)として,神聖家の者として誇りある方法で,総攬になる。」

とも決意していた。


選挙

百二十八世総攬 伯台神聖は在位20年を迎えようとしていた。

総攬が神聖家・六玉爵家の当主による順送り人事で決まるようになって以来,
総攬の在位期間も慣習的に最長でも20年と定められた。

百二十八世は,総攬から引退しなければならない。

総攬順送りの慣習に従えば,伯台神聖の次は,有馬玉爵家が総攬を出す番であった。

総攬が引退すると新総攬選出の選挙が元老院で行われるが,
もはや,形式的な選挙になっている。

けれども,総攬順送りの慣習は,明確に規定された制度ではない。

入島神聖は,

「総攬選挙を本来の姿に戻す」

と従前から密かに考えていた。

形式化した選挙では,総攬に立候補するのは一人のみで,
対立候補は立たない。

しかも,立候補したその一人は必ず,総攬に選出される。

入島神聖は「対立候補」となり,
元老院議員の過半数の得票を得て総攬に選出されることを企図したのである。

そのために,改革派議員のみならず,
平民議員や中立派議員との連携を進めていたのであった。

入島神聖は,平民派には,選挙区改革を切り出して連携の糸口とした。

元老院議員の選挙区は,
この時代,神聖家・玉爵家・諸侯らの領国に有利に区割りされており,
平民派議員が選出される政府直轄領の選挙区数は,
その人口に比べて少なく設定されていた。

平民派にとって,選挙区改革は悲願であった。

また,平民派領袖 吉見敏景は,入島神聖と同年代と若く,
日生国の衰退を憂える人物でもあったから大いに入島神聖と同調した。

そして中立派諸侯と入島神聖は,
商業・物流政策において利害が一致するところが大きかった。

神聖家領は内海沿岸に多くの所領を持ち,商業・流通が盛んで,
中立派諸侯は,国内流通の中継点と言える芳野川沿岸に多くの所領を持っていた。
神聖家が商業・流通を自由化すると,その利益は中立派諸侯の領国にも波及する。

ことに,中立派領袖 浅宮顕臣は,
最もその恩恵に預かる芳野川沿岸の遊良湊(ゆらみなと)を所領内に抱えていた。

顕臣は,入島神聖と考えは異なる部分もあったが,
日生国の衰退を憂えるところでは共通していたから

「全力であなたを支援いたしましょう。」

と,派内の取りまとめを約束した。


総攬就任

入島神聖は,総攬選挙出馬に先立って
父から神聖位を引き継ぐつもりであった。

総攬として首都 伯台に居住する伯台神聖に対し,
入島神聖は,神聖家本拠 世羅に留まり,
神聖家内で影響力を拡大しつづけていた。

すでに,神聖家内の有力者は,入島神聖の神聖即位を支持していた。

ここに至り,入島神聖は,神聖家諸臣の推戴を受けて,
伯台神聖から神聖位を譲られたのであった。

百二十八世20年(1510),入島神聖は,神聖として総攬選挙に臨んだ。

議会は紛糾した。

そもそも保守派の大多数は,入島神聖の立候補すら認めなかった。

しかし,入島神聖は極秘裏に元老院の過半数の支持を得ていた。

中立派領袖 浅宮顕臣,
平民派領袖 吉見敏景らは,
自派を入島神聖支持で固めきっていた。

そして,保守派の中にも,入島神聖を支持しないまでも,
その立候補だけは認めるべきであるとする者もあった。

立候補に関して何ら不正のない入島神聖の立候補を妨げることを,
「堅持すべき伝統の否定」と考える議員達がいたのである。

結果として保守派は切り崩され,押し切られた。

入島神聖は立候補し,総攬に当選した。


改革と反発

総攬となった入島神聖は,
議政には,中立派諸侯 浅宮顕臣・改革派諸侯 香耶義治,平民派 吉見敏景らを任じて
均衡をとる人事を行った。

しかし,実務を担う参議の地位は,その定員を増やして増員分には,
聖族の千楽真季(せんらく・さねすえ)
や姫路澪子(ひめじ・みおこ),
平民派の川崎桐子(かわさき・きりこ)ら改革派を据えている。

均衡と改革の両立を図ったのである。

新政権は,
冗官の整理から始める。

貴族子弟が俸給を得るためだけに設けられていた,
実態のない政府の官職は,ことごとく廃止された。

保守諸侯の大反発が起こったが,入島神聖は,
元老院において冗官整理令を過半数の支持で成立させる。

もちろん,政府派の諸侯やその子弟は,
「実態ある」政府の役職を得て,その俸給を受け取った。

しかし,従来のように,
諸侯が独立性を保ったまま政府からも俸給を得るという状態ではなくなる。

入島神聖が政府権限の強化を進展させていくと,
政府から俸給を得る諸侯・貴族は,
俸給の適正な支給を口実とした政府の干渉を受けることとなり,
徐々に官僚化が進んでいく。

「政府の役職」には,「軍」の役職も含む。

入島神聖は,百二十九世2年(1511),
政府直轄領の防衛力強化のため,
軍人育成機関を創設し,兵員の増加も図った。

長期に渡り政府の冗官に頼ってきた諸侯・貴族は,
新制度の下で一族・郎党のすべてを自力で養うことはできず,
諸侯・貴族の兵力は,徐々に政府指揮下の軍に編入されていった。

冗官の整理と諸侯兵力の政府軍への編入は,日生国立て直しの第一歩である。

もとより,冗官に不要な俸給を支払い,
その上,直轄領の軍事力を養おうとする無理が
財政を圧迫させていたのであるから,
その解消は,当然,日生国財政の健全化をもたらした。

入島神聖はまた,任官試験を大規模に導入して,
民間の人材の任用を積極的に実施している。

さらに百二十九世3年(1512),入島神聖は,平民派に約した
選挙区改革に手をつけた。

選挙区を人口に基づいた区割りに修正したのである。

結果,政府直轄領選出の議員が増加し,
政府権限の強化につながっていく。

立て続けに不利益を被ることになった保守諸侯の多くは猛反発し,
ついに,百二十九世4年(1513)には,
東国を中心に大規模な反乱が発生した。

癸酉(きゆう)の乱である

この事態に入島神聖は,

「彼らは,自ら正統性を捨てた。」

と,かえって大笑したという。


正統性

正統性をもって日生国で政権をとる――

それにはあくまでも元老院の承認がいる。

それが帝王を否定し,
貴族共和制を採用した日生国の姿であった。

武力による政権が誕生した時点で,
それは「日生国」ではなくなる。

武力により現政権に反旗を翻した保守諸侯は,
「自ら正統性を捨てた」のである。

政権に反旗を翻した保守諸侯は,
成瀬政直を盟主に結束した。

政直は,自派の諸侯を糾合することで兵5万以上の動員を狙っていた。

しかし,保守派の兵力は3万に留まった。

冗官整理令の影響が出ていたのである。

かつて諸侯は,自らの影響力によって政権に「官職」を用意させ,
その「職」を分配することで自派をまとめていた。

冗官整理令の結果,この構図は崩壊し,
諸侯は自らの力のみで家臣を養わなくてはならなくなる。

大諸侯ですら土地・俸給が不足し,
中小諸侯ではいっそう悲惨であった。

政府派の諸侯は,養いきれない家臣を政府軍の将兵として送り出したが,
反政府派の保守諸侯には,そうした道もなかった。

保守諸侯の動員力には翳りが出ていたのである。

政府は,6万を動員した。

政府軍の要職を占める諸侯・貴族は,
領国の兵ではなく政府軍を率いた。

指揮系統は統一され,その頂点はもちろん総攬となった入島神聖である。

ここでも保守派は遅れをとった。

保守派は諸侯の寄り合い所帯である。

各諸侯の軍は,各諸侯が指揮を執る。

しかも,保守派は「正統性」という点でも説得力を持っていない。

入島神聖は,

「これで改革は一層進む」

と勝利を確信して意気揚々と出陣した。


癸酉の乱

直轄領東部の要衝 岐閣(きかく)を出た政府軍は,
成瀬家の本拠 当谷を目指して北上した。

岐閣――

この変わった地名は
元は鬼角と書いた。

鬼にまつわる伝説のある土地である。

やがて文人貴族文化全盛の9世紀頃に,
「鬼角」の文字のおどろおどろしさを嫌った
政府が「岐閣」と文字を変えたという。

さて,保守派は,当谷への政府軍の侵攻を阻止すべく,
朝香へ進出し,当谷街道を横切る形で布陣した。

数で勝る政府軍は,保守派の軍の中央に突入する。

保守派は,政府軍を包囲殲滅しようと企図していた。

しかし,寄り合い所帯の保守派の軍には,
政府軍を包み込むまでの機動力がなかった。

保守派の軍は,薄く横に広がった状態のまま,
ただただ中央を分断され,粉砕された。

成瀬政直は,剃髪して入島神聖の元へ出頭し,降伏する。

「戦で政府を打倒しようと図った保守諸侯の行為は,
大罪である。

これを赦せば,悪しき前例をつくることになる。」

と入島神聖は,保守諸侯への厳罰を実行しようとしていた。

特に,成瀬政直以下,
保守派の玉爵家については当主の処刑まで考えていたという。

しかし,中間派である浅宮家が
難色を示した。

このころ浅宮家は,顕臣からその子の政臣に代替わりしている。

政臣は,保守派の没落によって,元老院で
改革派の力が極端に強くなることを嫌った。

政臣は,顕臣の方針を継承して入島神聖に協力する意志を持っていたが,
改革派の必要以上の勢力拡大は,
日生国にとって危険であるとも考えていたのである。

浅宮家の力がなくては,
元老院で過半数を確保できなくなる。

入島神聖は折れ,
成瀬・有馬・八神・乙矢ら保守派玉爵家当主の処刑は思いとどまった。

とは言え,これら玉爵家は,
所領を削られ,当主の交替も余儀なくされる。

癸酉の乱は終結した。

保守派の軍事力は,半減したのであった。


北伐

国内をひとまずまとめた入島神聖は,
旧都 久礼の奪還を目指した。

外交では,遠縁の千楽真季(せんらく・さねすえ)を派遣して
日生国の東隣の湯朝と同盟を結び,
緒土国・綾朝の連合に対抗する形勢を作りあげた。

軍事では,まず
大量の洋式大砲の鋳造と洋式艦の建造を進め,
海軍力の強化を図った。

陸上では久礼半島が,
山がちで海に迫った隘路の連続であるため,
移動・輸送に向かない大砲ではなく,
火力増強は火縄銃の配備によって進められていく。

百二十九世6年(1515),
日生軍5万は,久礼半島を北上した。

呼応して湯朝の山奈広康も綾朝へ侵攻した。

久礼半島に所領を持つ玉爵 香耶義治が陸路を,
入島神聖は海路より進撃した。

緒土国王 前久は,
主力を率いて久礼半島第二の都市 桃生に入り,
腹心の折原史広(おりはら・ふみひろ)に日生軍を迎え撃たせる。


成果

香耶義治と長年対峙してきた老将 綾部素信(あやべ・もとのぶ)は,

「志路(しじ)に布陣して,日生を迎え撃つのが良いでしょう。」

と主将 折原史広に進言した。

志路は,海に面した隘路である。

香耶義治の本拠 香耶野から,桃生に至る
街道の要衝と言える。

史広は,しかし,素信の意見を採用しなかった。

海軍力の強い日生軍を迎え撃つのに,
海に臨む志路に布陣するのを嫌ったのである。

海より内陸に入った平原 北原で日生軍を迎え撃つことにした。

日生の陸兵が志路を通るのを見過ごし,
日生の水軍と連携が取りにくくなる内陸におびき出そうというのであった。

緒土国の動きを知った香耶義治は,

「私も随分と見くびられたものだ。

我が国を水軍だけと思うのか。

思い知らせてやろう。」

と,北原に進んだ。

海上を行く入島神聖は,久礼半島沿岸の島嶼部を次々と占領した。

国産の洋式砲を積んだ艦を少数とはいえ保有する日生水軍は,
島嶼部におかれた緒土国側の拠点に激しい砲火を浴びせた。

無論,この時代の砲弾は炸裂弾ではない。

しかし,それでも緒土国の兵船を転覆させ,
沿岸部の城塞の壁を貫通させ,
その軍を恐慌状態に陥れるには充分であった。

北原では,香耶義治が緒土軍を大破した。

日生軍は,機動力に優れ,平原である北原で素早く展開して
緒土軍を包囲殲滅したのである。

綾部素信は重傷を負い,主将 折原史広は戦死した。

しかし,日生軍の遠征は中断された。

綾朝による緒土国救援軍が桃生に到着したからである。

日生軍に呼応して綾朝に侵攻した湯朝の山奈広康であったが,
直後に湯朝国内で反乱が起こり,満足に綾朝を攻撃できなかった。

綾朝は,このため緒土国の救援に全力を傾けることができたのである。

桃生の兵力が倍増したことを知ると,入島神聖は,
首都 伯台への帰還を即断した。

占領した志路・北原の防備は増強され,
香耶義治が預かった。


乙亥の乱

入島神聖は,志路・北原の戦いで,
連年後退していた日生国の国境線を若干とはいえ押し戻すことに成功した。

神聖の求心力は,一層高まった。

ここで,入島神聖は,二度目の選挙区改革を実施した。

今度も,保守諸侯の反乱が起きた。

乱の起きた百二十九世6年(1515)が「乙亥(きのとい・イツガイ)」であったため,
乙亥の乱(いつがいのらん)と呼ばれる。

しかし,保守諸侯全体の大規模な反乱には発展しなかった。

成瀬・有馬・乙谷・八神などの玉爵家は,
はじめから旗幟を鮮明にして政府側についた。

入島神聖は自ら国軍を率いて反乱軍討伐に出陣する。

「成瀬らに手柄を立てさせて,わざわざ奴らの勢いを蘇らせることもあるまい。」

というのが神聖の考えである。

乾坤一擲,伯台・岐閣間の遮断を狙う反乱軍盟主 末岡邦充(すえおか・くにみつ)は,
岐閣街道の要衝 神奈比(かんなび)へ進出した。

反乱軍は1万。

国軍は,6万。

国軍には,気の緩みが見えた。

「このたびは,物見遊山のようなもの」

と発言した押井正光に激怒した入島神聖は,即座に正光を処刑したという。

神聖の激怒に全軍は,

「思ったよりも今回の戦は難しいのかもしれない。」

と引き締まったという。

反乱軍は消し飛んだ。

末岡邦充は戦死。

反乱に加わった諸侯は,今回は赦されず一族郎党もろとも処刑された。

反乱軍諸侯の所領は,そのほとんどが政府直轄領に編入された。

保守玉爵家は政府への忠誠を誓ったが出番もなく,結局全く得るところはなかった。

というより,神聖が,事前の目論んだ通り,
保守玉爵家に何も得させなかったというのが正しいだろう。


北伐再開

百二十九世6年(1515)には,もうひとつ大きな出来事が起こった。

安達宗治の亜州遠征である。

入島神聖が緒土国へ遠征し,亜州諸国が反目し始めたことは,
宗治にとっては,亜州に足がかりを得る好機と映ったのである。

安達家は,緒土国を圧迫して綾朝との連合を破棄させると,
緒土国軍を先導にして綾朝への侵攻を試みた。

ところが,この戦いは,綾朝の建国三傑の一人 里見泰之の果敢な突撃によって
安達側の大敗に終わる。

さて,残ったのは,綾朝と緒土国の間の不協和音である。

神聖は,

「旧都恢復の時は今である」

と意気込んで,
百二十九世7年(1516),兵7万を動員して北伐を再開した。

今回も湯朝では,山奈広康が日生国に呼応して綾朝領をうかがった。

綾朝では,意見が二つに割れた。

何しろ緒土国は,先年,綾朝との連合を一方的に破棄して,
安達軍を先導して侵攻してきたのである。

緒土国に救援を出す謂れはないとする意見も相当に有力であった。

しかし,これも三傑の一人 早智秋の

「日生国が緒土国を飲み込めば,日生国は我が国に3倍する大国となり,
安達家に匹敵する強敵となります。

緒土国を救わないという選択肢は我が国に用意されていないのです。」

と発言したため,緒土国救援が決定された。

入島神聖も実は,綾朝が緒土国を完全に見捨てるとは思っていない。

「一度,綾朝と緒土国の間に吹いたすきま風はそう簡単に収まるまい。

両者は協力はするだろうが,密な連携は難しいだろう。」

と予測していた。

しかも,綾朝は湯朝軍をも迎え撃たなくてはならない。

緒土国救援に割けた兵力は1万5千であり,
その到着までには,早くとも,ひと月半はかかる。

緒土国王 前久は,桃生に精鋭を入れていたが,
その兵力は数千に過ぎない。

日生軍は,久礼半島随一の港湾都市 桃生へと進撃した。


桃生攻略戦

日生軍は,水陸から桃生に迫った。

海上では,日生の洋式艦隊が緒土水軍を大破,
陸上では,緒土国王 前久率いる桃生救援軍を
香耶義治率いる日生陸上部隊が遮った。

桃生は封鎖された。

桃生周辺の制海権を得た日生軍は,さらに前久の退路遮断を狙う。

前久は,緒土国が制海権を維持している姫島水道沿岸まで後退を余儀なくされた。

補給を絶たれている上,
目視出来る範囲から味方の軍が消えた桃生の守備隊は,動揺しはじめる。

入島神聖は,桃生から見た包囲陣が堅牢さを増したように見えるよう増築を各所で行い,
その一方で,城将の退去と守備兵全員の助命を条件とした降伏勧告を行うなどした。

桃生は,包囲開始からひと月余りで開城した。

約束通り,城将 佐嘉光常(さが・みつつね)とその妻子は桃生から退去を許され,
城兵も助命された。

佐嘉光常はしかし,

「私は我が身を惜しんで開城したわけではない。」

と,自害してしまった。

綾朝の緒土国救援軍が久礼半島に現れたのはそれからわずか3日後のことであった。

これに先立つこと半月余り,
湯朝の山奈広康は,川手へ迫り,綾朝の早智秋・上村晴世らと対峙したが,長期戦を嫌って撤兵している。

広康の撤兵を知った,入島神聖は,

「既に桃生を奪還し,旧都恢復へ足がかりを得た。
今回は,これ以上望めばかえってこれまでの成果を台無しにする。」

と,北伐の中断を決断した。

神聖は,桃生の防備を固め,守将に香耶義治を残して伯台へ凱旋する。

綾朝側も,緒土国の滅亡を避けられればそれでよく,
入島神聖を伯台へ引き上げさせたことこそを戦果と認識し,本国へ引き上げていった。


ブリューゲル来航

百二十九世8年(1517),奪還したばかりの桃生に,
フリギスの商船が来航した。

乗員の一人であったアレクサンデル・ブリューゲルは,
政権の顧問の一人として重用されることになり,
やがて,福光を所領として与えられ,
福光安楽(ふくみつ・あらく)を名乗った。

安楽は,本名アレクサンデルの音にちなんでいる。

福光安楽は,より天文学や数学などの知識をもたらした他,
より新しい造船技術をも伝えた。

この福光安楽の仲介によって,
日生国とフリギス(後のレーヴェスマルク)との間には,
正式な通商が開かれることとなる。

ブリューゲルからの日生国についての報告書を読んだ
フリギス女王 ベアトリクス1世は,
フリードリヒ・フォン・リンデンベルクを日生国へ派遣した。

リンデンベルクに謁見し,ベアトリクス1世の国書を奉られた
神聖は,フリギスとの通商を許可した。

入島神聖も,父 伯台神聖の方針を受け継ぎ,
布教と通商を並行して行うイストラ・ペルトナとは距離をおき,
布教を行わないフリギスに親しんでいく。

後,イストラから実質的に独立したリーフランドからも日生国への来航が相次ぐが,
こちらもフリギス同様,布教を行わない相手であったことから,
日生国との親交が深まっていった。


第三次北伐

百二十九世9年(1518),入島神聖は,三度目の緒土国遠征を敢行する。

緒土国は,姫島水道の一帯にペルトナから購入した鋳造砲を配備し,
守りを固めた。

さらに,ペルトナ船に日生軍砲撃を頼んだ。

ペルトナは,日生・緒土両国の争いに深入りしなかったが,
緒土国の固い守りを前に日生軍は進撃を止められる。

また,綾朝が,外城氏を使って日生国の盟邦である湯朝を
牽制したことも日生国には不利に働いた。

湯朝の山奈広康は,外城氏と戦端を開き,
対綾朝戦線では専守防衛に徹した。

綾朝は,日生国の東北の境,上平口から日生国へ直接侵入を図る。

ここに至り,神聖は緒土国遠征を中断して,
浅宮政臣,弟 蒲生聖君(がもうのせいくん)らとともに上平救援に向かった。

日・綾国境にある上平は,
堅牢な総構を持った要塞都市と言ってよく,
将 手塚隆平以下,籠城軍8千は,
綾朝軍4万に対して全く動じない。

このため神聖率いる,日生軍が上平へ到着すると,
綾朝軍は,撤退を始めた。

神聖の蒲生聖君は,追撃を主張したが,

浅宮政臣は,

「我が方は,主力が姫島より長駆してきたのであり,
また上平の兵も綾朝と対峙し続けてきました。

疲労の色がうかがわれます。

綾朝軍も大破されて闇雲に引き上げているわけではなく,
追撃は危険です。」

との見解を示した。

入島神聖は,政臣の言を採用し,綾朝軍を追撃しなかった。

蒲生聖君は,面目を潰されたと感じ,
一方的に政臣に悪感情を抱くようになる。


第四次北伐

入島神聖は,一つだった洋式艦隊をもう一つ増やし,
さらに,福光安楽に新型艦を建造させた。

艦載砲も新型で射程の長い前装砲を導入する。

百二十九世11年(1520),神聖は再度,姫島を攻撃した。

湯朝の山奈広康も呼応して綾朝へ進撃,湯朝軍と綾朝軍は,長岡で対陣している。

姫島奪還を狙う日生軍はといえば,
洋式艦隊が緒土国側の城塞の射程圏外から,執拗に砲撃を加えた。

威力はさして高いものではなかったが,
確実に緒土国側の城塞を打ち崩していった。

連日加えられる砲撃に,緒土国兵士も疲労困憊していく。

ここに至り入島神聖は,姫島への上陸を開始,
疲弊した緒土国軍は後退を余儀なくされた。

島内各所で緒土国軍は,抵抗を続ける。

久礼半島や姫島はつい三十年程前まで千年以上に渡って日生国の土地であった。

日生国の色の濃い地域である。

緒土国は久礼半島占領後,日生国の影響を久礼半島から除くため,
旧日生国系の住民を強制的に久礼半島から移住させた。

しかし,日生国時代,久礼半島には百万の人口があった。

それは,緒土国本土と変わらない人口である。

当然ながらその全てを久礼半島から移住させるのは不可能であった。

緒土国の支配下に入っても,多数の日生人が久礼半島に居住していた。

日生軍は,姫島の各地で住民の歓呼をもって迎えられる。

姫島で抵抗を続けようとした緒土国軍は,
完全に孤立し,程なく殲滅されたのであった。

神聖は,姫島の城塞を修復,新型砲を設置し守りを固めると,
伯台へ凱旋した。

湯朝軍と綾朝軍の戦は膠着状態となり,一時停戦して,双方引き上げている。


緒土国の混乱

勢力圏を連年,後退させる緒土国も手をこまぬいているわけではなかった。

百二十九世12年(1521)には,姫島の奪還を狙って攻撃を仕掛け,
また,同13年(1522)には,安達政権を誘って日生国攻撃を計画している。

しかし,いずれも成果は挙がらなかった。

緒土国は,国王 前久が王太子時代から,安達氏への態度をめぐって二つに分裂,
前久の時代になると,綾朝と結んだ朝和が,
前久の王位を認めず緒土国の南半を占有して自立した。

ところが綾朝の元光帝が熊浜に進出すると,
にわかに綾朝と朝和の仲は険悪となる。

綾朝が,熊浜を拠点に内海の諸勢力を取り込み始め,
朝和にとって脅威的な競合相手となってしまったからであった。

朝和は安達宗治の力を借りることで,内海での綾朝の躍進を抑えこもうと考えはじめる。

敵の敵は味方ということで,前久は,安達氏との関係を維持しながらも,
綾朝に接近し始める。

しかし,安達宗治は,前久に日和見を赦さない。

決断を迫られた前久は結局,安達氏を選んで,安達の亜州遠征に付き従った。

けれども,この遠征は綾朝の勝利に終わり,
前久には,綾朝との不協和音だけが残る結果となってしまう。

入島神聖は,

「前久は迷走を続けて,版図を狭め,今や求心力をなくした。

元来,我が国の土地であった久礼半島を支えきれるものではない。

前久を助ける綾朝も,
態度の定まらない緒土国を,信頼出来ない相手と見ている。

ただ,安達氏と直接対峙するのを避けるために緒土国を生かしているに過ぎない。

綾朝にとって,緒土国は安達に対する盾でしかなく,
緒土国の決定的な滅亡さえ避けられれば
それで良いのである。

我が方は久礼さえ取り戻せば,他の緒土国領に興味は無い。
緒土国などよりもっと取るべき場所がある。

早智秋あたりは,こちらの狙いが緒土国の滅亡ではないことに気づいているであろう。

綾朝は,緒土国のためにまともに戦う気はさらさら無い。

久礼恢復までは,あともうひと押し,ふた押しである。」

と分析し,百二十九世14年(1523),五度目の北伐を敢行する。

日生軍は,久礼の目と鼻の先,小日向・入島などの要衝に殺到,
緒土国側の守備軍はあっけないほどに容易く降伏した。

入島神聖の総攬就任以前,日生国が弱体化していた頃,
緒土国はまだ分裂しておらず強盛であった。

しかも緒土国は,自国に数倍する日生国からその都を奪ったことで,
日の出の勢いとなる。

久礼半島の中小の諸侯・領主らは,とても自分たちだけでは緒土国に対抗できず,
その支配を甘受していたが,今や形勢は逆転した。

日生国復帰を目指す諸侯らが久礼半島の各地で緒土国に公然と反旗を翻し始める。

小日向・入島などの拠点は,開戦前から完全に孤立してしまっていたため,
早期に開城したのであった。