太子誕生

小日向・入島への遠征中,神聖には国元から吉報が入った。

正妃 琴子の懐妊である。

これまで入島神聖の子は,正妃 琴子の産んだ子も側室の産んだ子も,
いずれも病弱であり成人前に夭折していた。

年が明けて,百二十九世15年(1524)春二月,
誕生したのは男子である。

入島神聖の太子となる男子は,明慈(はるちか)と名付けられた。

さて,日生国の暦は,立春に元日が来るようになっている。

立春の頃は,まだ雪の降る時節であるが,
二月末から三月上旬にかけて桜の季節となる。

入島神聖は,神聖即位後,聖家の本拠を世羅から,
花阜(はなおか)へ移していたが,
花とは桜であり,阜とは岡・丘同様に丘陵のことであり,花阜は桜の名所であった。

後,花阜は桜阜(おうぶ)と称されるようになる。

桜阜では太子の誕生した二月下旬,
その誕生に合わせたかのように例年より少し早く,
花が満開になったと言われる。

これまで,3人の子を失っている神聖は,
病一つせず健やかに育つ太子の様子に胸をなでおろした。

神聖は,自らの腹心のうち,
若い世代の知恵者 後藤信暁(ごとう・しんぎょう)を師として太子につけた。

しかし,信暁は当初,不満であった。

太子に愚鈍さが見られたからである。

「太子は,容貌はたいそう秀でておいでだが,
その秀でた目は,常に虚空をさまよっておられる。

ひとの話もお聞きであるのかお聞きでないのかわからない有り様。

反応もお年に比べて限りなく鈍くあらせられる,
お言葉を発せられても一言二言,
茫洋としておいでで意欲や意志もお見受けできない。」

と信暁は悲観した。

うらはらに,神聖は,太子のことを

「この子は,私などの比ではない。前代未聞の偉業を成し遂げるだろう。」

と評するほど期待していた。

信暁は,人づてに神聖の太子評を聞いて,
不満を抱いたことを恥じる。

「我が君が,それほどまでに期待する太子を私に託してくださっていたとは。
身命を賭しても太子をお支えしよう。」

と太子に情熱を傾けるようなった。


第六次北伐

百二十九世17年(1526),緒土国王 前久が逝去した。

前久の後を継いだ一久は,綾朝の皇女 築子(つきこ)を正妃に迎え,
綾朝との関係を深化させる。

前久時代から,緒土国の王位を争う朝和が,綾朝領の熊浜湊を攻撃すると,
一久は,大軍をもって綾朝を救援している。

安達政権が当面,首州の安定を重視して,
亜州の情勢を静観する方針を採ったことも影響していた。

前久の代に比べ,緒土国は勢いを増したが,
日生側は,一久の目が朝和に向かっている間に,
久礼半島で版図を広げた。

日生国は百二十九世18年(1527)の内に,
久礼を除く久礼半島を統治下においた。

翌百二十九世19年(1528)から,神聖はついに久礼の包囲を開始した。

湯朝の綾朝攻撃と合わせての行動である。

久礼には日生国時代の都人は残っていない。

日生国の遷都に合わせて多数の都人が都を出た。

久礼に残った者も緒土国の政策で久礼を逐われた。

神聖は,陸海にわたって,久礼に容赦のない厳重な包囲を仕掛ける。

久礼は完全に補給を絶たれた。

とは言え,久礼には三年は籠もることができるほどの備えがあった。

それでも,

「何年かかっても久礼を取り戻す。」

と神聖の決意は固かった。


己丑の変

百二十九世20年(1529)4月,
日生軍による久礼包囲は,8か月に及んでいた。

日生国の盟邦 湯朝では,前年の秋に山奈広康が綾朝への攻撃を仕掛けていた。

山奈広康は,長岡で綾朝軍を大破し,要衝 友谷へ進撃した。

ところが,年を越す前に友谷包囲中であった山奈広康は病を発し,
湯朝軍は長岡に守備隊を残して湯来に帰還してしまった。

広康は,その後静養を経て,無事復帰した。

一方,久礼包囲中だった入島神聖も,急に身体の不調に見舞われる。

神聖は,やがて胸痛を訴え,程なく徂落してしまう。

四十歳の若さであった。

日生軍は,久礼包囲の中断を決定して撤兵する。

神聖亡き後の聖家では,変事が生じた。

蒲生聖君が,聖太子と太子派の人間を追放して
神聖に即位したのである。

いわゆる己丑の変(きちゅうのへん)である。

蒲生聖君は,諱を康慈(やすちか)といい,入島神聖の弟であり,
武勇に優れ,北伐でも数々の武功を立ててきた。

しかし,偏狭なところがあり,先述の通り,
自身を指しおいて浅宮政臣の進言が入島神聖に容れられたことなどから,
一方的に政臣に悪感情を抱いた。

結局は,浅宮政臣の方でも蒲生聖君に悪印象を持つようになる。

蒲生聖君の神聖即位を聞いた浅宮政臣は,

「蒲生聖君は,他人を凌ごうとする態度や言動が多く,軽率な所が目立つ。

国の毒にしかならない人物である。」

と考え,

「保守派と組んだほうがましである。」

と判断,神聖家を排除した政権の形成を企図して,総攬選挙に立候補した。

蒲生聖君は,自身が総攬に就任するつもりであったが,
当然ながら政臣率いる中間派の支持は得られず,
平民派の支持すら固められなかった。

蒲生聖君は,政臣を罵りながら総攬選への立候補を取りやめた。

元老院では,浅宮政臣が総攬に選出された。

入島神聖の政権が,貴族層開明派・中間派と平民派の連合政権であったのに対し,
政臣政権は,貴族層保守派と貴族層中間派の連合政権となった。

政臣は,しかし保守派の復古的な権益回復要求を受け入れるつもりは毛頭ない。

つまり,入島神聖の時代に実施された冗官整理や選挙区改革,国軍強化,貴族領への政府介入などの成果を
維持する姿勢を示したのである。

政臣は,蒲生聖君率いる神聖家以外の開明派貴族や平民派と,
水面下で積極的に連携をとって,保守貴族に対抗した。

さて,聖太子は,後藤信暁を始めとした
蒲生聖君の神聖即位に反対する多くの臣に支えられて,香耶義治の元へと亡命する。

義治は,領国の境まで出て,辞を低くして聖太子を迎え入れた。

入島神聖が目指した日生国の興隆は,やがてこの聖太子によって果たされていくこととなる。