広康は,数次に渡って日生国の緒土国攻撃に呼応し,
緒土国と結ぶ綾朝を攻撃している。
嘉楽10年(1515),
日生軍が北原で緒土国軍と激突したころ,
広康は,川手地方の真砂湊を攻撃した。
ところが,この時の綾朝攻撃は,中断を余儀なくされる。
嶺外地方の天堂希彦(てんどう・まれひこ)が,湯来地方へ侵入したからである。
天堂氏は,南海交易を独占して繁栄を極め,湯朝から次第に自立しはじめていた。
天堂氏が勢いづくと,今は鳴りを潜めている反主流派も息を吹き返しかねない。
広康は,真砂攻撃を切り上げて湯来地方へ引き返し,天堂氏に対処した。
天堂軍は,湯来地方の南の入口とも言える要衝 天原の近郊に達し,
湯朝側の集落や拠点を焼き討ちしていた。
引き返してきた広康は,天堂軍の動きを詳細に探ると,
夜陰に紛れて天堂軍の背後に回りこんで急襲した。
広康の完勝であった。
嘉楽11年(1516),またも日生国は緒土国に侵攻した。
綾朝が緒土国を救援すると,
広康は,再び綾朝を攻撃する。
この時は,綾朝が緒土国を救援しない可能性もあった。
前年に,緒土国が安達宗治と結んで綾朝攻撃に参加していたからである。
そのため広康は,綾朝が緒土国救援の動きを見せた後,綾朝を攻撃した。
前年,広康に大破されている天堂希彦は,今回は動かなかった。
綾朝側の真砂の防備が堅いことを知った広康は,
真砂を攻撃せず,内陸の街道を進んで川手を目指す。
真砂の守備軍は,広康の行く手を阻もうとした。
無論これは,広康の陽動である。
広康は,鳥居の地で真砂の綾朝軍を待ち伏せて壊滅させた。
真砂を陥落させた広康は,川手に迫ったが,
既に川手には,皇太子 輝成率いる綾朝の増援が到着していた。
輝成は初陣であり,その左右を早智秋・上村晴世といった重鎮が固めていた。
戦線は膠着する。
広康は,
「これ以上戦が長引くと,天堂希彦が動きかねない。」
と,真砂の防備を強化して,湯来へと引き上げた。
この年,広康は,自身が名和国王に担いだ 義憲(興初王)と
嘉楽王の娘の縁談を取り持つ。
この縁談は,嘉楽王に利のあることであった。
嘉楽王の娘が名和王族の子を産めば,嘉楽王には,
旧名和国領を支配する名分ができるからである。