誕生

名和国は王位継承騒動を引き金とした壬申・癸酉の乱以後,
群雄割拠が進んでいた。

山奈家は,川手の征南大将軍家 白河氏の管轄下にある有力諸侯であり,
征南大将軍の管轄は,名和国の宿敵である湯朝に対処することであった。

名和国が乱れる一方,湯朝は,淳化王のもと全盛期を迎えていた。

淳化王はその治世の間,大乱で分裂した名和国に対して,
5度も大規模な親征を敢行している。

名和国内は,壬申・癸酉の乱をひとまず和睦によって終結させた。

しかし,なおも名和国内に対立は残ったままであり,
湯朝の淳化王の攻勢に一枚岩であたることができなかった。

結局,天爵10年=淳化36年(1461)には,
川手が陥落して,白河本宗家は滅亡してしまう。

白河家の傘下にあった山奈家も領国の7割を喪失し,
正に風前の灯となっていた。

広康の父 義康が無能だったわけではない。

義康はむしろ白河家を扶けて全盛期の湯朝と良く渡り合っている。

白河将軍家麾下の諸侯の対立を,
義康は,度々調停して,
名和国南部を白河将軍家のもとにまとめることに成功していた。

淳化王にしてみれば,義康は名和国攻略の最大の障壁であり,

「義康有る限り,名和国征伐は成し遂げられない。」

というほどの存在であった。

義康は,白河本宗家が滅亡すると,白河家の傍流で
名和国西南部の要衝 友谷に拠る友谷白河家を将軍家として支えたが,
この友谷家も淳化王の親征軍により,攻め滅ぼされてしまう。

広康は,友谷陥落の直後に義康の嫡子として,
山奈家の本拠である朝丘で誕生した。

名和国の天爵13年,湯朝の淳化39年(1464),
奇しくも,綾朝の元光帝と同じ生年である。


初陣

天爵15・淳化41年(1466),淳化王が崩じた。

淳化王の後継者 大聖王は,父王同様に名和国打倒を目論んでおり,
天爵17・大聖3年(1468),山奈家本拠 朝丘を攻囲する。

山奈義康は,3万の湯朝軍に対して兵8千しか持ち合わせていなかった。

そこで,あくまでも湯朝軍の本陣に狙いを絞って,
情報収集に勤しんだ。

義康は,大聖王の本陣の位置を突き止めると,
精鋭を選りすぐって突撃を敢行した。

山奈軍は湯朝軍に突き刺さり,湯朝軍は,寸断される。

大聖王は深手を負い,
混乱を生じた湯朝軍は,散り散りになって敗走した。

重傷の大聖王は,王都 湯来に帰還,
静養を余儀なくされた。

大聖王の回復は思わしくなく,
川手地方における大聖王の求心力は,急速に低下しはじめる。

淳化王時代に湯朝に降伏した旧名和国の諸侯・諸豪を中心に,
湯朝への離反が少しずつ増加していった。

天爵20・大聖6年(1471),大聖王は崩じた。

湯朝では,大聖王の甥 建中王が即位する。

建中年間の湯朝は,建中4年(1474)から始まった旱害による大飢饉に
悩まされることとなる。

他方,川手地方は,旱害に合わず飢饉を免れていたから,
自然と山奈方が湯朝に対して優位に立っていった。

この年,名和国では天爵王が崩じ,
鷲尾文俊が天爵王の甥 義成(よしなる)を即位させている。

大康王である。

攻勢を強める義康は,ついに川手奪還へ向けて動き出す。

広康は,この戦いで初陣を迎えた。

義康は,川手と湯朝本領の連絡の遮断を狙った陽動を仕掛ける。

初陣の広康は,見事に陽動を成功させた。

川手からおびき出された湯朝軍は,
義康率いる本隊と,広康の陽動部隊との挟撃を受けて潰滅する。

大康2・建中5年(1475),義康はついに川手を陥落させた。


家督相続

大康7・建中10年(1480),湯朝で建中王が崩じる。

建中王には,実子がなく,複数の王族が後継候補となっていた。

結局,建中王の従弟である朝貞を推す一派が,主導権を握り,朝貞が国王に即位した。

長楽王である。

しかし,反主流派も隠然たる勢力を維持していた。

大康8・長楽2年(1481),義康は,
長楽王の権力基盤が弱いことを見て取り,
湯朝攻撃を計画した。

しかし,当の義康も病を発し,そのまま不帰の客となってしまった。

これにより,広康は18歳の若さで山奈家の当主となる。

湯朝の新王 長楽王は,義康の逝去を川手奪還の好機ととらえ,
川手遠征を計画した。

吉井豊長(よしい・とよなが)は,
建中の飢饉の傷が癒えていないことを理由に,
川手遠征に反対した。

ところが,強硬派の福木貞豊(ふっき・さだとよ)は,

「山奈家は,義康が一代で築いた勢力です。

義康の才覚によって,一時的に膨れ上がっているだけに過ぎません。

支柱であった義康が亡くなり,後を継いだ広康は若年。

我が国が大軍をもって川手を目指せば,多くの領主が我が国に靡くでしょう。」

と,楽観論を唱えた。

長楽王は,結局,福木貞豊に兵3万を与え,川手へ向かわせた。

広康の腹心 山本統久(やまもと・むねひさ)は,

「湯朝には,先王時代の大飢饉の影響が色濃く残っています。

大軍を擁していますが,糧食は不足気味です。

持久の構えを取るべきでしょう。」

と進言,広康もこれに同意する。

福木貞豊の予測は外れ,山奈方の結束は固かった。

湯朝軍は,川手を攻撃したが,
広康の堅守を崩すことができない。

ひと月も経つと,湯朝軍では,
三万の兵を養うだけの糧食が確保できなくなった。

広康は,ついに湯朝軍に夜襲を仕掛けて,大勝した。


川手地方掌握

湯朝軍の反攻を退けて川手を守った広康は,
いよいよ川手地方全域の掌握をめざして,
湯朝方の諸城に攻勢を仕掛けた。

湯朝も度々川手地方へ援軍を派遣するが,
連年その勢力を後退させる。

大康11・長楽5年(1484),湯朝は,
3万の軍を派遣して川手地方での主導権を奪い返そうと企図した。

広康は,羽多野へ進出,山本統久・里谷行賢らを伏せさせ,
湯朝軍を待ち受けた。

湯朝軍は,広康を小勢と侮り猛攻を仕掛けたが,
伏兵となっていた山本・里谷両将に突如攻撃を受けて打ち破られた。

羽多野で勝利した広康は,
大康13・長楽7年(1486),川手地方では
湯朝最後の拠点となっていた要衝 真砂湊を攻略する。

真砂の守将の一人である及川貴次を寝返らせて得た勝利であった。

広康は,ついに川手地方全域を制圧したのである。

さて,川手地方に隣接する名和国東岸地方には,
才宮・浅見・御風・椎名・山吹の東岸五氏を始めとする
諸侯・諸領主が割拠していた。

東岸地方も,南の境で湯朝と接している。

その昔,淳化王時代に全盛期を迎えていた湯朝は,
東岸地方の大半を川手地方の大半と合わせて実効支配していた。

淳化王時代の名残で湯朝の勢力は,
東岸地方には未だ残っており,東岸五氏のうち椎名氏・山吹氏は,
湯朝の影響下にあって,名和国側の才宮氏・浅宮氏・御風氏らと争っていた。

広康は,川手地方平定後,東岸地方に積極的に介入し,
丙辰の変が起きた大康23年(1496)ころまでに,椎名氏・山吹氏を降して,
湯朝の影響を東岸地方から排除することに成功している。


安原会戦

大康23年(1496),名和国朝廷を牛耳る鷲尾文俊が,大康王を弑逆した。

朝廷で専権を振るう鷲尾文俊を大康王が除こうとして,
逆に文俊に害されてしまったものである。

文俊は,王弟 義枚を即位させたが,
大康王の太子 義知を取り逃がす。

義知は,十和宮家の昭成王を頼った。

義枚は慶福王と称されるが,その称はやはり在世中の元号によるものである。

当然,義知方ではこれを認めず,大康の元号を使い続けた。

さて,文俊は,十和家を除こうとしたが,久慈の戦いで十和軍に惨敗し,
勢威を失い始める

広康は,従前より鷲尾家と友好を築いており,
十和宮家台頭の後もその姿勢を崩さなかった。

広康は,自ら名和国を主導するつもりであり,

「十和宮に取って替わるのは難しい。十和宮がこれ以上大きくなるのは阻まねばなるまい。

文俊の方が付け入る隙がある。」

と考えていたからである。

義枚方の慶福3年(1498),
十和軍が名和国の都 津京への入京を目指して征旅をおこすと,
広康は,鷲尾家を救援するべく兵を動かした。

鷲尾家を包囲する諸侯を,攻撃し始めたのである。

比奈氏の軍は,友谷で広康の将 里谷行賢の待ち伏せを受けて潰滅,
また,片島氏も広康本隊の攻撃を受けて大破された。

広康は,十和方による鷲尾文俊包囲網をほとんど瓦解させた。

ところが,文俊の寵臣 村谷師康,三山俊勝らは広康を警戒する。

広康の台頭で自分たちの立場が軽くなるのを嫌ったのである。

十和勢に対して広康は,防備を固めた畿内に十和勢を引き込んで,
その勢いを殺いで討つべきことを主張した。

しかし,村谷・三山両将は,畿内に十和勢の侵入を許すべきではなく,
安原まで打って出て,十和勢の行く手を遮るべきであると主張する。

始め,文俊は広康の主張の方に同調的であった。

すると,村谷・三山両将は,

「広康殿が畿内に十和勢を引きこんで戦うべきだと言うのは,
実は広康殿が十和方と内通しているからではないでしょうか。

十和勢を引き込んだ途端に広康は当家を裏切り,
十和宮と一緒になって我々を攻撃する腹積もりであるのかもしれません。」

と密かに文俊に訴える。

結局,文俊は,村谷・三山らの進言を採用した。

鷲尾軍は,十和軍の畿内侵入を阻もうと安原に布陣したが,結局,
十和方の陽動作戦に引っかかり大敗を喫する。

広康は,十和方の陽動を見抜いており,鷲尾軍が陽動につられたのを見ると,
利あらずとしていち早く川手まで引き上げてしまった。


亡命

安原の会戦後,鷲尾文俊は,都落ちを余儀なくされ,程なく病死,
広康は,十和家に対抗するため,文俊の旧領を侵奪した。

さらに,十和政権が奉じる義知(天佑王)を偽王としてその即位を認めず,
文俊に擁立されていた義枚(慶福王)を王として奉じる。

天佑王の朝廷では,十和氏の権力が増大していくが,
当然,それを不満に思う諸侯や廷臣も少なくなかった。

広康は,十和政権に不満を持つ諸侯や廷臣を煽る。

やがて天佑王と十和宮の間が不穏であることを察知した広康は,
反十和勢力の決起を促すべく,慶福5年(1500),津京入京の軍を起こした。

十和宮が広康迎撃のため都を空けると,反十和勢力が決起したが,
この反乱はたちまち十和政権の重鎮 東条誠久によって鎮圧される。

広康を迎え撃とうと津京を進発した十和方には,
動揺も見られず,広康は,川手へ引き上げを決めた。

「博打の色が強すぎた。」

と広康はこぼしたと言う。

広康の足元が不安定になり始めていた。

東岸地方の諸侯が広康から離れる動きを見せ,
旧鷲尾家臣らの動きも不穏で十和方に鞍替えする動きも出ていた。

十和軍は,広康の苦境に乗じて長津へ兵を進める。

広康が鷲尾文俊の死後,鷲尾家を滅ぼして掌握した土地である。

広康方は始め山本統成が,十和方の川下朋之を敗死させ,
杉山頼友が中湊を固守するなど,気勢を吐いていた。

ところが,長津の佐伯嘉秀が里見泰之の陽動に引っかかって討たれ,
長津も陥落すると広康方の劣勢は決定的となる。

広康は,中湊救援および長津奪還を目指して動いたが,
劣勢を挽回できず,中湊を明け渡して川手に引き上げた。

長津での敗戦は,広康の求心力を一層低下させる。

対照的に十和宮は,順調に勢力を拡大し,
縁ある宮号 綾湊を名乗り,さらに神託により瑞穂国再興を宣言,皇帝に即位した。

広康が奉じていた国王 慶福王は,慶福10(1505)年に崩じ,
その後を継いだ義憲(興初王)は病弱であった。

綾朝の一層の勢力拡大に接し,広康は,

「湯朝を頼る。」

と決意し,湯朝に密使を送る。

即位間もない嘉楽王は,権力基盤が不安定だったこともあり,
広康を救援することについては消極的であったが,
広康主従を興初王共々,湯朝へ受け入れることについては承諾した。

興初2年(1506),綾朝の親征軍を迎えると広康は,
川手を放棄し,湯朝へと亡命したのであった


宮原の乱

湯朝の嘉楽2年(1507),湯朝の客将となった広康は,
川手奪還へ向けて川手地方の諸領主の調略を開始,
三原顕吉・鴨下憲長といった領主が綾朝から,湯朝へ鞍替えした。

これに合わせて広康は,川手地方へ侵入しようとしたが,
綾朝は,三原・鴨下両将に対していち早く討伐軍を差し向けた。

広康は,三原・鴨下らを救援し,綾朝と対峙することになったが,
綾朝の早智秋は,湯朝の内部分裂を策動していた。

この策動は奏功,宮原政英ら反主流派が,嘉楽王に対して蜂起する。

湯朝では,大聖王時代に国王の求心力が低下して以来,
派閥間の権力闘争が激しく,何度も主流派が入れ替わっていた。

この度重なる「政権交替」は,王位継承に強い影響を及ぼす。

湯朝では,先王 雍熙王時代,国王に実子がなく,その後継争いが生じる。

後継候補の内,朝頼王子・朝素王子は雍熙王の従弟,
朝昌王子は,王の甥であった。

結局,吉井氏や遊佐氏・稲森氏らの推す朝頼王子が即位したが,
これが湯朝の現国王 嘉楽王である。

朝素王子を推していた宮原氏や加瀬氏,津雲氏は,
雍熙王の代には主流派であったが,
嘉楽王の即位に伴い,反主流派へ転落した。

宮原政英は,朝昌王子を推していた三辺(みなべ)氏らとも連携,
嘉楽王の追い落としを狙って反乱を起こしたのである。

広康は,

「この乱を利用しない手はない。」

と言い,いち早く湯朝へ戻る。

宮原政英は,

「嘉楽派の主力が戻ってくるまでには,半月はかかる。

それまでには,手薄の都を落とせるだろう。」

と考えていた。

しかし,広康は,宮原の蜂起から7日で都へ取って返した。

宮原勢は,周章狼狽も甚だしく,都の軍と広康の軍の挟み撃ちにあって
撃滅されてしまった。

広康は,吉井豊長や稲森義興,火取並らとともに,
反主流派の残党を各個撃破する。

湯朝内での騒乱を早々と収めた広康は,取って返して,
綾朝軍と久香崎で対峙した。

湯朝の内乱が収束したことで,好機が去ったと見た綾朝軍は,撤退する。

嘉楽王は,広康を反乱鎮圧と綾朝軍撃退の最大の功労者として,
反乱軍の旧領から広康に大規模な加増を与えようとした。

しかし,広康は,吉井豊長や稲森義興,火取並らの功績を讃えて,
小さな加増しか受けず,さらに,

「王家の繁栄が国の安定に繋がります。

王家の御料地を増やし,王家を強くすることが肝要です。」

と,王が自分に与えようとした土地の多くを王家の直轄地とすることを提案した。

以降,広康は嘉楽王の絶大な信頼を勝ち取り,
また,功績を誇らなかったことで,主流派から敵視されることも避けたのである。

広康は,宮原の乱を最大限に利用したのであった。


日生国との同盟

旧宮原派などの所領を収公したことで,
湯朝王家の実力は,復活し始めていた。

自然と嘉楽王から信頼を寄せられた広康の発言力・求心力は高まっていく。

広康は,湯朝の征北将軍として,対綾朝戦略の中心人物となっていた。

湯朝の嘉楽5年(1510),日生国では入島神聖が政権を執り,
湯朝との同盟関係を望んだ。

このころの湯朝内は,旧宮原派の残存勢力や,
湯来・志賀盆地の外,いわゆる嶺外地方にあって,
王家に対して自立的に振る舞う有力諸侯が存在していた。

旧宮原派の外城氏,嶺外地方の天堂氏・遊佐氏などがそれである。

日生国との同盟について広康は,

「綾朝に対抗する上でも,嶺外の諸侯を牽制する上でも不可欠であろう。」

と考えていたが,主流派の中には,綾朝と対決するより,
日生国を破って内海へ進出するべきであると考える者もあった。

特に日生国が久礼を失って以来,
湯朝では,緒土国とともに弱った日生国を挟撃しようとする考え方が生まれた。

広康は,

「日生国の後退は,一時的なもので,かすり傷を負った程度のこと。

日生国内では,神聖家や諸侯は,いまだ強大な財力・軍事力を有している。

対して綾朝は,成立して日が浅く,国力でも日生国の半分に過ぎず,
くみしやすい相手である。」

と,日生国進出派を説得する。

湯朝と日生国の同盟は成立した。

同じ年,外城政貴が,山奈広康の排除を目指して兵を挙げる。

政貴は,

「朝廷は,広康をうまく使っているつもりかもしれないが,
使われているのは,朝廷の方である。

広康は名和国時代,鷲尾家を潰し,名和国王を傀儡にして綾朝と対抗した。

それが失敗すると,広康は,
名和国を再興するとうそぶいて名和国王族を奉じて湯朝に身を寄せてきた。

しかし,今やすっかり我らが志賀国(湯朝)の将のように振る舞って,
名和国の王族を軽んじている。

こういう人間が,我が朝廷のためになるであろうか。」

と訴えて,主流派を広康排除へと動かそうとした。

ところが主流派は,広康の軍事力を必要としており,外城政貴に同調しなかった。

広康は,朝廷から外城征伐の命を受けて出陣する。

これに乗じて,綾朝は,久香崎へ進出した。


第二次久香崎会戦

広康は,三津城街道の要衝 増岡に陣取る外城政貴を避けて,
箭内(やない)の間道から外城氏の本拠 両城を急襲する。

箭内方面の外城軍は寡兵だったこともあり,敗退を重ね,
また,増岡から急遽,両城方面へ引き返した外城軍本隊も
広康軍の伏兵に遭遇して,大破される。

外城政貴は,残余の兵を率いて両城に籠ろうとしたが,
配下の久谷定平に背かれて討たれた。

両城を守っていた政貴の子 清貴は,降伏する。

広康は,すぐに,綾朝が進出してきた久香崎の救援に取って返した。

広康が久香崎へ戻るのに選んだのは,
湯朝無双の難所と称されていた槌山を通過する道であった。

平坦な三津城街道を進むより距離が短縮されるためである。

急峻な山道を進んだ広康は,
綾朝側の予測をはるかに超える速度で久香崎入りした。

広康は,

「こちらの兵も疲弊しており,これ以上の継戦は望ましくない。

綾朝側の将兵も疲弊し始めているが,
皇帝親征の面目を保ったまま引き上げる機会を探している。

こちらから和議を言い出してやれば,渡りに船とばかりに応じるであろう。」

と考え,主流派諸将を説得して綾朝へ和議を持ちかけた。

久香崎を攻めあぐねていた綾朝は,
広康が持ちかけた和議に応じて兵を引いた。

第二次久香崎会戦の翌年,綾朝では元光帝が崩御する。

湯朝朝廷では,この機に乗じて綾朝を攻撃するべきか否かについて,
検討がなされた。

対綾朝戦略の核を担う広康が,綾朝に動揺が生じていないことを指摘し,
この時,綾朝攻撃は行われなかった。


綾朝攻撃

広康は,数次に渡って日生国の緒土国攻撃に呼応し,
緒土国と結ぶ綾朝を攻撃している。

嘉楽10年(1515),
日生軍が北原で緒土国軍と激突したころ,
広康は,川手地方の真砂湊を攻撃した。

ところが,この時の綾朝攻撃は,中断を余儀なくされる。

嶺外地方の天堂希彦(てんどう・まれひこ)が,湯来地方へ侵入したからである。

天堂氏は,南海交易を独占して繁栄を極め,湯朝から次第に自立しはじめていた。

天堂氏が勢いづくと,今は鳴りを潜めている反主流派も息を吹き返しかねない。

広康は,真砂攻撃を切り上げて湯来地方へ引き返し,天堂氏に対処した。

天堂軍は,湯来地方の南の入口とも言える要衝 天原の近郊に達し,
湯朝側の集落や拠点を焼き討ちしていた。

引き返してきた広康は,天堂軍の動きを詳細に探ると,
夜陰に紛れて天堂軍の背後に回りこんで急襲した。

広康の完勝であった。

嘉楽11年(1516),またも日生国は緒土国に侵攻した。

綾朝が緒土国を救援すると,
広康は,再び綾朝を攻撃する。

この時は,綾朝が緒土国を救援しない可能性もあった。

前年に,緒土国が安達宗治と結んで綾朝攻撃に参加していたからである。

そのため広康は,綾朝が緒土国救援の動きを見せた後,綾朝を攻撃した。

前年,広康に大破されている天堂希彦は,今回は動かなかった。

綾朝側の真砂の防備が堅いことを知った広康は,
真砂を攻撃せず,内陸の街道を進んで川手を目指す。

真砂の守備軍は,広康の行く手を阻もうとした。

無論これは,広康の陽動である。

広康は,鳥居の地で真砂の綾朝軍を待ち伏せて壊滅させた。

真砂を陥落させた広康は,川手に迫ったが,
既に川手には,皇太子 輝成率いる綾朝の増援が到着していた。
輝成は初陣であり,その左右を早智秋・上村晴世といった重鎮が固めていた。

戦線は膠着する。

広康は,

「これ以上戦が長引くと,天堂希彦が動きかねない。」

と,真砂の防備を強化して,湯来へと引き上げた。

この年,広康は,自身が名和国王に担いだ 義憲(興初王)と
嘉楽王の娘の縁談を取り持つ。

この縁談は,嘉楽王に利のあることであった。

嘉楽王の娘が名和王族の子を産めば,嘉楽王には,
旧名和国領を支配する名分ができるからである。


第三次久香崎会戦

嘉楽12年(1517),湯朝の左大臣 市井真存(いちい・さねなが)が薨去した。

さて,嘉楽王を即位させた現主流派は,一枚岩ではなく,
主流派内でも権力闘争があった。

王権を強化し,嶺外地方の諸侯を下し,綾朝と渡り合う広康は,
今や主流派内で,強力な影響力を発揮するようになっていた。

主流派内には,さすがに広康を敵視する派閥が形成される。

広康は,嘉楽王の信任を背景にして,政敵を抑え,今回の人事でも
見事に自身の推す人物を栄達させた。

祭城頼平(さいき・よりひら)が左大臣に,
岡村政任(おかむら・まさとう)が右大臣となる。

広康自身も,征北大将軍となり,政治的影響力を一層強めた。

飛躍する広康であるが,綾朝との攻防は,一進一退が続く。

この年,綾朝は,湯朝領の志賀攻略を企図して,三度,久香崎を攻撃してきた。

綾朝内には,先に真砂を奪還するべきとの声もあった。

ところが,綾朝第二代皇帝 建文帝は,叔父 十和忠正の

「志賀を攻略すれば,志賀以北の湯朝領は孤立して自然と綾朝になびく」

という楽観論を採用したのである。

広康は,久香崎を攻める綾朝軍を真砂の水軍に牽制させ,
自身は,久香崎を固守した。

対陣は一か月半におよんだが,綾朝は得るところがなく,ついに引き上げた。

翌嘉楽13年(1518)には,綾朝は外城氏を扇動して湯朝に背かせ手を結ぶ。

さらに翌年には,嘉楽14年(1519),綾朝は,またも湯朝を攻撃してくる。

この年,嶺外地方の天堂希彦が逝去し,
後継を巡って希彦の長男 高彦と次男 直彦が争う事態となる。

広康は,この機に天堂氏を下そうと,嶺外地方へ侵攻した。

綾朝は,その隙を逃さず,前年手を結んだ外城清貴に湯朝遠征の軍を興させた。

さらに綾朝軍自体も真砂奪還に動いた。

綾朝軍は十和忠正が率いていた。

先の遠征での汚名返上に燃える忠正は,真砂に水陸から猛攻を仕掛けてたが,
4千もの犠牲を出しながらもこれを陥落させられず,
任を解かれて,上村晴世と交替させられる。

上村晴世は,忠正によって漫然と行われていた総攻撃を改めた。

真砂の城兵の疲弊を見て取って,昼夜交替で休むことなく攻撃を仕掛け,
ついに真砂を陥落させた。

上村晴世は,さらに久香崎を目指して進撃する。

広康は,天堂氏討伐を切り上げて久香崎に取って返し,
また,外城軍には,腹心の里谷行晴を差し向けた。

里谷行晴は,広康直伝とも言える電撃的な行軍で,
三路から嶺内へ迫ろうとする外城軍を各個撃破してみせる。

広康は,今回も久香崎を固守して,動かなかった。

真砂攻略の際の十和忠正による失策で疲弊していた綾朝軍は,
勢いが鈍っており,久香崎を攻めあぐね,またも引き上げることとなる。

同年,内大臣 氏家頼潔(うじいえ・よりきよ)の薨去により,
広康は,後任の内大臣となった。

しかし,翌嘉楽15年(1520)の日生国の北伐に合わせた友谷遠征では,
広康は,戦果を上げられなかった。

友谷防衛の重要拠点 長岡で,里見泰之率いる綾朝の友谷救援軍に進撃を止められ,
長対陣を嫌って撤兵している。


友谷の戦い

嘉楽16年 (1521),綾朝は,またも久香崎へ進撃してきた。

前年,広康は,対綾朝遠征に失敗しており,
湯朝朝廷での立場がやや不安定になり始めていた。

綾朝は,そのような情勢を読み取って,久香崎へ軍を差し向けたのである。

また,綾朝の盟邦 緒土国も湯朝の盟邦 日生国を攻撃しており,
綾朝にとっては,湯朝と日生国に挟撃される心配の少ない状況でもあった。

とはいえ,このころ緒土国は日生国に対して劣勢であり,
このときも,日生領の姫島を攻撃しながら戦果をあげられず,早々に撤兵している。

日生国総攬の入島神聖は,緒土国の攻撃の規模・勢いを的確に判断し,
自らは姫島へ出ず,むしろ,対綾朝を睨んで,綾朝との国境で戦力を増強した。

あわよくば,長岡・友谷を攻略してやろうという布陣である。

広康は,こうした状況に鑑みて,

「いつもどおり,持久の構えを採っていれば,
綾朝の方が勝手に疲弊するだろう」

と読んでおり,その読み通り,まもなく綾朝は,久香崎から引き上げた。

広康は,反攻作戦を企て,里谷行賢・杉山頼友に兵1万を与えて真砂を攻撃させる。

綾朝の川手からは,泉義晴率いる兵2万が真砂の救援に向かった。

川手の副将 早智伯(そう・ともたか)は,

「これは,広康の陽動です。広康の真の狙いは友谷です。

真砂の救援に全力を傾注すれば,友谷への救援がおろそかになります。」

と進言したが,泉義晴は,

「友谷は今のままでも堅牢で,数万で攻められても三か月は持ちこたえられる。

真砂は今のままでは落ちる。真砂が落ちれば,この川手が危ない。」

といって,真砂の救援に全力を注いだ。

広康は,この間に,兵3万を率いて長岡に殺到する。

広康は,前回の遠征が不首尾に終わった後,
長岡・友谷に対する調略をそれまで以上に強化していた。

川手が真砂救援に多くの兵を割いたことで長岡の内部は動揺する。

当面,友谷・長岡には大規模な救援が来ないことが明らかだからである。

綾朝の都 津京からは,里見泰之率いる救援軍が出される。

しかし,津京からは友谷は遠い。

里見泰之は,泉義晴の決断に歯噛みしたという。

広康の従前からの調略が威力を発揮する。

長岡守備軍からは,広康に降伏するものが続出したのである。

間もなく,広康は長岡を落した。

そのまま,広康は,友谷を攻撃する。

広康は,長岡の降将らに,本領安堵のほか加増・褒賞を約束して
友谷攻撃に投入した。

長岡の降将らの士気は高く,死力を尽くして友谷に猛攻をかけた。

結局,友谷の内部からも広康側に寝返るものがあらわれる。

義晴が三か月は持ちこたえられると読んでいた友谷は,数日で陥落した。

里見泰之は,後退した国境線の防備を固め,
義晴は,真砂を守りきりかろうじて面目を保った。


内乱

嘉楽19年(1524),広康は左大臣となる。

前任者 祭城頼平の薨去に伴うものである。

湯朝内の反広康派の反発は,頂点に達した。

嘉楽20年(1525),反広康派の急先鋒 吉井頼長・矢野頼繁は,嶺外地方の天堂直彦や
外城清貴と結んで,広康排除を企図して挙兵する。

吉井氏は,かつて嘉楽王を即位させるのに功績のあった一族であり,頼長の父 豊長は,広康とともに宮原の乱を平定している。

ところがその後,広康が朝廷での影響力を拡大すると,吉井氏は,広康への警戒心を強めるようになった。

そして,広康が政権を掌握したことで,ついに吉井氏と広康は,決裂したのである。

広康は,自派に属す嶺外地方の諸侯 山戸元良(やまと・もとよし)に
天堂直彦を牽制させる。

天堂直彦の軍は剛勇を誇る山戸元良と,天堂家当主の正統を争う治彦に防がれて,
嶺内地方へ入れず,吉井頼長・矢野頼繁や外城清貴と合流することができなかった。

反広康連合は,嶺外東岸地方および嶺内の東部を席巻し,
湯来への進撃をめざす。

湯朝朝廷は,外城清貴に対しては,

「清貴が綾朝による嶺外への侵入を防いでいる功績は前代未聞の偉大なものであり,
今回,乱に加わったことも,朝廷が十分に清貴に報いて来なかったために,
朝廷の信賞必罰を正そうとしたものであろう。

もし清貴が兵を引くならば乱に加わったことは不問に付して,本領を安堵する他,
これまでの功績にも充分に報いるであろう。」

と,伝える一方,吉井頼長を始めとする嶺内の反広康派には,
苛烈な処置をちらつかせた。

実際,捕虜に対しても,外城軍の捕虜を外城方に送り返す一方で,
嶺内の反乱軍の捕虜は,ことごとく処刑するなど,扱いに差をつけた。

これは,無論,外城軍と嶺内の反乱軍の離間を図った広康の策である。

嶺内の反広康派は,外城清貴を信用しきれなくなった。

外城清貴も,連合軍内の不穏な空気を感じて,兵を引いて,朝廷に恭順の意を示す。

嶺内の反乱軍は孤立し,朝廷軍による苛烈な攻撃を受けて殲滅された。

綾朝では,12歳になる建文帝の第二皇子 春成皇子が,
里見泰之とともにこの隙をついて友谷・長岡を奪還し,
初陣を飾っている。

嘉楽21年(1526),綾朝は,友谷奪還の勢いを駆って,久香崎へ進撃する。

ところが,この年の川手・志賀地方を異常な大雨が襲った。

久香崎が面している紗摩川・大内川は,激しく増水して
綾朝の陣は水浸しとなり,ついに撤退を余儀なくされた。

この時の久香崎の戦いにおいて,広康の嫡男 頼康が初陣を迎えた。

広康が,湯朝に亡命してから3年目に誕生した子であり,
母は,嘉楽王の妹である。


長岡の戦い

嘉楽23年(1528),同盟国の日生国は,緒土国から久礼を奪還するため
大規模な遠征を敢行した。

広康もその動きに合わせ,友谷の再奪取を目指して綾朝へ侵攻,
まず,長岡を包囲した。

綾朝の里見泰之は,長岡へ向かった。

広康は,長岡の包囲を継続させつつ,
自身は,里見泰之を迎撃するため,長岡・友谷間にある青山へ進出した。

里見泰之は青山へ迫りつつ,さらに広康の背後を衝くべく,
猛将 泉義晴に別働隊を率いさせ,長岡の東にある要衝 花山へ急行させる。

広康は,青山から長岡近郊の直瀬(すぐせ)へ後退した。

広康が後退したため,里見泰之の目論見は外れ,
広康の背後を衝けなくなった。

泰之は仕方なく,泉義晴と合流して,直瀬へ向かった。

既に,広康は,堅牢な陣地を構築して長岡包囲の態勢に入っており,
直瀬もその堅牢な包囲網の一端であった。

里見泰之にしてみれば,広康による長岡包囲網の一角でも崩さなければ,
長岡は早晩,開城を余儀なくされるため,積極的に広康に攻撃を仕掛け無くてはならない。

泰之は,泉義晴に広康の長岡包囲陣の北側から攻撃を仕掛けさせ,
自らは,直瀬へ突進する。

広康は,泰之の動きを読みきって,粛々と綾朝軍の攻撃を撃退した。

泰之はうかつに広康を攻撃できなくなる。

ついに長岡は陥落した。

ところが,直後,広康は,病に見舞われ,
結局,湯朝軍は全軍引き上げを選択した。

長岡は,綾朝の手に戻る。

湯来に帰還した広康は,健康を回復した。

翌嘉楽24年(1529),旧名和王 義憲が身罷った。

義憲の妃である嘉楽王の娘は,義憲の子を既に身ごもっており,
その子は,義憲逝去から8か月後に誕生した。

男子であり,義憲の後継となる。

また,この年,日生国の入島神聖が徂落し,
政権交代が起こった。

湯朝と日生国の同盟は,そのまま継続される。


嘉楽王崩御

嘉楽25年(1530),嘉楽王が崩御した。

嘉楽王は,

「我が身は消えようとしているが,全く憂いがない。

我が国に広康があるお陰である。

太子はまだ若い,どうか支えてやって欲しい。」

と,広康に国の将来と若い太子を託した。

太子の朝早が即位する。享福王である。

嶺外の諸侯は,享福王を広康の傀儡として,その即位を認めず,
より一層湯朝からの自立の動きを強めた。

享福3年(1532),
嶺内と嶺外の境目に当たる要衝 伊沢が外城軍の攻撃を被る。

湯朝,日生の連合が継続したことから,当時,
綾朝の湯朝に対する攻撃的な動きは鈍かった。

ここにおいて,広康は,

「逆賊討滅の機は,今より他にない。

嵐の激しさをもって敵を打ち崩す。」

と本格的な外城征伐の挙に出た。

広康の遠征軍5万が伊沢へ向かうと,
数的不利から,外城軍は,伊沢から兵を引き上げ,領内の防備を固める。

広康は,三方より外城領を攻撃する。

広康本隊2万は,三津城街道を進み,
山本統成率いる1万2千は,外城領南部の高井街道を進み,
杉山頼友率いる1万8千は,箭内越えを選択した。

兵力で勝る広康の軍は,清貴の兵力を分散させることに成功し,
一層,優位に立った。

広康は,三津城を周辺の要衝を陥して孤立させ,
高井も山本統成の兵糧攻めによって,開城を余儀なくされる。

箭内越えでも,杉山頼友が外城方の伏兵を看破して,
外城軍を潰走させた。

程なく三津城では,清貴に対する反乱が起こったため,
清貴は,東海岸の要衝 長束へ落ち延びようとしたが,
その途上,配下の富山和行に討たれてしまう。

清貴は,父 政貴と同じく,
配下に背かれて最期を迎えることになってしまった。

長束にいた外城清貴の子 直貴は,湯朝に降伏したが,
その所領は大幅に削られ,小諸侯に転落した。


天堂氏征伐

外城征伐の翌年である享福4年(1533),広康は,
今度は天堂征伐を開始した。

天堂氏に攻められた嶺外の諸侯 遊佐氏より,
湯朝朝廷に援軍の要請が入ったからである。

天堂家は希彦の死後,その長男 高彦と次男 直彦が家督を巡って争い,
分裂していた。

高彦死後,高彦の長男 義彦は,直彦の三千の遠征軍を引き受けて,
若年ながら数十の手勢で直彦の軍を潰滅させる剛勇を見せた。

直彦が重傷を負って,やがて亡くなると,義彦は,直彦の子 治彦を打倒し,
天堂家を統一した。

義彦は,享福3年に広康が外城征伐を開始すると,
湯朝朝廷の軍事力が嶺外東岸地方に向いている隙に乗じ,
勢力拡大に乗り出す。

天堂軍は,湯朝朝廷に属する遊佐(ゆさ)氏・山戸氏を攻撃して圧倒し,
遊佐氏はその本拠 平沢に逼塞,山戸元良も孤立を余儀なくされた。

広康は,義彦について,

「その勇は,かつて十万の安達軍を打ち破った綾朝の里見泰之に匹敵するであろう。

しかも冷静で強かさが見える。難敵である。」

と,評した。

実際,遊佐氏・山戸氏を救援するために先遣とした山本統成・稲森義興は,
義彦の猛攻を受けて打ち破られた。

山戸元良は数百で,数か月に渡って天堂軍1万と本拠 山門(やまと)で対峙,
持ちこたえていた。

広康は,3万を率いて天原から天堂氏本拠 福永を目指した。

義彦は,山門攻撃を中断し,弟 和彦とともに広康の攻撃を受ける要衝 利波(となみ)救援に赴いた。

広康軍では,天堂軍の来襲を予測して,山門から利波に至る街道筋に杉山頼友を配して防備を固める。

杉山勢は陣を堅守して,天堂兄弟の猛攻を耐えしのぐ。

広康軍本隊は直ちに杉山勢を救援しに動いたが,杉山勢は潰滅寸前まで追い詰められていた。

広康軍の葛原康直・里谷行輝が,天堂勢の左右に回りこんで挟撃を開始するに至って,
ようやく戦局が逆転,天堂軍は敗走した。

義彦は,湯朝朝廷へ恭順する意志を示して降伏した。

天堂氏は,遊佐・山戸氏から奪った所領を没収され,本領も一部,削られたが,
大諸侯として存続することになった。

ここに至り,大聖年間以降,分裂状態となっていた湯朝は,
広康の手によってようやく再統一を果たしたのである。


綾朝遠征

湯朝の再統一を果たした広康は,享福6年(1535),
いよいよ綾朝攻撃を再開,
8万を超える湯朝軍が二路から綾朝へ侵攻した。

広康率いる本隊5万5千は,志賀を出て,川手を目指して北上,
その軍には,広康の嫡男 頼康の他,
先年,朝廷に恭順した天堂義彦・和彦兄弟も参加していた。

山戸元良が率いる2万5千は,稲森義興・里谷行輝を副将とし,
長岡・友谷を目指した。

綾朝の建文帝は,早明久・市村時文に兵1万を与えて,川手の泉義晴を救援させ,
友谷へは,安代栄家・瀬野幸就にこちらも兵1万を与えて救援に向かわせた。

また,東の副都と言える 有賀には,皇太子 輝成が入って早智秋の補佐を受け,
西の副都とも言える福成には,
春成皇子が入って早智伯の補佐を受けて湯朝の北上に備えた。

さて友谷は,従来,里見泰之が預かっていたが,
この時,泰之は病のために都で静養を余儀なくされており,
代わりに泰之の息子 泰友が入っていた。

広康の本隊は,陸路と紗摩川の水路とに分かれて進んだ。

広康は,真砂と川手の連絡を遮断し,
火取理(かとり・はかる)率いる湯朝水軍が紗摩川上を封鎖した。

綾朝軍は,孤立した真砂から退去して,川手に引き上げた。

川手地方では,広康の大軍の前に,綾朝から湯朝に鞍替えする勢力も多く,広康本隊は8万にまで膨れ上がる。

湯朝軍は,川手地方の諸城を攻略して川手の防衛網を丸裸にしていく。

早明久・市村時文は,自軍の8倍の兵力を誇る広康本隊が包囲する川手を
遠巻きに眺めることしかできなかった。

川手は困窮し,守将 泉義晴は,広康による開城勧告を受け入れて,
城兵の助命と引き換えに自害した。

広康は,29年ぶりに川手に入ったが,
さして感慨深げな様子を見せることもなく,
ただ,側近の杉山頼友に

「常盤は広い。まだ我が国に田舎の城をひとつ加えたにすぎない。」

と,天下への意志を語った。

友谷の里見泰友は,安代栄家・瀬野幸就率いる救援軍と合流すると
長岡の蓮城国長とともに,末川沿いの花山へ進出し,湯朝軍を迎え撃つ。

末川支流の越知川を挾んで山戸元良率いる湯朝勢と綾朝軍は対峙した。

湯朝の稲森義興・山本統慶勢が,越知川の渡河に成功,蓮城勢に襲いかかると,
蓮城国長が戦死するなど綾朝勢は劣勢となり,さらに湯朝勢による突入を許して
ついには,長岡へ撤退する。

やがて,広康が川手を占領したことが,両軍に伝わると,
湯朝勢の士気は高まり,綾朝勢の士気は下がった。

長岡・友谷では,兵の離脱が相次ぎ,
綾朝は,長岡・友谷を捨てて篠岡まで退却した。

山戸元良は篠岡へ進撃,広康本隊も川手地方の残存諸城の攻略にとりかかった。

綾朝は,ただ宇山の戦いで気勢を吐いたのみであった。

宇山は川手地方東端にあり,東岸地方と川手地方と有賀を結ぶ要衝であり,
山奈広康に東岸地方攻略を命ぜられた葛原央直・小島長友(おしま・ながとも)によって攻撃を受けた。

綾朝の皇太子 輝成は,有賀から宇山を救援して葛原・小島勢を撃退したのである。

とはいえ,中湊では,綾朝の重鎮 早明久が,湯朝の火取理によって敗死させられ,
長津も湯朝軍の重包囲を受けて風前の灯火となっていた。

宇山には,今度は杉山頼友が迫っていた。

都の里見泰之は病を押して,長津の救援に向かい,湯朝軍と対峙する。

湯朝は建国以来最大の勢威を示し,綾朝は,建国以来最大の危機を迎えた。


木の葉

長津を包囲する湯朝軍では,里見泰之の南下に備えて,天堂兄弟が守備を固めた。

里見勢の猛攻を天堂兄弟はよく凌いだ。

ちょうど,広康が天堂兄弟を破った利波の戦いに似た形勢となり,
湯朝軍は,今度も,新手を敵勢の側面に回そうとした。

しかし,里見勢は,この攻撃に崩れることなく,整然と後退した。

とはいえ,里見泰之は,長津の包囲陣を突破することができないままである。

長津は,川手同様の運命を辿ろうとしていた。

ところが,ここへ来て広康は,病床に伏すこととなる。

陣中には,極秘に名医として知られる葛城和清(かつらぎ・わせい)が招かれた。

和清は,広康の状態が相当に悪いことを見て取ったが,
懸命に治療に当たる。

広康の病状は,一時,快方に向かう。

けれども,和清は,

「重病の人が,にわかに小康状態となるのは,極めて危うい事態である。」

と感じたという。

和清の懸念どおり,広康は,まもなく危篤となり,

ついに,陣中にて薨去した。

享年72歳であった。

広康は,自身について

「川の水面に漂う木の葉にも似た生涯」

と評したという。

湯朝軍は,広康の遺した指示に従って,杉山頼友を総引き上げの責任者とし,
全軍,湯来へ引き上げた。

政権は,山奈派が掌握し続けた。

広康の嫡男 頼康は,26歳の若さであったが,
広康が現出した湯朝内各派閥の統合をうまく維持する。

綾朝は,広康の最後の侵攻により,重鎮である早明久や泉義晴を失い,
また,病を押して出陣した里見泰之が無理がたたって翌年正月に薨去するなど,大打撃を受けたが,
滅亡を免れ,次第に勢力を回復していく。

湯朝と綾朝は,引き続き,激しく覇を競っていくのであった。