安曇清虎,後の三城正世は,
天啓23年(1508),安達家臣 安曇景清の次男として安曇家の本領である,
鈴見地方の八木沢で生まれた。
元々,安曇家は,今原家に仕えており,美好家の台頭に伴って,景清の代に
美好家に属するようになった。
その後,安達宗治が台頭すると,美好家中は安達派と塔摩有間派に分かれたが,
鈴見地方の多くの諸侯が塔摩有間派に属する中で,景清は宗治に属した。
そのため,宗治が塔摩有間派に勝利した後には,
景清は鈴見地方北部の要衝 八木沢を与えられて本拠とする。
清虎は,景清が八木沢を与えられた直後に誕生し,
嘉徳13年(1521)の安達宗治による入京戦で初陣を迎える。
この戦いは,嘉徳帝が皇太弟 詮晴を廃したことに端を発する,
皇位継承騒動の最終決戦ともいえる戦いであった。
嘉徳帝は,始め実子に恵まれず弟 詮晴を皇太弟としていたが,
やがて実子 詮秀皇子が誕生するとついに皇太弟を廃し詮秀皇子を皇太子とした。
無論詮晴はそれを認めず,安達家を頼って返り咲きを狙った。
嘉徳帝が崩御すると,詮秀皇子は即位するが,
安達宗治は,詮晴皇子を奉じて詮秀皇子の打倒を図る。
総勢12万の安達軍は,6万の詮秀皇子の軍に快勝した。
初陣の清虎は,周囲が止めるほど突出し,
父景清から
「匹夫の勇である。恐れを知らなくてはならない。」
と叱責されたが,
清虎は,
「私は,敵に勢いなく,また策もないと見たので,
この機を逃しては,敵に再起の機会を与えると思い,
恐れながらも,敵勢に突入したのです。
血気に早ったわけではありません。」
と返答して,父を閉口させたという。
清虎は,この後,章仁2年(1523)に宗治が敢行した西軍征伐にも参加した。
一条氏を中心とする反安達連合軍との戦いである。
中でも清虎は,猛威を振るった直堂一揆の討伐に当たった。
広京に近い直堂一揆の要衝 名波に,
安達勢は兵糧攻めで望み,さらに直堂派門徒に一切,
降伏を許さず殲滅するという苛烈な措置を採った。
死に物狂いとなった直堂派は,最後の猛攻に出て,安達軍に甚大な被害を与えた。
安達軍では,宗治の末の弟 幸治や譜代の勇将 河合相高(かわい・すけたか)らが,
壮絶な討ち死にを遂げた。
清虎の父 景清も深手を負い,清虎の兄 景矩は戦死してしまった。
清虎は,手傷を負いながらもここでも勇猛さを発揮して一揆勢の攻撃を凌いだ。
安達軍は名波に焼き討ちを仕掛けてついに名波の直堂一揆は全滅する。
清虎は,安曇家の嗣子となった。
名波の戦いの翌年,清虎の父 景清は,戦での深手が悪化して帰らぬ人となる。
清虎は,17歳で安曇家の家督を相続した。