誕生

美城神聖(びじょうのしんせい)は,日生国の百二十九世15年(1524),神聖家の本拠 桜阜で誕生した。

父は入島神聖であり,当時,日生国の第百二十九世総攬を務めていた。

母である入島神聖の正妃 琴子は,元老院中間派貴族の名門 深町家の出身である。

美城神聖誕生以前に生まれた入島神聖の子は,男子2人・女子1人がいたが,
いずれも病弱であり,ことごとく夭折していた。

美城神聖は,丈夫で病一つしなかった。

入島神聖は,美城神聖の誕生を大いに喜んだ。

ところで,美城神聖の誕生時には,慶雲が生じたとされる。

慶雲の出現は瑞兆であり,その雲は五彩といって,
赤、青、黄、白、黒の五色に輝いている。

前近代,常盤では虹も同様に赤、青、黄、白、黒の五色とされていた。

慶雲とは虹色に輝く雲である。

さて,桜阜はその地名どおり,桜の名所であるが,
これも美城神聖の誕生に合わせて例年より早くに満開になったと伝わる。

天地にも祝福された誕生と言えるが,神聖家の臣は,
この聖君の将来を危ぶんだ。

聖君とは,通常は徳の高い君主のことを言うが,
日生国では,神聖家に誕生した男子のことを聖君と称する。

ちなみに,神聖家の女子は聖媛(せいえん)と称する。

広奈国や綾朝の皇帝家で男子を皇子・女子を皇女と称するのと似ている。

さて,祝福すべき新たな聖君がその将来を危ぶまれたのは,
ひとえに聖君の様子が,聡明とは思われなかったからである。

聖君の師となった後藤信暁などは,幼少期の美城神聖について

「聖君は,容貌はたいそう秀でておいでだが,
その秀でた目は,常に虚空をさまよっておられる。

ひとの話もお聞きであるのかお聞きでないのかわからない有り様。

反応もお年に比べて限りなく鈍くあらせられる,
お言葉を発せられても一言二言,
茫洋としておいでで意欲や意志もお見受けできない。」

と評した。

ところが,父 入島神聖は,

「聖祖の風がある。将来必ずや偉業を成し遂げるであろう。」

と幼少期の美城神聖に期待をかけた。

聖祖とは,最初に「神聖」の称号を元老院より献呈された
四十世総攬 久礼神聖のことであり,史書が伝える聖祖の幼少期は,
美城神聖の幼少期と似て,

「茫洋としていて,目の焦点が定まらず,言葉少な。」

と描写されている。

間もなく,美城神聖は,聖太子に立てられる。

信暁は,主である入島神聖が尋常でないほど太子を高く評価しているのを知り,

「我が君が,それほどまでに期待する太子を私に託してくださったことは,
この上もない幸せ。

身命を賭しても太子をお支えしよう。」

と,太子に強く情熱を向けた。

入島神聖は,太子に信暁の他にも賢臣・勇将を付けた。

中でも七河清良(ななかわ・せいりょう)は,兵法・天文・気象に通じ,
沢木基(さわき・もとい)は陸戦を得意とし,
高須義織(たかす・よしおり)は内務と水戦に秀で,
火撫厚(ひなづ・あつし)は,間諜を任とする火撫党の後継者であった。

さらに,フリギス出身の航海士 福光安楽の長男 長和も太子に仕える。


己丑の変

美城神聖が誕生した頃,入島神聖は,連年,緒土国を攻撃していた。

緒土国は,百二十八世5年(1495),日生国から首都である久礼を奪い,
以後も日生国の版図を侵奪した。

入島神聖は総攬となって以来,緒土国に大規模な反攻を行い,大いに成果を上げた。

百二十九世19年(1528)には,日生国は久礼を除いて,
緒土国に奪われた領土を奪い返していた。

百二十九世20年(1529),いよいよ,入島神聖は,久礼の奪還を目指して親征を開始する。

ところが,初夏4月,入島神聖は,にわかに倒れ,徂落してしまった。

「徂落」とは亡くなるということであり,
日生国においては,神聖や総攬の「死」をそう呼ぶ。

華大陸の古代,聖人の死について史書は「徂落」という言葉を用いている。

これにならった呼び方である。

ところで,帝王の死には,「崩御」という言葉を用いるがまた「徂落」も時に用いられることがある。

さらに,皇太子や大臣には「薨去」,
帝王から遠縁の皇族や身分ある人には「卒去(しゅっきょ)」という言葉を用いるが,
身分によって「死」の呼び方も異なるのである。

さて,入島神聖の「徂落」により,日生軍は,久礼包囲の中断を決定して撤兵する。

神聖家では騒乱が起こった。

聖太子の師を任された後藤信暁ですら,
始めには太子について酷評した。

当時,神聖家の諸臣の間では,太子の器に疑問を持つ者も少なくなかったという。

まして,入島神聖徂落時,太子は数え6歳である。

入島神聖の弟である 蒲生聖君は,
神聖の側近の一人であった伊吹経運(いぶき・つねかず)の協力を得ると,

「聖太子は,いまだ幼く,後見が必要である。」

として,手勢を率いて桜阜を押さえてしまった。

蒲生聖君は当初は,入島神聖の正妃 琴子を利用してうまく太子の後見に納まり,
自身の権力基盤を確立しようとしたが,

琴子は,表向き蒲生聖君に協力する風を装いながら,

「神聖の御位には,徳と知によって即くものです。

干戈を用いて得られるものではありません。

しかし蒲生聖君には,力ずくで神聖位を奪おうとする野心が見えます。」

と,密かに反蒲生派を結集しようとした。

ところが,蒲生聖君は琴子の動きを察知,先手を打って,琴子を捕らえ蟄居させる。

琴子の協力を得られそうもないことを覚った時点で蒲生聖君は,
琴子や入島神聖の子らを支援する動きが拡大するのを恐れ,
太子やその同母妹 嘉子(よしこ)を除こうとした。

琴子は自身の身を囮にして自身が捕らえられる直前,
辛うじて太子と嘉子だけは,後藤信暁に託すことに成功していた。

蒲生聖君は自ら,神聖を称した。

この一連の神聖家の騒乱を,この年の干支から己丑(きちゅう)の変と呼ぶ。

亡命

後藤信暁を始め,入島神聖が聖太子につけた諸臣は,
聖太子や嘉子を支え,琴子の奪還を目指したが,数で勝る蒲生軍に抗うのは困難であった。

結局,太子主従は,神聖家から亡命せざるを得なくなる。

後藤信暁は,

「蒲生聖君は,浅宮家や香耶家と不和であり,元老院で多数を得られない。
神聖の位を簒奪しても,総攬にはなれないだろう。

元老院では,開明派は,神聖派と香耶派に分裂し始めている。

こうなると開明派が中間派と組んで政権を保つのは不可能となる。

他方,保守派も単独では多数派とならない。

結局,中間派の浅宮政臣が,保守派と組んで政権を構築するより他なくなる。

神聖家を敵視する保守派と組むであろう浅宮家を頼ることはできない。

香耶玉爵は,前の神聖と親交があり,また義に篤い方である。」

と述べて香耶への亡命を主張した。

七河清良も,

「天文を見ても,我が君にとって東,すなわち,浅宮家は凶であり,
北,すなわち香耶家が吉と出ております。」

と,信暁の意見を推した。

聖太子主従は,香耶家への亡命を選択した。

蒲生聖君は,太子を攻撃したが,
ついに太子を捕らえることはできなかった。

太子は,度々,周囲や妹 嘉子を気遣い,また,

「私が幼く,力無いために皆にこのように苦労をかけている。

必ずやいつの日にか皆に報いることができる者になろうと思う。」

と話した。

太子は,この頃から少しずつ,言葉数が増え,
師である後藤信暁に質問することも多くなっていったといい,
信暁は,

「我が君は,前の神聖様がご期待された以上の方かもしれない。」

と考えるようになる。

香耶家当主 義治は,自ら領国の境まで出て,聖太子主従を出迎えてくれた。


初陣

百二十九世の後継の総攬には,後藤信暁の予測通り,浅宮政臣が選出された。

政臣は,保守派と連携して政権を構築し,開明派は,政権から外れることとなる。

保守派も政臣率いる中間派も,互いに連携しなくては,
元老院で多数派となることはできない。

とはいえ,開明派が神聖派と香耶派に分裂している以上,
中間派は保守派と組んで政権を維持するより他はない。

政臣は,百二十九世時代の改革の成果を何とか維持しようとしたが,
保守派の意向を全く無視することは難しかった。

結局,いくつかの反動的な政策が実行される。

一つは選挙区の再改変であった。

百二十九世時代,人口に応じて数度に渡って再編された選挙区は,
保守派に有利な状態に改変された。

また,百二十九世が民間の人材確保を目指し開始した任官試験も,
登用枠が縮小される。

保守諸侯は,国軍の解体をも企図した。

国軍が元々,開明派諸侯の軍を編成して創設された,
保守諸侯の意のままにならない存在だったからである。

国軍を解体して,各諸侯の私兵に戻し,
国軍による保守諸侯への圧力を消滅させようと考えたのであった。

しかし政臣は,

「国軍を解体すれば,強力な緒土国や綾朝の軍を諸侯それぞれが相手にすることになる。

緒土国は百二十九世にすら悲願を達成させず,綾朝も百二十九世と互角に戦った。

それでも百二十九世は,国軍を率いて緒土国から多くの版図を奪い返し,綾朝の侵入を阻止した。

国軍は,日生中興の原動力である。」

と外敵の脅威と国軍の実力を主張して国軍の解体に難色を示した。

保守諸侯に悪夢が蘇った。

何しろ保守諸侯は,百二十九世時代の国軍に惨敗を喫しているのである。

「百二十九世にすら悲願を達成させなかった緒土国,百二十九世と互角に戦った綾朝」と
政臣に形容された相手に対して,保守諸侯は,恐れを成した。

結局,国軍の解体は沙汰止みとなった。

国軍の中央軍,つまり首都 伯台に駐屯する政府直属軍は,
その上層部が保守諸侯で固められたが,
地方や国境の防衛軍では,引き続き開明派諸侯が影響力を維持した。

ところで勢いを盛り返した緒土国と直接交戦して,日生国国境を守ったのは,
香耶義治であった。

百三十世3年(1531),緒土国は大規模な軍を仕立てて水陸より日生国へ侵攻してきた。

香耶家に亡命して2年,8歳になっていた太子は,

「この国難の折,神聖の子である私が,どうして安穏としていられようか。」

と出陣を望んだ。

福光長和は,

「聖太子は,その存在そのものが何より大事なのです。

御身をお守りになり,神聖家の血を繋いで行かれることが使命なのです。

戦は戦を使命とする者が致します。」

と説得しようとしたが,

太子は,

「長和の言はもっともである。しかしそれでも私の父である前の神聖陛下は,
戦場に身をおかれ,将兵とともに国難を乗り越えられようとされた。

私もそうでありたい。」

と重ねて出陣を望んだ。

太子は,征北将軍である香耶義治の計らいにより,国軍の将軍となり,
後藤信暁や高須義織,沢木基らの補佐を受けながら初陣を迎えることになった。


加冠

太子は,緒土国を追い詰めた前の神聖の子である。

その聖太子の出陣を受けて,日生軍の士気は大いに上がった。

陸上を進む緒土国軍は,主に香耶義治が当たり,これに太子の部将 沢木基も加勢,
水上を南下してくる緒土国軍には,太子自らが当たった。

砲撃,銃撃から,白兵戦に移ると,
太子は先頭を切って敵船に乗り込み,敵勢を薙ぎ払う。

日生国将兵らは,しかし,これを太子の軽挙だとは思わなかった。

聖太子が,日頃,穏やかで,言動も冷静沈着であるだけに,

「慎重な太子殿下が,あのように先頭を切っておいでなのは,
御味方勝利を確信しておられる証拠。」

と考え,いよいよ意気盛んに敵勢に突入した。

太子の突出癖は,後に神聖に即位しても変わることなく終生続き,
自然,彼の近衛は,勇猛果敢な者で固められることになる。

緒土水軍は潰滅的な打撃を受けた。

水陸の連携が不可能となった緒土国軍は,日生国の勢力圏から撤退する。

「ただ一度の戦で,緒土国を沈黙させてしまわれた。」

との香耶義治の言は,多少の誇張はあるが,
少なくとも,以後,数年,緒土国の日生国への本格的な侵攻は本当に沈黙してしまった。

太子は,緒土国との境にある要衝 入島に入り,その防衛と統治に当たる。

無論,太子が成人するまでは,その政策立案・実行を実質的に統括したのは,
後藤信暁であり,太子は,師 信暁の手法を学んでいく。

日生国では,「成人」とみなされるのは,16歳からである。

もちろん,当時は,身分や階層によって,成人とされる年齢に差異があった。

しかし,少なくとも,神聖家や玉爵家では,16歳になってから,加冠を行い,
成人とみなされるようになる。

百三十世11年(1539),太子は加冠し,香耶義治の娘 妙子と婚約した。

「聡明で美しい人である。」

と太子は妙子を気に入り,妙子も太子を慕ったという。

この頃には,信暁は太子に実権を返し,補佐としての立場に移った。

大規模な侵攻こそなかったが,太子の守る入島は国境の要衝であるだけに,
小競り合いはしばしば起こった。

太子は,信暁や義織・基らを率いて度々,出陣して勝利を収めた。

その際,多くの捕虜は,全て助命して解放したといい,太子は緒土国側でも慕われた。

入島の統治でも,仁政をしき,
戦災で親を亡くした子供・子を亡くし身寄りを失った老人・夫を亡くした妻など,
困窮した者を保護して,民心は大いに安定した。

日生国内でも特に開明派内において,太子に期待する声は,高くなっていく。


神聖家の混乱

前神聖の妃である琴子は,蒲生聖君の神聖位を認めず,幽閉されたまま,
百三十世7年(1535),帰らぬ人となる。

母の徂落を知った太子は,

「私は,まだ何も孝を成しておらぬ」

と大いに嘆き悲しんだという。

琴子がいなくなったことで,
蒲生聖君の神聖位を否定する中心人物はいなくなった。

ところが,成長した聖太子が今度は,蒲生聖君の神聖位を否定する中心人物になりつつあった。

入島神聖は生前,聖太子を「聖祖の風あり」と評して期待をかけていた。
実際に亡命先の香耶家で太子は,輿望を高めている。

「聖太子殿下こそ,前の神聖陛下の後を承けるべきお方だった。」

という声が神聖家領内でも表れはじめた。

蒲生聖君は,入島神聖の色と聖太子への期待が強い桜阜の地を嫌い,世羅に神聖家の本拠を戻した。

その上,太子に対する輿望の高まりを嫌った蒲生聖君は,太子に数度,刺客を放っている。

しかし,刺客は,火撫党に阻止されて,いずれも目的を達することはできなかった。

蒲生聖君は,元老院中間派や開明派香耶派と友好を築くことができず,
日生国の国政の場で神聖家は孤立することになった。

このことは,神聖家内における蒲生聖君の求心力にも影を落とす。

百三十世8年(1536),蒲生聖君は,伊吹経運を粛清した。

事件は,蒲生聖君が自身の子 統慈(むねちか)聖君を聖太子に立てようとしたことに始まる。

経運は,入島神聖徂落の際,太子が幼かったため太子成人までの間,
蒲生聖君が神聖として神聖家の安泰を図るべきだと考えて,蒲生聖君に力を貸した。

ところが,蒲生聖君は,太子を追放し,その母 琴子を幽閉した。

あまつさえ,今度は,蒲生聖君は自身の子を次代の神聖とするつもりである。

たまりかねた経運は,

「私が内にて挙兵し,聖太子殿下の軍をお迎えいたします。」

としたためた書状を聖太子に奉ろうとした。

内外から蒲生聖君を挟撃するつもりであったのである。

ところが,経運の書状が聖太子に届くことはなかった。

経運から聖太子の元へと遣わされた使者は,蒲生聖君側に捕らえられてしまったのである。

蒲生聖君は,すぐに経運を攻め滅ぼした。

翌百三十世9年(1537),蒲生聖君は,伊吹経運と共謀していたとして,
筒井忠幸という人物を誅殺する。

このとき,蒲生聖君は,忠幸の美貌の妻を側室にした。

神聖家の若い臣 飛良遊暁(ひら・ゆきあき)は,

「忠幸の妻を奪うために忠幸を誅したのではないかと,世に疑われるもとになります。」

と,諌言したが,蒲生聖君は聞き入れなかった。

遊暁は,蒲生聖君に失望し,やがて出奔して太子に仕えるようになる。

百三十世11年(1539),太子が加冠した頃,蒲生聖君は病床の身となった。


帰還

病が篤くなった蒲生聖君は,
自身の子 統慈聖君に忠誠を誓うよう,重ねて側近らに遺言した。

経運の乱の後も,蒲生聖君父子に対する不穏な動きは静まらず,
遊暁のように太子のもとへ出奔する臣も多くあった。

蒲生聖君が身罷ると,太子の臣らは,
太子に神聖家への帰還と神聖への即位をすすめた。

しかし,太子は,

「叔父上(蒲生聖君)は,幼弱であった私に替わって神聖家を保たれた。

従兄殿(統慈聖君)が,また神聖家を保つのであれば,それが良い。」

と述べて,神聖即位に消極的であった。

ところがその統慈聖君は,蒲生聖君が亡くなった折,

「私は,どうなるのだ。神聖になれるのか。

父が明慈を討ち損じたばかりに要らぬ苦労をしなくてはならない。」

と太子の諱を呼び捨てにして周囲に苛立ちを漏らした。

「父の徂落を悼まず,国の将来に思いを致すこともせず,
ただただ己一人のことしか考えられないとは。」

神聖家の多くの臣が統慈聖君に失望した。

ついに神聖家の諸臣は,連名で太子に帰還と神聖への即位を請願し,
これを受けて太子も,

「天命であろう。」

と,帰還と神聖即位を決断した。

浅宮政臣も動き始めた。

政臣は,開明派が分裂したため,開明派と中間派の連合政権を諦め,
保守派と連合せざるを得なかった。

そのため,百二十九世時代に行われた改革の多くが後退を余儀なくされた。

香耶家に庇護されている太子が神聖となれば,神聖家と香耶家の対立は終わり,
開明派は統一される。

そうなれば,再び開明派と中間派で連合し,
百二十九世時代の制度を復活させることができる。

政臣は,台頭する周辺諸国に対抗できる態勢を作り日生国を存続させるためには,
百二十九世時代の改革の成果が必要であると考えていた。

政臣は太子に,神聖家への帰還を助力する旨,密かに申し出た。

保守派は政臣の企図を察知して,中間派諸侯を切り崩しにかかる。

政臣は,開明派に由来する国軍の力を背景に保守派を抑えこんだ。

太子は,苦楽を共にした諸臣・将兵らとともに神聖家への帰還を開始する。

香耶家,浅宮家もそれぞれ兵を出して太子を後押しした。

神聖家領の各地で,太子は歓呼で迎えられる。

諸臣がこぞって太子に,従った。

そうした折,太子に訃報が届いた。

婚約していた妙子の薨去である。

史書は,「薨去」と記し,妙子を聖太子の妃として扱っている。

太子は,慟哭して妙子を悼んだという。

太子は,しかし気を奮い立たせて,桜阜への帰還を目指す。

母の徂落の際もそうであったが,太子は,素直に感情を発露する性質であるが,
その感情に固執することはなく,状況を見失ったり,判断を鈍らせるということはない人であった。


神聖即位

統慈聖君の軍は,太子の軍の行く手を阻もうと,水無瀬という地に布陣した。

とはいえ,統慈聖君を支持する者は少なく,
わずかに兵3千強。

太子は,本隊だけで1万を数える兵を有しており,
香耶家や浅宮家の軍の加勢もあり総勢3万弱にふくれあがっていた。

鎧袖一触,統慈聖君の軍は霧散した。

太子は,10年ぶりに桜阜に帰還を果たし,
ようやく父母を祀る陵墓に詣でることができた。

依然として統慈聖君は,側近と僅かな兵とともに世羅に籠っていた。

統慈聖君の陣営は動揺していた。

統慈聖君の側近の一人,小林禎房(こばやし・さだふさ)は,
統慈聖君の身柄を太子に差し出して恩賞に与ろうとした。

この計画は,事前に露見し,統慈聖君は禎房を処刑した。

側近に背かれたことで,統慈聖君は,疑心暗鬼となる。

太子に神聖への即位を請願した小倉恵久(おぐら・よしなが)が
統慈聖君の側近の一人,小倉資久(おぐら・もとなが)の兄であったため,
統慈聖君は,猜疑心から資久を,誅殺してしまう。

これは,統慈聖君にとって致命的であった。

世羅から,逃亡する将兵が相次ぐ。

太子が世羅を包囲すると,
統慈聖君は,世羅近郊の占野(しめの)で自害してしまった。

統慈聖君の一族もこれに殉じた。

ここに至って統慈聖君の側近らは,太子に降伏し,世羅を明け渡した。

この時,統慈聖君の側近の一人であった
川瀬直綱(かわせ・すぐつな)は,太子に対して

「あなたは,徳と知とによって推戴されるべき神聖に,武力で即くのだ。」

と直言した。

太子は,

「諸臣の推戴を受けたとはいえ,このたび武力を用いたことは,
私が生涯,また代々,背負わなくてはならない業である。」

と語った。

太子は,神聖に即位し,後に美城神聖(びじょうのしんせい)と称されることになる。

美城神聖は,即位後,改めて父母の陵墓に詣でた。


戦後処理

蒲生聖君父子の重臣の多くは改易や減封に処される。

収公した所領は,功臣への恩賞に充てられたが,一部,
神聖家の御料地ともなり,神聖家の領内における力は,増大した。

美城神聖は,蒲生聖君時代に,理不尽に処罰されたり,
所領を奪われたりした者を復権させ,
故なく処刑され,家を取り潰された者についても名誉を回復して,
その家を再興させた。

もちろん,亡命時代から美城神聖に従った者は,最も手厚く恩賞を受けている。

蒲生聖君父子に仕えた者でも
美城神聖の即位の請願に加わった者は,所領を安堵された。

また,蒲生聖君に親しい者でも,
誠実に蒲生聖君父子に仕えて忠言・諫言を行った者などは,

「神聖家を保つのに大いに功績のあった者である。」

として,その忠勤を顕彰し,失脚させなかった。

さらに,蒲生聖君も,正統な神聖として扱われた。

さて,蒲生聖君は,入島聖君の弟で蒲生聖君家の出身である。

聖君家とは,神聖家の直系が絶えた時に備えて立てられる
神聖の一族を当主とする家である。

従って神聖位継承権を持つのは,神聖家と聖君家の人間に限られる。

蒲生聖君は,長男 統慈を後継者とする一方,
三男 順慈(よりちか)に蒲生聖君家を継承させていた。

順慈は,統慈の自害に殉じたが,その子の内,許子(もとこ)が生き延びていた。

美城神聖は,

「祭祀が絶えるのは良くない。」

として許子を助命した。

許子は,臣籍に下されて神聖位継承権を喪失したものの,
祭祀を引き継ぐために,「蒲生」の姓を名乗ることを許され,
父の遺領もほんの僅かであったが継ぐことができた。

許子が受け継いだ所領以外の蒲生家の旧領は,大半が神聖家の御料地となった。


選出

美城神聖は,加冠の際,香耶義治から香耶家の所領の一部を借り,
その地の選挙区において元老院議員として選出されていた。

しかし,今回,桜阜に帰還したことで,香耶家に借りていた所領を返還し,
改めて,桜阜選出の元老院議員となっている。

政臣は,保守派を政権から排除し,神聖家や香耶家・平民派と組んで,
政権を構築したが,

「この際,政権の顔を変えた方が,政府への輿望が高まる。」

と考えていた。

しかし政臣から内々に総攬への就任を打診された美城神聖は,

「私は,今年,加冠したばかりで未だ世に徳も施していません。
総攬にふさわしくありません。

経験豊富な浅宮玉爵が総攬をお続けになる方が良いでしょう。」

と固辞した。

政臣は,なおも美城神聖に総攬就任を打診するが,神聖は,

「浅宮玉爵がどうしても総攬をお辞めになるというのであれば,
後継の事を考えなくてはならないでしょうが,それでも,
その後継にふさわしいのは私ではないでしょう。

香耶玉爵の方がふさわしいかと思います。」

と述べて,やはり固辞した。

政臣は自ら,美城神聖のもとを訪ねて,総攬選への立候補を勧めた。

ところが,神聖は,総攬選の段取りについて切り出そうとした政臣に,

「私の考えは,既に話した通りです。」

と言うばかりであった。

沢木基は,

「浅宮様と香耶様,いずれもその勢力は同等。互いに牽制しあうことになり,
どちらが総攬となっても,新しい政府をまとめることはできないでしょう。

我が君が立たれるより他に,すべはないと存じます。

我が君は,どのような思し召しでありましょうか。」

と神聖に真意を尋ねた。

美城神聖は,

「天地人が揃えば決断するだろう。」

とのみ,口にした。

さて政臣は,香耶義治や平民派の領袖 本間周子(ほんま・ちかこ)を始めとした
元老院議員を巻き込んで,美城神聖を総攬選に出馬させるべく運動し始めた。

この動きは,元老院内のみならず,広く世に広がった。

ここに至り,美城神聖は,

「天地人が揃った」

として,総攬選挙への立候補を決意する。

百三十世12年(1540),美城神聖は,政臣の総攬辞職に伴う総攬選で,
第百三十一世総攬に選出された。


新政権

新政権は,
議政に浅宮政臣・香耶義治・本間周子が就き,
百二十九世時代がそうだったように,各派の均衡が図られた。

そして,これも百二十九世時代同様,政策を実行する各省により近い参議の地位には,
後藤信暁のような神聖の側近,千楽真季・徳永敦子ら聖君家の人物を配した。

新政権は,百三十世時代に保守派の巻き返しで後退していた改革を,
再度,推し進め始める。

選挙区は,人口に基づいた区割りとなり,また,
任官試験の登用枠も拡大された。

さらに,美城神聖が入島にいた頃に行っていた,
戦災などによる困窮者の保護政策も,百三十一世2年(1541)には,
「広仁法」として法制化され,全土に広げられた。

神聖家と浅宮家の結びつきを強めるため,縁組の話も上がっていた。

中でも后のいない神聖に浅宮政臣の娘を嫁がせようという案は,
美城神聖が即位する前,桜阜に帰還した直後に出てきた。

しかし,この年百三十世11年(1539)は,
浅宮家の領国がある中国地方の東部で瘧(おこり)と呼ばれる病が流行した年である。

現在で言うところのマラリアである。

前近代,常盤南部から中部にかけては,土着のマラリアが存在していた。

政臣は神聖の帰還を後押しするために,領国にいなかったため,罹患を免れたが,
政臣の娘を含め政臣の子らは一斉に,瘧に見まわれ逝去してしまった。

結局,神聖家と浅宮家の縁組は政略結婚ではなく,養子縁組によって行われた。

それも神聖家側の人間が浅宮家に入る形であった。

百三十一世3年(1542),千楽真季の次男,恵季(よしすえ)は,
浅宮政臣の嗣子とされ,高臣と改名している。

さて,当の美城神聖の婚姻問題と後継者問題は,依然として残ったが,
神聖は,自身の婚姻に関してあまり積極的ではなかった。

美城神聖は,即位後,

「二度と神聖位が武力で争われることがないよう,厳然たる制が必要である。」

と神聖位継承権の法制化を指示した。

その結果,神聖との血の繋がりの近さ,
男子優先を基準とした継承順位の制度化が行われる。

聖君家はこの時,神聖と血の繋がりの近い順に,
千楽家・徳永家・姫路家・松本家・岡崎家・広瀬家・桜井家であった。

神聖家には,現在,美城神聖の他に男子がおらず,
そのため,美城神聖の従叔父にあたる千楽真季が継承順第1位,その嫡子 元季が第2位とされ,
続いて神聖の妹 嘉子が第3位,以下,
徳永家の当主 泰久,その弟 宏久,姫路家当主 嘉景と各聖君家の聖君が続く。

美城神聖は,いまだ,亡くなった香耶家の妙子のことを強く想っており,
この頃は,自身の結婚に乗り気でなかったとも言われている。

そのために,神聖位継承順の制度化・厳格化によって,
自身の婚姻問題・後継者問題を曖昧にしてしまおうとしたのではないかと考える者もあった。

自身の婚姻相手の実家が政治的影響力の拡大を図りかねないことを考えて,
慎重を期していたのではないかとする見方もある。

いずれにせよ,神聖に最も血の近い男系男子が5親等も離れた真季であることから,
神聖の婚姻問題・後継者問題は依然としてくすぶり続けた。


湯朝の崩壊

美城神聖が総攬に就任した年,その側近の一人,七河清良は,

「今年,湯朝に特に大きな凶兆がみられます。

間もなく大人物がなくなり,それを皮切りに湯朝に大事が生じましょう。」

と言っていたが,まさにこの年百三十一世元年(1540),
湯朝の左大臣 山奈頼康が,31歳という若さで薨去する。

神聖は,

「これは,確かに大事の起こる素である。

山奈殿の他に今,湯朝をまとめられる人物が有るであろうか。」

と頼康薨去の影響を懸念した。

百二十九世時代以来,日生国と湯朝は,同盟関係にあり,
互いに後背地の安全を保って,日生国は緒土国と対決し,湯朝は綾朝と対決してきた。

湯朝の全盛期を現出したとも言える山奈広康が薨じた後,
その嫡男 頼康は,広康の事業を引き継いで,
湯朝内の各派閥の統合を維持し,享福王を補佐していた。

ところが,頼康が薨去したことで,美城神聖が懸念した通り,湯朝内の派閥の統合は崩壊し,
権力闘争が激化するようになる。

湯朝で新たに政権を担った小島長友は,かつては,山奈派と連携し,
広康や頼康による綾朝攻撃にも参加し功績を挙げたが,
ここへきて,山奈派を冷遇し,湯朝累代の譜代を重用した。

小島長友は,享福王の14年・日生国の百三十一世4年(1543),綾朝攻撃を敢行するが,
中泊の戦いで大敗を喫して,敗死してしまった。

綾朝は,反攻を開始して川手を奪還し久香崎に進出する。

日生国へは,湯朝からの救援要請が入った。

また湯朝軍は,戦死した小島長友の後任として,
新田明幸が指揮を採ったが,まとまりに欠けた。

湯朝側の久崎安高が綾朝軍の機先を制しようと紗摩川渡河作戦を敢行したが,
綾朝軍に看破されて潰滅,これをきっかけに湯朝軍は総崩れとなる。

湯朝軍にいた天堂兄弟は,いち早く戦場を離脱して,湯朝軍の崩壊に拍車をかけた。

綾朝は久香崎を占領し,湯朝の副都 志賀に殺到,間もなく志賀は開城した。

湯朝の正式な国号は志賀国であり,建国当初は,志賀が都であった。

湯朝は,国号の由来の地を失ったのである。


湯朝の滅亡

百三十一世5年(1544),綾朝は湯朝の都 湯来の包囲に入る。

美城神聖は,既に首都 伯台から国軍を率いて湯朝の救援に向かっていたが,
湯朝の崩壊は余りにも急速であった。

神聖は岐閣で,享福王が綾朝に降伏し湯朝が滅亡したことを聞かされた。

とはいえ,湯朝は一枚岩ではなく,享福王の降伏を良しとしない者も多かった。

その代表が山奈派であり,その実質的な領袖である杉山頼友は,
王族の朝経を新たに国王に奉じて,綾朝への抵抗を継続した。

山奈派を軸とする湯朝残党は,それまでの湯朝と区別して,
特に後湯朝と称されることが多い。

後湯朝は,西端の芳野・大江地方に拠って湯朝再興を目指すとともに,
日生国へ救援を要請する。

日生国では,後湯朝救援の是非を巡って議論が起こったが,

後藤信暁は,

「我軍の救援が無ければ,後湯朝は,早晩,綾朝に呑み込まれ,
芳野・大江には,綾朝の軍が入ります。

我が国の副都とも言える岐閣が,直接,綾朝の脅威にさらされることになります。

建国以来,とめどなく勢力を拡大し続ける綾朝が,
我が国を狙わないとどうして言えるでしょうか。

今,後湯朝を救援して,芳野・大江を確保するならば,
我が国は,地の利を得,綾朝との戦いを有利に進めることができます。」

と主張した。

美城神聖は,

「もっともなことである。

信暁の言うとおり,綾朝は,次は我が国に野心を持つであろう。

後湯朝を見捨てるなら,当面は,我が国に戦火は及ばずに済むかもしれないが,
やがて,もっと大きな脅威がやってくることになる。

日生人(ひなせびと)を守るには,今,戦わねばならない。

しかも,山奈派とは父の代からの縁がある。

義の上からも見捨てることはできない。

見捨てるなら,我が国は諸国からの信を失うであろう。」

として,後湯朝救援を決定した。

父の代からの山奈派との縁――

入島神聖と湯朝の山奈広康が推し進め,成立させた日生・湯朝の同盟以来の縁である。

この縁を生かして美城神聖は,即位時から,山奈派との間の連携を深めていた。

そうした背景から日生国と後湯朝の連携は速やかに成立し,
日生軍は,後湯朝の要請を受けて,芳野湖周辺地域を確保することに成功したのであった。


芳野会戦

百三十一世6年(1545),綾朝は,芳野口,上平口,綾瀬口の三路から日生国へ侵攻を開始し,
緒土国軍もこれに呼応して,入島口・姫島へと水陸から侵攻してきた。

入島口は,香耶義治・秀治父子が陸兵を率い,
浅宮高臣・御月高任(みつき・たかとう)が水軍を率いて緒土国軍に当たり,
綾瀬口では世礼健(せれい・たける)が,綾朝の将となった天堂兄弟と対峙,
上平口では,飛良遊暁・奈瀬能平(なせ・よしひら)が,
綾朝の十和智文・西井和孝・泉晴重ら猛将を迎え撃つ。

神聖自らは,芳野湖の要衝 芳野湊にあって指揮を採った。

神聖は,

「綾朝は,負けん気の強い春成皇子に率いられている。

まず,湖上でこちらに挑んでくるであろう。」

と予測した。

綾朝陣営では,早智伯が総大将である春成皇子に,

「芳野の守りは固く,日生の水軍は強力で,
湖上からの正面突破は難しいでしょう。

湯来朝経の拠る上原を陥すべきでしょう。」

と進言した。

春成皇子はしかし,

「それでは,我が軍が日生軍を恐れていると天下に受け取られる。」

と,神聖の予測通りにあくまでも正面突破を目指した。

芳野湖畔の水戦で,美城神聖は火砲を積んだ船を投入し,綾朝水軍を圧倒する。

神聖は,

「綾朝は,方針を変えるであろう。ここが正念場となる。」

と苦戦を予期した。

春成皇子は,早智伯の進言を採用し上原方面へ軍を派遣する。

日生軍からは,高須義織・沢木基・鷹城章澄(たかぎ・あきずみ)が,
上原の湯朝残党軍に加勢していた。

沢木基・高須義織らは,

「上原は湿地に守られています。綾朝軍を引き込んで戦うべきでしょう。」

と進言した。

ところが湯来朝経は,

「綾朝には,元々我が王国の臣であった者も多い。

そうした者は,私が陣頭に立って打って出れば,少なからず混乱するであろう。」

と,日生軍とともに上原を出て,鳥越という地で綾朝軍を迎え撃つ。

さて,事態は,朝経が考えたようには進まなかった。

綾朝軍内の旧湯朝系の将兵は,陣頭に朝経を見つけてもさしたる動揺は示さなかった。

後湯朝軍・日生軍は,良く戦ったが,次第に綾朝軍に押し返され始める。

日生軍は,危機に陥った朝経を見殺しにすることはできず,
劣勢ながら踏みとどまり戦場から朝経を脱出させた。

しかし,激戦の中,鷹城章澄は壮絶な戦死を遂げる。

また,芳野川から鳥越の日生・後湯朝軍の救援に向かっていた高須義織も
深手を負い,程なく卒去した。

若き勇将 鷹城章澄の戦死,幼少期から自分を支えてくれた義織の卒去を神聖は大いに悼んだ。

鳥越の戦いの後遺症は深く,上原の維持は困難になった。

日生軍・後湯朝軍は,上原を引き払い,
芳野地方に隣接する大江地方へ退く。

大江地方は,芳野の南にあり,芳野湖と山門川と岩座(いわくら)山脈に挟まれた地で,
岩座山脈に沿って北上すれば,芳野の背後に出ることができ,
また岩座山脈の険しい峡谷は,日生国側の岐閣につながる。

日生国にとって失うわけにはいかない要地であった。

日生・後湯朝連合軍は堅守の姿勢を貫き,綾朝軍と山門川を挾んで,長期に対峙する。

綾朝との対峙

さて,入島口では香耶義治・秀治親子が,緒土軍に対して堅守の構えを採った。

入島には,最新の国産鋳造砲が備えられており,その砲撃は緒土軍を混乱の渦に叩き落とした。

香耶秀治は,打って出て緒土軍に攻撃を仕掛けるが,その軍の騎兵は,新しい装備を身につけていた。

馬上筒である。馬上筒は騎兵銃の一種である。

機動力と射程距離を有する騎兵の新しい形の攻撃に,緒土軍は対処できず,潰乱した。

そこへ,日生軍歩兵が突入してくる。

緒土軍は総崩れとなった。

海上では,浅宮高臣・御月高任率いる日生水軍は,三山光繁率いる緒土水軍の南下を阻む。

緒土水軍はこのころ,ペルトナ製の鋳造砲を導入していた。

しかし日生水軍は,その性能と数を上回る国産砲を装備しており,
ここでも緒土軍を圧倒した。

緒土軍の日生国侵入の試みは完全に挫かれた。

上平口では,飛良遊暁・奈瀬能平・栗栖泰治が十和智文率いる綾朝軍を引き受けていた。

能平は,国境の要衝 上平の郊外に野戦築城を行い,
綾朝軍の南下を防ごうとした。

綾朝軍先鋒の片瀬幸宣が抜け駆けして日生側の奈瀬隊に銃撃を仕掛け,
激戦の火蓋が切られる。

奈瀬能平は受けて立ち,激しい反撃で,片瀬隊を圧倒した。

奈瀬勢はそのまま片瀬勢に突入,奮戦する片瀬幸宣を討ち取る。

片瀬勢は指揮官を失って潰走,奈瀬勢は,片瀬勢を援護に来て突出していた
西井和孝隊・蓮城元国隊に突入する。

好機と見た飛良遊暁は,西井隊・蓮城隊へ側面攻撃を仕掛け,
ついには,西井和孝,蓮城元国を戦死させた。

栗栖泰治は,綾朝の大沢治弘隊と一進一退の攻防を繰り広げていたが,
次第に,大沢隊を押し始める。

片瀬・西井・蓮城各隊を撃破されたことで大沢隊の戦意が低下したのである。

結局,飛良・奈瀬隊と栗栖隊の挟撃を受ける形となった大沢隊も潰滅し,
大沢治弘も戦死を遂げた。

日生軍は,いよいよ綾朝軍の本陣に肉薄し,
綾朝軍の十和智文は,泉晴重・義重父子を殿軍として,撤退を開始するに至る。

十和智文は長岡まで撤退したが,泉晴重・義重父子は戦死した。

十和智文は,惨敗の責任を取って解任されたが,程なく自害している。

綾瀬口では,世礼健が綾朝の将となった天堂兄弟と対峙していた。

しかし,天堂兄弟は,綾朝が各所で日生国を攻めあぐねている状況を知ると,
消極的な戦いしかしなかった。

綾瀬口での戦いは小康状態となる。

今や戦局は,綾朝に取って厳しいものとなった。

しかし,美城神聖は,

「綾朝の国力は我が国をやや上回っている。

また今回の役では,こちらも賢人・名将を失った。

我が国にとって状況はまだ非常に厳しい。」

と,分析した。

神聖は,軍事的に綾朝と対峙しながら,
水面下ではすでに綾朝包囲網を着々と構築し始めていた。


決戦

綾朝草創期,早智秋は,元光帝に名和平原への進出を勧め,
いわゆる北方の諸豪との連携を成立させ,後背地の安全を確保した。

しかし,北方の諸豪や,かつては,元光帝やその父祖より優位に立っていた船岡南家は,
必ずしも綾朝に心服していなかった。

さらに,重光氏などは,当初より綾朝に敵対し続けていた。

美城神聖は,これら亜北地方の諸勢力を扇動・支援して綾朝に離反させる。

綾朝側の総大将,春成皇子は,皇太子 輝成皇子に取って替わる腹積もりがあり,
湯朝戦で短期決戦を成功させたことに気を良くし,
対日生国戦でも成果を挙げることに強くこだわった。

春成の側近 北村行臣は,日生国保守派の扇動を春成に進言する。

ところが同じく春成の側近 早智伯は,北村行臣の策の実効性に疑問を呈した。

しかし,春成は,綾朝に不利になりつつある戦局の打開を焦っており,
行臣の策に飛びつく。

日生国の保守派は,中間派の切り崩しを図って,政権奪還を目指し始めた。

神聖は,

「外に綾朝,内に保守派。まさに内憂外患といえる。

先に抑えるべきは,内であり,内を抑えるまで外には専守防衛に徹せねばなるまい。」

と,保守派を抑止するために前線の戦力を移動し始める。

この動きが,綾朝側に伝わると春成皇子は気を良くして,
山門川の戦線で総攻撃を指示した。

早智伯は,

「私には,日生国内で変事が生じているようには思えません。

日生軍の戦力移動は,日生側の誘導です。

日生軍は,我軍の総攻撃に充分に備えていると思われます。

死地に飛び込むことになります。」

と,慌てて春成皇子を止めようとした。

春成皇子は,智伯の言葉に耳を貸さなかった。

綾朝軍は総攻撃を開始する。

容易く綾朝軍が山門川の渡河に成功したかに見えた。

しかし,それはまさしく早智伯が予測した通り,死地へ綾朝軍を誘い込む日生側の策であった。

神聖は,綾朝の北村行臣による策を逆手に取ったのである。

神聖が,保守派抑制のため前線から移動させたかに見えた日生軍は,
実は,密かに前線に戻り,山門河畔で息を殺して綾朝軍を待ち受けていた。

綾朝軍は,川を背にすることになった上,
突如,想定していない方向から日生軍の部隊の攻撃を被ることになったのである。

綾朝軍は山門川に追い落とされ,川は朱に染まった。

里見泰友,瀬野幸就,早明広ら譜代の勇将らが,壮絶な討死を遂げる。

綾朝は決定的な敗北を喫した。

綾朝内では,皇太子が唱える日生国との講和論が急速に台頭する。


日綾連合

百三十一世7年(1546),日生国と綾朝の講和が成立した。

大江・芳野は,湯来朝経を国王とする湯朝の領土とされ,
湯朝は,実質的には,日生国の傘下に入った。

必然的に大江・芳野には,日生国軍が駐屯することとなった。

さらに,美城神聖と綾朝の皇太子派は,日生・綾朝の同盟をも模索し始める。

神聖は,

「いずれ再び綾朝と対決する時がくるであろうが,当面は綾朝と親交を深めて対決を避け,
再対決に備えて我が国の力を高める必要がある。」

と考えていた。

一方で綾朝の皇太子派の狙いは,亜北地方の制圧と内海での勢力拡大であった。

内海での勢力拡大は,実は,綾朝の春成皇子派の悲願でもあったが,
その方向性は異なっていた。

春成皇子は,日生国を呑み込んで,内海へ進出しようと考えていたが,
皇太子は,

「強大な日生国を打倒するのは現実的ではない。

それよりも勢力も弱く,反復常ない緒土国を併合して内海に出る方が現実的である。

そのためには,日生国は味方にしておいたほうが良い。」

と考えていた。

山門川での敗戦により,春成皇子は一時的に勢いを弱めており,
皇太子派の影響力が朝廷で強まっていたこともあり,
結局,講和の翌年である百三十一世8年(1547),
日生国と綾朝の同盟が成立することになる。

日生国と綾朝の間では,緒土国分割の取り決めが成された。

久礼を日生国が,それ以外の緒土国の版図を綾朝が占領するというものである。


悲恋

日生・綾朝の連合が成立した頃,
美城神聖には,后に迎えたいと望む女性が現れていた。

中間派に属する侯爵 北原通正の長女 節子である。

美城神聖には,正后も側室もおらず,
そのために,多くの貴族が,少しでも権勢を得ようと,
自家の娘を神聖家に出仕させていた。

節子もその一人であるが,
節子自身に,神聖の目に止まろうとする積極性は見られず,
実直に職務を果たすのみであった。

その姿が却って美城神聖の目に止まったという。

とはいえ,神聖の正后は,聖君家・玉爵家・公爵家の出でなくてはならないという決まりになっていた。

「側室でも良いのでは」

という周囲に対し,美城神聖は強く,

「節子を正后として迎えたい。」

との意向を示した。

しかし,慣習はどうすることも出来ず,節子は,
浅宮政臣の養女として,百三十一世9年(1548),
神聖の側室として迎えられる。

程なく節子は,美城神聖の子を懐妊した。

しかし,その子がこの世に生を受けることは無かった。

神聖は,生まれ出ることの無かった我が子を悼むとともに,
節子をいたわった。

神聖と節子の夫婦仲は良かったが,
美城神聖率いる開明派と節子の義父 浅宮政臣の対立が,次第に深まってゆく。

神聖家内では,節子との離縁を美城神聖に勧める声が高まったが,
神聖は,離縁を拒んだ。

節子の実父 北原通正は,浅宮政臣率いる中間派に属しており,
政臣に対する遠慮から,神聖と節子の離縁を望むようになっていた。

結局,節子は北原通正に呼び戻され,二度と美城神聖の元へ戻れなくなった。

百三十一世12年(1551),美城神聖と節子は離縁したのである。


世界

花宮神聖の代より,日生国には,西洋諸国が続々と来航していた。

百三十一世10年(1549)には,新たに,リーフランドの使節 エルドレッド・カーティスが
日生国に来航し,通商を求めた。

当時,リーフランドは,イストラから実質的に独立し,南洋・東洋へ進出して,
覇権を確立しつつあった。

美城神聖は,通商を許可し,綾瀬にリーフランドの商館が開設された。

また,百三十一世11年(1550)には,レーヴェスマルク(旧フリギス)の船が姫島沖で座礁したが,
神聖は,船員を手厚く保護するとともに,彼らの知識・文化にも大いに興味を示した。

美城神聖は,西洋の文物を学ぶための学問所を開設し,
この時の遭難航海士の多くを顧問として雇い入れている。

西洋の学問は,後,洋学と呼ばれ,語学・天文・医学・測量・物理・化学・絵画・音楽など,
極めて多岐にわたる分野で発展していく。

しかし,西洋諸国との通交は,摩擦をも生み出していく。

イストラは,レーヴェスマルクに敗れ,リーフランドの独立を許し衰退を始めていたが,
依然として,南洋に植民地を持っており,常盤への侵攻を目論んでいた。

ペルトナも,南洋で勢力を維持し続けて,やはり,常盤の地に野心を持っていたとされる。

常盤人が,南洋へ進出し盛んに交易を開始すると,
その活動は,南洋で覇権を確立しつつあったリーフランドと
衝突する可能性をはらみ始めるようになった。

リーフランド商館長であるエルドレッド・カーティスは,
リーフランドが,常盤諸国との交易で独占的な利益を得られるように,
対外情勢について偏った知識を日生国首脳部に伝えたともいわれる。

美城神聖は,

「いずれの国も自らを第一とするのは自明のことである。

様々な消息を勘案しなくては,世界の有り様を見誤る。」

と,各所から得られる情報の冷静な分析と判断を心がけるとともに,
その目は世界を見据えていたのであった。