旧都奪還戦

百三十一世12年(1551),綾朝との連合が成立し後顧の憂いがなくなった日生国は,
ついに旧都奪還の征旅を興す。

入島神聖が,旧都奪還の遠征中に徂落してから22年,
美城神聖は水陸8万の軍を動員して旧都 久礼の包囲に入った。

綾朝も,これに先立つ建文帝の39年(1549)には,
南氏や重光氏を降して,亜北での仕置を終えており,
日生国の動きに呼応するように,緒土国へと侵攻した。

両大国の侵攻を受けた緒土国は,内海対岸の安達政権に救援を求めた。

安達政権は既に畿内を失い,その勢力に翳りが見え始めていたが,
未だに常盤の最大勢力であって,その軍備も精強さを保ち,
内海でも洋式の火砲を搭載した艦隊を編成して勢威を示していた。

この頃の安達政権は,一条氏が制した西国から急速に興味を失い,
久方ぶりに亜州へ食指を伸ばそうとしていたから,
豊富な資金力にものを言わせて巨費を投じ,海上戦力の増強に励んでいた。

無論,政治・軍事への関心を失くしていた正治は,
柿木玄修ら側近の政策をそのままに実行させていたとも言える。

安達政権は,緒土国からの救援要請を亜州進出への好機ととらえて,
日生国占領を企図した。

美城神聖は,

「こちらは,安達方への備えが充分でない。

安達方が時を置かず桃生辺りへ上陸を狙ってくれば,
こちらは背後を取られる上,対処が後手にまわり,
上陸の目論見を成就させてしまうだろう。

短期決戦は避け,持久戦に持ち込むべきである。」

との見解を示した。

しかし,これは神聖の本心ではなく,安達方の間諜を意識した発言である。

神聖は戦力配置の偽装も行い,また久礼半島近海の島嶼部や沿岸部の防備強化を始めた。

安達方でも,海将 早良明良・姉島重業などは,自身の経験から
段階を踏んで確実に亜州側へ上陸するべきであると主張した。

つまり,まず,日生側の拠点を防衛する水上戦力を打ち破り,
次には,弱体化した拠点を制圧し,その後に,
本格的な上陸・内陸侵攻を進めるべきであるとの主張であった。

しかし,柿木玄修は,早良・姉島らの言を退けた。

玄修の諜報網はことごとくが,
持久戦に持ち込もうとする日生側の情報をもたらすのみであったから,
玄修は,短期決戦に思いを定めてしまっていたのである。

旧都恢復

安達軍は,巨島秋孝(こじま・あきたか)を総大将とし,
福島矩康・忍村国次(おしむら・くにつぐ)らを副将として,
いきなり久礼半島へ上陸を目指す行動を採った。

神聖は,浅宮高臣・御月高任,そして高須義織の子 高須陽視(たかす・はるみ),
さらに,近年,日生国の傘下に入った藤真慶貞らを従えて,
久礼半島の姫島沖で自ら安達水軍を迎撃した。

水上戦の経験は,日生軍が安達水軍を圧倒しており,
新しい兵器といえる艦砲や火縄銃などの扱いについても,日生軍に分があった。

また,安達家に父を殺害されている藤真慶貞は,その主従とともに極めて士気が高かった。

さて,海戦の主流が砲撃戦となる時代ではなかったが,
新兵器の火力は,次第に海戦での比重を大きくしていた。

魚鱗の備えを採る安達水軍は,鶴翼の日生水軍を分断しようしたが,
操船術で劣る安達水軍が日生軍を出し抜くことはできなかった。

日生軍御月艦隊は激しい銃撃を浴びせ,安達方の将 福島矩康を討ち取る。

安達水軍は,日生軍に包囲される形となる。

主君の仇討ちに燃える藤真艦隊は,忍村国次を敗死させ,
巨島秋孝も重傷を負った。

安達水軍は,潰滅した。

安達軍は,日生側の拠点を制圧しながら侵攻してきたわけでもないので,
この一度の敗北で,緒土国救援が困難になってしまう。

久礼は,孤立していた。

綾朝の皇太子率いる軍が殺到する緒土国本領からはもちろん,
安達政権からの救援の可能性もなくなってしまった。

久礼の将 呉岡忠久は,ついに開城した。

美城神聖は,父の代からの悲願である旧都奪還をようやく達成したのである。

美城神聖を讃える声は大きかったが,神聖は,

「父の遺徳の賜物である。私自身の成したことは小さい。」

と述べたという。

さて,緒土国本領では,衆寡敵せず,緒土国王 一久が綾朝に降伏する道を選んだ。

一久は,所領は削減されたものの降伏は赦され,諸侯として存続した。


対立

美城神聖と浅宮政臣の関係は悪化の一途をたどる。

浅宮政臣は,強固な貴族制の下での富国強兵を望んでおり,
一方で,美城神聖は,貴族制の限界を感じて,
台頭する平民派を積極的に巻き込んだ富国強兵を望んでいた。

選挙区改革によって,元老院議員の選挙区は人口に基いた区分となり,
政府直轄領の選挙区数が増大,貴族領の選挙区数は減少する。

政臣は元老院内での平民派台頭を,貴族制を崩壊させるものとして危惧し,
積極的に平民派を政府に登用する神聖に公然と対決姿勢を示した。

政臣は,

「諸侯・士族の政は,賢人の政である。

諸侯・士族は代を重ねて,先賢の知を保っており,
そのために大義と大局によって政を行うことができる。

平民派には,利殖に努めて,一代・二代で勃興した者が多く,
先賢の知を持たず,目先の利にさとい。

その政には大義・大局が欠けている。

衆愚の意見や議論は,賢人一人の無為に劣る。」

とさえ言った。

美城神聖は,

「諸侯・士族が必ずしも賢哲とは言えない。

諸侯・士族は,先賢の知のみならず,旧弊をも保っている。

平民派も必ずしも利殖を事とする者ばかりではない。

旧弊に気づく知恵とそれを改める知恵を持っている。

我が国は旧都をかつて失った。

それは,旧弊により我が国が弱っていたためである。

諸侯・士族にも旧弊を改める志を持つ者も多かったが,
己の利のために旧弊を守る諸侯・士族はそれ以上に多かった。

父は,その徳により諸侯・士族・平民を問わず,賢哲を用いて旧弊を打破し,国を強くした。

そのお陰で今,旧都を恢復することができた。」

と反論した。

後藤信暁は,

「政府の内に様々な意見・議論が有ることは望ましいことですが,
しかし,政府は分裂してはいけません。

浅宮玉爵の態度は,政府を分裂させる危険性を孕んでいます。」

との懸念を示して,浅宮政臣の勢力を除いた形での政権構築を促す。

美城神聖が総攬に就任した頃の元老院は,
開明派貴族3割・中間派貴族2割・保守派貴族3割・平民派2割という構成になっていた。

そのため,開明派率いる美城神聖は,平民派のみの協力では,
元老院で安定した多数派を形成することができず,
中間派の協力を得ることが不可欠であった。

しかし,変化が訪れる。

先述のように平民派が台頭してその数が増加,
中間派貴族の元老院内での議席数は減少した。

また,浅宮家も分裂していた。

神聖が以前,遠縁にあたる高臣を浅宮政臣の養子として送り込んだことをきっかけに,
浅宮家には,高臣を中心とする親神聖家勢力が形成された。

浅宮家でも高臣派は元老院内において,開明派の立場をとるようになる。

元老院内は,
開明派3割5分・中間派1割5分・保守派2割5分・平民派2割5分という構成になっていた。

中間派の元老院内での影響力は低下し,それに伴って浅宮政臣の求心力も弱まる。

百三十一世12年(1551),美城神聖は,政権から中間派を排除する。

開明派と中間派の亀裂は決定的なものとなり,
既に述べたように,美城神聖は中間派貴族の出である后 節子との離縁を余儀なくされた。


婚姻

百三十一世9年(1548),舟形諸島の藤真家が日生国に臣属し,
当主の慶貞が妹 翔子を人質として差し出してきた。

翔子は,数奇な運命を辿ってきた人である。

翔子の誕生は,日生国の百三十一世2年・広奈国の清正12年(1541)のことであるが,
当時,藤真家は,安達家に従っていた。

そうした関係から翔子は,わずか3歳で安達家に人質に出されることになる。

翔子が人質に出された翌年,藤真家に危機が訪れる。

藤真慶政が安達正治に粛清されたのである。

翔子も連座して処刑されるはずであったが,
すんでのところで有間渉遊が翔子を救った。

渉遊は,主君 正治に幻滅して安達家からの出奔と隠遁を決意し,その前に,
安達家から翔子を逃してくれたのであった。

その後,藤真家では,慶政の子 秀政が当主となり,三城正世と連合して,
安達政権に抵抗するようになる。

しかし三城正世は,安達軍を撃退し,広奈国畿内で栄華を誇りながら,
一条智高の策謀のために暗殺されてしまった。

結果,藤真家も三城家とともに一条家によって滅ぼされ,秀政の弟 慶貞が,
かろうじて舟形諸島で勢力を保つ状態となる。

こうした経緯から藤真家は,安達政権にも,一条家にも属し難い状況となった。

慶貞は思案の末,日生国の傘下に入る道を選び,
妹 翔子を人質として,日生国の都 伯台に送り出すことにしたのであった。

さて美城神聖は,生まれて初めて日生国の土を踏んだ翔子を,
人質というよりは,客人のように丁重に扱った。

翔子は,名門 藤真家の人間として,詩文や書画,舞,管弦,立花や茶の湯など,
様々な教養を身につけていたが,好奇心も旺盛で,当時,日生国で盛んとなっていた洋学に,強く興味をもった。

もとより絵画に秀でていた翔子は,長瀬細芳を師として西洋画の技法をも学び,
その技法を従来の常盤の絵画の技法と織り交ぜて,絵画史に新しい流れを興す。

翔子の師 長瀬細芳はレーヴェスマルクの航海士 ラインハルトの妻であり,
ラインハルトから西洋画を学んだ人であった。

神聖は,翔子の絵にいたく感動したといい,
やがて,翔子自身にも強く惹かれていく。

神聖は,

「徳目・知恵において,我が身にはもったいない程の妻が良い。

為政者であるなら,なおさらそれくらいの伴侶を得る器量がいる。

藤真の姫を妻に迎えたい。」

と語ったといい,

これを受けて翔子は,

「身に余る幸いと光栄です。」

と話したという。

ところで,妹 翔子を伯台に送り出した藤真慶貞は,
始め広奈国での侯爵の格をそのまま認められて,
日生国でも侯爵に列せられたが,百三十一世12年(1551)には,
久礼奪還戦の折の安達水軍との戦いでの功績を賞されるとともに,
安達家への牽制の役割をも期待されて公爵とされていた。

藤真家が公爵となっていたことで,翔子はその出自が問題にされることもなかった。

百三十一世18年(1557),美城神聖は,翔子を正妃に迎える。

美城神聖34歳,翔子17歳の時のことであった。


台頭と没落

姫島沖海戦以来,日生国と安達家の溝は一層深まっていく。

日生国は久礼を奪還して内海での勢力を伸長させ,
日生国の諸侯となった藤真家が,北海航路をおさえた。

安達家は,今や内海での覇権を喪失しかかっていたのである。

当時,安達家では,正治が政治・軍事に興味を失い,文事に没頭するようになり,
代わりに柿木玄修が専権を振るっていた。

しかし玄修は,藤真家の征伐に失敗し,
日生国との戦でも成果を挙げられなかった。

玄修は,求心力維持のために,一層,専横を強めたが,
これは足元の反発を招く。

美城神聖は,これに着目し,火撫党を使って反玄修の動きを扇動した。

その結果,玄修の側近であったはずの山森吉直が,玄修を謀殺して,
相国府を制圧して正治を奉戴してしまったのである。

ところが,山森吉直は,玄修に成り代わることが完全にはできなかった。

玄修の三男である玄尋(つねひろ)が吉直打倒の兵を挙げて,
相国府に入り,正治を奪還する。

正治は,双方の停戦を模索するが,
最終的に寵臣であった玄修を討った吉直の討伐を玄尋に命じる。

とはいえ,吉直も勢力を維持して抵抗を続けたため,
安達家中は内乱状態となってしまった。

日生国の百三十一世13年・広奈国の清正23年(1552)のことである。

この乱は,この年の干支から,清正癸丑の乱と呼ばれる。

一年を費やして玄尋は吉直を討滅したが,乱により安達家の勢力は確実に弱まっていた。

百三十一世14年(1553),南海の諸豪は,安達家から離反し,安達家に属する川上家を脅かす。

柿木玄尋は,川上家を支援し安達水軍を南下させるが,
南海衆は,日生国を頼みとして安達家に抵抗した。

日生国が南海地方を中継地として南洋との交易路を開き,
南海衆に中継貿易に拠る富をもたらしていたのである。

美城神聖の方針は,

「常盤には今,我が国と綾朝,各務国と広奈国の一条家,安達家の五強があるが,
一条の力は翳り,安達を弱めることもできた。

今後,一条・安達は一層衰え,常盤は五強から,三分の形勢へと移るであろう。

綾朝・各務国が一条・安達の勢力を呑み込むのを座して待っていては,
我が国が生き残ることはできない。

我が国が,綾朝・各務国に対抗するためには,
少なくとも安達の本領である海西を確保しなくてはならないであろう。

より理想的には,我が国が古代に築いた全盛期の版図を恢復する必要がある。」

というものであった。


海西経略

美城神聖は,久礼奪還戦の折の姫島沖海戦以来,
安達家との対決は,不可避であると考え,
安達家の勢力を削ぐべく策を巡らせ,清正癸丑の変を引き起こさせることに成功した。

さらに神聖は,安達領内の有力者に接触を始めた。

その結果,三沢氏や瑠璃光氏などが,日生国への内応を約束する。

清正癸丑の乱により安達家の威信が失墜していたことも、有力諸氏が安達家を見限る背景となっていた。

また,神聖は,緒方哲彰(おがた・さとあきら)という側近を,
安達方へ埋伏させた。

さらに,一条氏など広奈国西国の諸侯が,安達領へ介入してくることを警戒して,
各務国や新名氏と結び,広奈国西国を牽制する。

神聖は,

「戦そのものが長引けば,国力で劣る当方が不利,調略・計略を尽くして,

干戈を交える前に優位を揺るぎなくしなくてはならない。」

と考えていたのであった。

百三十一世15年(1554),環境を整えた美城神聖は,いよいよ安達領攻略に着手する。

柿木玄尋は,日生水軍の上陸を防ぐために沿岸部の防備強化を図ったが,
何しろ海西地方の海岸線は長い。

玄尋は,諜報の網を巡らせ,日生軍が上陸を狙う可能性の高い場所を探った。

もたらされた情報は,

「日生軍は境付近への上陸を狙っている。」

というものであった。

境は,藤真水軍の本拠 舟形諸島からも比較的近い。

日生軍本隊が藤真水軍と連携を取ろうと思えば,境への上陸は都合が良い。

玄尋は,もたらされた情報は信憑性が高いと考え,境に戦力を集中した。

問題は,境と舟形諸島の中間の沿岸部にある青綾には清正帝がいるということである。

玄尋は,万が一の場合に備え,清正帝に海西から,静鹿地方の越野へ移ってもらうこととした。

さて,日生軍先鋒 御月高任・飛良暁遊・原政人らが向かったのは境ではなく,結島浜(ゆしまはま)という,
安達家本拠 水奈府に近い場所であった。

安達方は完全に,日生側の上陸地点秘匿策に引っかかってしまったのである。

さて藤真水軍は北から,境を目指して侵攻を開始した。

さらに,内応を約束していた三沢氏も境攻撃に加わった。

境の兵力はいよいよ日生側の上陸作戦が始まったと思い込み,この地に釘付けになる。

日生軍本隊は,予想外の攻撃に混乱する結島浜の防衛網を突破し,海西上陸を果たした。


海西平定

海西に上陸した日生軍は,内陸への侵攻を開始した。

わずか3日で,日生軍は安達家本拠 水奈府に迫る。

既に美城神聖も先鋒諸隊につづいて海西へ渡海し,水奈府包囲の本陣にあった。

水奈府は,その日の内に陥落する。

水奈府の内部にいた緒方哲彰が,日生軍を引き入れたのである。

緒方哲彰は,うまく正治・玄尋主従の信頼を勝ち取って,
安達家への埋伏に成功していたのであった。

正治・玄尋主従は,西を指して落ち延びていったが,速水の地に滞在していたところ,
日生軍に内応した瑠璃光誠充(るりこう・まさみつ)によって攻められる。

正治・玄尋主従は,自害して果てた。

安達正治の長男 智治は,蕗屋要(ふきや・かなめ)・南師廉(みなみ・もろかど)・由廉(よしかど)父子・有間久続らとともに,
首内へ逃れて態勢を立て直そうとしたが,瑠璃光誠充がその進路を遮ろうと密かに動く。

この動きを察知した智治主従は,誠充に奇襲攻撃をかけて,父の仇を討ったが,
瑠璃光氏の余党や日生軍の勢力を冷静に分析して,予定通り首内地方へと落ち延びた。

日生軍の海西平定は速やかであった。

香耶秀治・御月高任・桃生由存(ものう・よしなが)は,
松田泰廉・則廉父子を討ち取り,砂岡・伴瀬を7日で攻略。

世礼集・原政人・安城密(あんじょう・ひそか)は,
宇奈月嘉(うなづき・よしみ)・福科智候(ふくしな・ともとき)を降して,
青綾・初瀬を10日で制圧。

また,速水・双見では,聖君家の松本敬古(まつもと・たかふる)・飛良遊暁・鞠谷凌(まりや・しのぐ)が,
秋山政直・政良父子・斎藤友成の抵抗を退けて降伏させ,
鈴見地方に拠る,馬宮朝国・大月家恒は,奈瀬能平・沢木基・栗栖泰治が討滅した。

ところが,神聖の従弟である浅宮高臣が,舞丘・赤音の攻略を果たしながら,
早良明良との赤音湾上での戦いで,銃弾を受け,その傷が元で亡くなってしまう。

塔摩で抵抗を続ける早良明良に対し,
美城神聖は,後藤信暁・皆実速和(みなみ・はやかず)らとともに親征し,降伏させた。

従弟を失って大いに嘆き悲しんだ美城神聖であったが,
早良明良に対し,

「あなたは,稀代の賢将であり,あなたを失うことは,重大な損失である。

既に我が従弟はこの世にいない。

私怨によってあなたに害を加えれば,
従弟とあなたと海内の賢将が一度に二人も失われることになる。」

と,その降伏を認めたという。


広奈国崩壊

越野の清正帝は,日生国討伐の詔勅を下した。

しかし,最も有力な一条氏は,日生国の動きに呼応して広奈国へ侵入した
各務国の藍原将真(あいはら・まさざね)の攻撃を受けており,
身動きが取れない状態であった。

首内・首北の諸侯による日生国への反撃も結束を欠き,散発的となる。

海西上陸から一か月が経つ6月には,日生国は,海西地方の全域をほぼ制圧し終えていた。

元より南海衆が安達政権から離反して日生国に属したことがこの戦役の端緒となったのであるが,
結局,安達政権の滅亡により,南海衆は,その脅威から解放された。

ところで,日生国による海西制圧は,綾朝宮廷を動揺させる。

日生国は,一気に,綾朝の2倍近い勢力となったからである。

綾朝では,日生国と安達家が抗争によって疲弊したところで,
漁夫の利を得ようという考え方が主流となっていたために,
日生国の首州進出に遅れを取ったのであった。

しかし今や,綾朝では,皇太子派も春成皇子派も

「これ以上,日生国や各務国の動きに遅れを取れば,
我が国は永久に海内統一の機会を失いかねない。」

という懸念を共有した。

綾朝軍は,北海から首北沿岸,内陸,南海では海陽地方へ三路に分かれて広奈国版図へ侵攻した。

10月,広奈国では,清正帝が崩御し,幼い太子が践祚する。

乾徳帝である。

綾朝軍の猛攻に,広奈国諸侯の軍は,後退を繰り返した。

乾徳帝は,一条軍に守られながら越野を離れ,広京へ入った。

一条智高は,各務国の藍原将真の攻撃を何とか凌ぐと,そのまま将真と講和して,
さらに娘を将真に嫁がせて政略結婚を行い,同盟を成立させていた。

この同盟により,一条軍は南方からの軍事的脅威を解消して,
乾徳帝のために兵を動かすことができたのである。

乾徳帝を奉じる広奈国諸侯は,一条智高を中心として綾朝への抵抗を継続する。

さて,美城神聖は,

「急に制を改め,日生国譜代の者のみを用いれば,混乱と反発を招く。」

として,降伏した旧安達家臣らを用いて,旧制を継承しながら海西の統治を開始した。

また,この年の戦火の影響を考慮して,海西での租税を減免している。

日生国の統治が穏当なものであったため,さしたる混乱は生じず,海西の民心は安定した。


美城府再建

日生国の都は,引き続き伯台であったが,
神聖は渡海以来,海西にあって赤音を本拠としていた。

かつて,古代瑞穂帝国が衰退し,その圧迫から免れた古代日生国は,
南海から海西・海東へ進出し全盛期を迎える。

そのころの日生国の中心が海東では,久礼であり,海西では,赤音であったが,
いずれも天然の良港であった。

聖祖四十世総攬は,久礼に都し,赤音は副都として政庁をおく。

「世に希なる美しき城なり。」

と世人に讃えられた赤音は,そのまま「美城府(びじょうふ)」と称されることになる。

神聖は,安達政権時代の港を拡張,整備し,
港に近い中平原(なかひらはら)に,美城府を再建した。

赤音は以後,美城と称されることになる。

神聖は,

「いきなり,海東の元老院の制を,海西に敷けば混乱を招くだろう。

将来に元老院の制を海西に及ぼすことを目指して,まずは,海西の有力者の評定の場をつくる。」

として,百三十一世16年(1555),海西の諸侯・諸豪をそのまま議員とする議会を美城に開設した。

海西の諸侯・諸豪とは,もちろん安達家の旧臣であるが,彼らは,
日生国による安達政権の打倒の際,三通りに分かれた。

一つは,最後まで日生国と戦い滅亡した者。

二つは,日生国と戦ったが,最終的に海西から逃亡した者。

三つは,日生国に降伏し,日生国に属するようになった者。

この内,前ニ者,滅亡した諸侯や逃亡した諸侯の所領は,
基本的には政府直轄領となった。

百二十九世の時代以降,戦争は国軍が行い,諸侯・貴族が国軍に参加する場合,
国軍での官職に就任するようになる。

戦勝の際の褒賞は,官職の昇進と俸禄の増加に比重が移され,領地の加増は控えめになっていく。

しかし,領地の移転は,大々的に行われることが多々あった。

特に海西平定に活躍した諸侯は,海東の領地の一部と引き換えにして,
僅かばかりの加増と共に,海西にも領地を有することになった。

神聖家も美城に近い清泉(さやいずみ)など要衝を神聖家領としている。

この頃,綾朝は,8か月に渡る広京包囲の末,乾徳帝を降伏させた。

始元帝以来,16代294年,ついに広奈国は滅亡したのであった。


人事

百三十一世12年(1551)に政権から中間派が排除された際,
三議政から浅宮政臣が外され,代わりにその養嗣子で開明派に属する高臣が後任となった。

その後,香耶義治も,家督を秀治に譲り,議政の地位からも退いた。

議政の地位は,これも秀治が引き継いだ。

美城神聖の総攬就任当初からの議政は,平民派の本間周子のみとなる。

ところが,海西経略の際,浅宮高臣が亡くなったことで,
後任の選定が必要になった。

高臣の子 尚臣はまだ幼く,後任とすることはできなかった。

神聖は,百三十一世17年(1556),香耶秀治を太議政に格上げし,
三議政には,本間周子のほか,自身の側近とも言える高須陽視,
海西の有力者である早良晟(さわら・あきら)を入れた。

早良晟とは,海西経略の際,浅宮高臣に致命傷を負わせた,早良明良のことである。

この人事で,海西のみならず,諸国の遺賢も

「日生の総攬は肉親の仇にすら,要職を任せるのか。」

と感嘆し,日生国へ集まるようになっていくのである。

日生国の統治が海西に浸透していく中,
綾朝は,広奈国残党と各務国の連合と対峙していた。

そして,日生国もその争いに巻き込まれていく。

当時,綾朝は,旧広奈国の版図の内,
湾陰・湾陽・背州と日生国の領土となった海西を除く,
首北・首内・湖庭・海陽を占領していた。

百三十一世18年(1557),各務国の藍原将真と一条家の連合軍は,総勢20万の軍を動員して,
背州・湾陽からは首北へ,湾陰からは首内へ,河首からは湖庭へと侵攻した。

綾朝は,日生国に救援を求める。

日生国では議論が起こった。

綾朝を救援しても,綾朝の拡大を助けるばかりで,日生国に利益がないとして,
綾朝救援に反対する声も上がった。

他方で,綾朝を救援しなければ,綾朝との盟約を無視する形になり,
日生国の信用が落ちることになるとして,形だけでも綾朝を救援するべきであるとする声も多かった。

結局,美城神聖は,

「信義は肝要である。また,綾朝に恩を売るのは,我が国にとっても悪い話ではない。」

として,救援を決定した。


反乱

百三十一世18年(1557),美城神聖は,背州の一条・各務連合軍を牽制するため,
舟形諸島への出陣を準備し始めたが,七河清良は,

「天文を見るに,我が国内に重大な反逆の動きがあります。」

と神聖に警告した。

程なく,火撫党から,

「浅宮政臣に不穏な動きあり。」

との報告があり,

ついで,深町広平より,

「浅宮政臣が,反乱を準備している。」

との通報が入った。

当時,総攬である美城神聖が美城に常在するようになったため,
臨時的に元老院も美城に移っていた。

当然,元老院議員である浅宮政臣も美城にいた。

神聖が,綾朝救援のために美城を空けようとしているのを見て取った
浅宮政臣は,神聖が留守の間に蜂起し,神聖を追い落とそうと考えていたのである。

さて,政臣の不穏な動きを美城神聖に通報した深町広平は,
当時,浅宮政臣の側近の一人であったが,また美城神聖の外伯父でもあった。

広平は,政臣の信を得ており,
政臣から反乱計画を打ち明けられると,悩みぬいた末に

「浅宮家が反乱を起こせば,我が国は大乱になる。」

と,神聖に政臣の反乱計画を通報することにしたのであった。

美城神聖は,舟形諸島への出陣を装いながら,電撃的に浅宮邸に兵を差し向け
浅宮政臣の身柄を押さえることに成功した。

浅宮政臣は,南海に配流となった。

政臣と高臣の対立以来,分裂していた浅宮家は,高臣の子 尚臣のもとに統一された。

開明派諸侯の一人,中街行景は,

「これで,憂いは除かれ,政権は盤石となりました。」

と言ったが,神聖は,

「これよりは,奢りが憂いとなる。」

と述べた。


美城還御

広奈国の残党は,一条智高を盟主に清正帝の兄 詮景を皇帝として奉じて,
綾朝への抵抗を継続していた。

広奈国残党と盟約を交わしたのが各務国の藍原将真であり,
一条・藍原連合軍は,一時,背州まで進出して綾朝を苦しめる。

美城神聖は,浅宮政臣の反乱を阻止した後,すぐに舟形諸島へ入って,
綾朝水軍を援護し,一条・藍原連合の水軍が東進するのを阻止した。

ところが,一条智高が薨去すると,広奈国残党の統合が崩壊する。

智高の子 智初(ともかず)が,広京近郊の要衝 松下で綾朝軍に大敗を喫し,
一条家の求心力が著しく低下したのが原因であった。

智初は,綾朝側から旧広奈国諸侯である上原氏や京極氏が内応してきたのを信じて,
その誘いに乗って出陣したのであるが,両氏の内応が実は偽りだったのである。

松下で惨敗した智初が求心力を失うと,広奈国残党からは,綾朝の調略に応じて,
綾朝へ降伏する諸侯が相次ぐようになった。

湾陽へ綾朝軍が侵攻すると,
各務国の藍原将真は,広奈国残党の滅亡は不可避であると考え,
広奈国残党との盟約を破って,一条領へ侵入した。

綾朝と藍原将真の挾撃を受けた広奈国残党はあっけなく滅亡した。

湾陽西部は各務国が,湾陽東部は綾朝がそれぞれ占領する。

戦後,日生国は綾朝と,舟形諸島と安宿諸島を交換した。

日生国としては,安宿諸島は大陸との通交を深める上で価値があり,
綾朝としては,舟形諸島は首州と亜州を結ぶ要衝として価値があった。

双方の利害が一致した上での所領交換である。

舟形諸島を領国としていた藤真氏は,海西へ移った。

綾朝との約定を締結した後,神聖は,美城府へ戻る。

明けて百三十一世19年(1558),正月,美城神聖
は,翔子を后に迎えた。

その翔子をかつて救った人物,有間渉遊――

神聖の気にかかっている存在であった。

安達政権の屋台骨を支えながら,正治に疎まれ,
ついには,その政策に真っ向から反対して逐電してしまった渉遊は,
その後も,消息不明のままであった。

神聖は,

「是非とも有間渉遊殿を我が国に迎え入れたい。」

と,火撫党に渉遊捜索のために人員を割くように命じる。

火撫党もこの頃,代替わりしており,
当主は,厚からその息子 周(あまね)になっていた。

十数年間,完全に野に潜んでいた有間渉遊の居所を周は,なんとか突き止める。


渉遊との会談

渉遊は,逐電してから各地を転々としていたが,
安達政権崩壊後は,葵野(あおいの)という所で隠遁生活を送っていたという。

葵野は,美城島(赤音島)にある。
目と鼻の先と言える。

美城神聖は,自ら,渉遊の元を訪れると,

「あなたに妻の命を救っていただきました。

どれほど感謝しても足りません。」

と深々と頭を下げた。

安達正治はかつて,藤真家に謀反の疑いを持ち,当主を処刑し,
藤真家からの人質であった翔子をも処刑しようとした。

渉遊はそれを逃したが,後に翔子は,美城神聖の妻となったのである。


渉遊は,

「あの時は,主家の没落を止めようとしただけです。

奸臣の讒言を容易く信じ,謀反の実の無い者を,刑戮し,その一族を絶滅させようとする,
暴虐を放っておいては,安達の家は諸国の信を失うと思いました。

しかし,私には力がなく,暴挙を完全には止められなかった。

安達の家は,私の予測通り没落の道を進むことになりました。」

と述べた。

神聖は,

「あなたに力が無かったのではなく,
水奈府の相国(正治)があなたを用いることができなかっただけです。

あなたの徳と才知は,海内に並ぶ者がないほどでありましょう。

あなたを用いていれば,安達家は今頃,海内に平安をもたらしていたはずです。

ところが,あなたは野に下り,海内に平安は,訪れないままになってしまいました。

世の泰平のため,あなたの徳と知恵が必要です。お力を貸してはくださいませんか。」

と日生国への出仕を促した。

ところが,渉遊は,

「私は,主君を君側の奸からお守りすることができず,
主家に道を謬らせた亡国の臣です。

また,齢五十をとうに超えました。

もはや,世にでるつもりはありません。」

と述べて出仕を固辞する。

神聖は,渉遊の意志が固いと見て,渉遊の招聘を断念した。

渉遊自身が日生国で官途に就くことはなかったが,
その子 怜久(としひさ)は,日生国で官途に就き,賢臣として名を馳せた。

また渉遊の招聘は成らなかったが,美城神聖が積極的に人材を求めていることは,
諸国に知れるようになり,旧一条家臣であった沢渡玲(さわたり・あきら)や
瑞城亮(みずき・たすく)らの名将らが,日生国に仕官を求めて来訪した。

沢渡・瑞城両将は,その後,日生国で参議となっている。


協和主義

百三十一世19年(1558),2月,綾朝の建文帝が崩御した。

綾朝は分裂する。

皇太子である輝成皇子と春成皇子による,帝位継承を巡る内乱が勃発したのである。

この年の干支から戊午(ぼご)の乱と呼ばれる。

輝成皇子は,決して凡庸ではなかった。

かつて輝成皇子は対湯朝戦線で,
山奈広康の最後の攻勢により綾朝が存亡の危機に陥る中で,
広康の部将らを撃破し,湯朝軍の進撃を止めている。

さらに,芳野会戦で日生国と綾朝の戦いが泥沼化した際には,情勢打開を実現した。

その後は,亜北経略を成し遂げ,広奈国経略では,海陽征伐を成功させ,
姫村氏を綾朝側に引き入れるなど実力を示している。

対して,春成皇子は,綾朝建国以来最大の宿敵とも言えた湯朝を征伐した功績が,
極めて大きく評価されており,広奈国征伐でも京極氏を降すなど,功を立てた。

建文帝は,曖昧な態度を取り続け,
綾朝内では,太子派と春成皇子派が形成されてしまった。

建文帝の崩御をきっかけに,両派の争いは表面化し,ついに内乱となったのであった。

輝成皇子は,55歳と当時としては既に高齢であり,しかも,その子 弘成皇子は若年であった。

一方,春成皇子は四十代であり,
その子 祥成(ながなり)皇子は,既に成人していてしかも,聡明さを内外に知られた人物であった。

こうした背景から春成皇子派の方が支持を広げていた。

当時,綾朝は,都を首北の氷見に移していたが,
建文帝が崩じると一早く,春成皇子は都を制圧し,
輝成皇子は,危ういところで,都を脱出して須堂の地へ逃げ込んだ。

輝成皇子は,日生国へ救援を要請する。

日生国に対する方針も,輝成皇子と春成皇子では異なっていた。

輝成皇子は,芳野会戦以前から,日生国との対立には慎重であり,
春成皇子は,芳野会戦でもそうであったように対日生国強硬派であった。

美城神聖は,従前から,将来の綾朝分裂による様々な影響を予測して,動いていた。

皇太子派と親交を深めつつ,
日生国の輿論を綾朝皇太子派と結んで春成皇子派と対決する方向へまとめたのである。

日生国は,輝成皇子の救援を決定した。

神聖は,

「常盤は長らく分裂し,地域ごとに人心・風土が大いに異なる。

これを無理に統一することは,常盤の民にとって災いとなるであろう。

人心・風土の近い地域がまとまって二・三の国が拮抗する有り様こそ,

常盤の有り様である。」

と考えていた。

精神風土に開きのある地域の併呑は望まず,他勢力の統一に任せる。

そういう方針を採る国のみが常盤に並存する状態が,
常盤の泰平であるという考えである。

後世,「協和主義」と称される考え方である。

対立する考え方が,「大常盤主義」と呼ばれるものであり,
常盤全土および礼栄諸島に至るまで統一するという考え方であった。

しかし,美城神聖の方針は大きな賭けである。

常盤の国々が全て「協和主義的」であれば,並存は可能であるが,
常盤に一国でも「大常盤主義的」な国があれば,泰平は破綻する。

美城神聖は,自国の実力をどこまでも高め,その実力を背景にして,
「大常盤主義」的な国の企図を粉砕し,
常盤内の他国に「協和主義的」在り方を受け入れさせる道を選んだ。

近代以降の常盤の歴史は,
「協和主義」と「大常盤主義」双方の対立を軸に紡がれていくことになる。


須堂沖海戦

綾朝では,太子が即位し,建康の元号を立て,
春成皇子も即位して,太初の元号を立てた。

騒乱の間隙を衝いて,広奈国の残党が首州の各地で蜂起する。

また,各務国の藍原将真は,混乱する湾陽地方東部へ侵入して,
その全域を制圧した。

太初帝は,早智伯・佐藤綱村に7万の軍を与えて藍原将真の東進を防がせ,
また,首内方面での広奈国残党には,重沢彰高・北村行臣・岡沢広忠らに,5万を与えて,討伐に向かわせる。

美城神聖は,内海で早良晟・沢渡玲に水上戦力を与えて太初方の艦船を襲撃させてその航行を妨げる。

同時に,自らも水上戦力を率いて御月高任・藤真慶貞らとともに海路を進み,
また,香耶秀治・奈瀬能平・飛良遊暁に陸路を進ませて,須堂の建康帝を助けた。

美城神聖の親征に反対する声もあったが,神聖は,

「皇帝(建康帝)は,須堂で孤立しており,太初方の攻撃軍に対する防御に手一杯の状態である。

我が国が本気で救援する姿勢を見せなければ,早晩,その勢力は潰えかねない。

私が出れば,我が国の強い姿勢を示すことができる。」

と,出陣したのであった。

さて,戦闘は,亜州でも起こった。

建康方諸侯 天堂氏は,湯来から北上してきた太初方の東条誠直・堀内康正・松本朝家らの攻撃を受け,
同じく建康方の丘氏は,津京から来襲した早智仲・東条誠元らと対峙した。

日生国上平口には,太初方 里見泰利が攻撃をかけ,世礼健(せれい・たける)がこれを防いだ。

太初方は,藍原将真に湾陽全域・湖庭の一部・首内の一部を奪われたが,それ以上の東進を止めることに成功し,
和睦にこぎつけた。

また,広奈国の残党についても,安達智治の蜂起以外は潰滅させた。

さらに首州では,ほとんど建康帝の勢力を須堂に押し込めている。

ところが,亜州では,天堂氏や丘氏は頑強な抵抗を示して,その攻略は遅々として進まないどころか,
太初方の方が却って押し込まれる有り様になっていた。

その上,太初方は,日生水軍のために内海の航行も思うに任せない状態であった。

太初帝は,建康帝と日生国を除いて,一気に情勢を打開しようと考え,
自ら15万の軍を率いて,須堂への親征を敢行した。

水陸で戦闘が起こった。

水上では,日生・建康方の連合水軍が,太初方の水軍と須堂沖で衝突する。

連合水軍は,右翼に藤真慶貞,中央前衛に御月高任,左翼に建康帝の腹心 早智季,
後衛を美城神聖自らが率いた。

太初方は,左翼に日下保永,中央前衛に十和成継・浜名光高,右翼に前原時也,
後衛を早智尚(そう・ともなお)が率いた。

太初方の早智尚は,建康方の早智季の弟である。

連合水軍右翼の藤真隊は,太初方 左翼の日下保永(くさか・やすなが)隊の大船の砲撃を受けて乱れ,
日下隊に,背後へ回り込まれてしまった。

中央では,御月隊が正面の十和成継隊・浜名光高隊を船足と猛砲撃で圧倒し始める。

太初方は右翼 前原隊でも連合水軍左翼 建康方の早智季(そう・ともすえ)の後方へ回り込もうと西進したが,
早智季は前原隊の動きに合わせて西進する。

早智季の動きにより連合水軍は,左翼と中央の間が開く。

前原隊は連合水軍の左翼と中央の分断を狙う方針に切り替えた。

藤真隊は,態勢を立てなおして日下隊の攻撃になんとか持ちこたえていたから,
日下隊は,連合水軍の背後を取ることが完全にはできなかった。

そのため美城神聖率いる後衛は,日下隊の攻撃にさらされずに済み,
いち早く左翼と中央の隙間を埋めることができた。

神聖の艦隊は,激しい砲撃と銃撃で前原隊を潰滅させると,
そのまま,前進,太初方後衛の早智尚(そう・ともなお)隊を側撃し,甚大な被害を与えた。

早智尚隊は分断されて離脱,
太初方で唯一艦隊を保っていた日下保永も藤真隊の猛反撃を被り始めた。

日下隊は離脱を始めたが,連合水軍に完全に包囲され殲滅される。

連合水軍の完勝であった。


篠原の会戦

陸では,建康帝が出御したことにより,連合軍の士気が高かった。

日生国と建康方は,作戦を充分にすり合わせていた。

一方,太初方では,大事が起こっていた。

太初帝の出陣直前,太初方の最重鎮とも言える早智伯が,急逝したのである。

太初帝は,大いに悼んだが,

「智伯のためにも,この戦は必ず勝利する。」

と一層,決意を固くする。

太初軍は,水奈府街道を南下した。

連合軍は,太初軍の進路を妨げるように篠原という所に布陣する。

右翼に香耶秀治・奈瀬能平・飛良遊暁ら日生軍,
中央に泉晴鷹(いずみ・はるたか)・橘川広規(きっかわ・ひろのり)・有沢秀直
後衛は建康帝・上村晴生(うえむら・はるみ)・二条誠興・安代栄家,
左翼には,司馬康之・川上清紀・本宮利持らの隊があった。

右翼は,常盤最強といってよい日生軍の精鋭中の精鋭であり,
中央も,歴戦の猛将・智将を軸とする建康方の精鋭であった。

これに対し左翼は,外様の諸侯を中心とした編成で,しかも,これまでに太初軍に所領を逐われ,
かろうじて建康帝の元へと落ち延びてきた諸侯らであるから,
その軍勢は残余の兵らであり,疲弊しており弱体であった。

太初軍は,志賀直貴・樋口時経を先手とし,中堅に二条誠村・温岡茂頼,
後衛に太初帝とその側近 鳴海由直がいた。

太初軍は,連合軍の中でも弱い左翼を潰そうと動いた。

左翼を潰せば,連合軍は中央部の側面が空く。

太初帝の狙いは正にそこにあった。

だが,鳴海由直は連合軍左翼への攻撃に反対した。

連合軍の左翼が弱体であるのは,
連合軍側の誘引策ではないかと考えていたためである。

ところが,太初帝は自ら思い定めた通り,連合軍の左翼への攻撃を敢行した。

連合軍左翼は,ひとたまりもなく崩れる。

太初帝の狙い通り,連合軍は中央部と後衛の側面がむき出しになった。

太初軍先手の志賀隊・樋口隊は,方向を転換しながら連合軍中央へ突入を図る。

ところが,連合軍は後衛の内,安代栄家隊を伏勢としていた。

今度は太初軍先手が側面をさらすこととなり,猛将 安代栄家の攻撃を受けて壊滅的打撃を受けた。

同時に,連合軍右翼の日生軍も動いていた。

香耶秀治は,

「我らの動きが仕上げになる。」

と素早く展開して太初軍の後方を塞ぎ始めていた。

連合軍は中央と安代隊が,太初軍中堅を挟み撃ちにする。

鳴海由直は,

「このままでは,当方は完全に包囲されます。

私がここを引き受けますので,帝には,一刻もお早く他所へ移られますように。」

と太初帝に後退を促した。

太初帝は,勇将 手取広房とともに後退し,
かろうじて包囲の外へ出ることに成功したが,大勢は決していた。

太初軍の先手・中堅は連合軍の包囲を受けて殲滅された。

鳴海由直を始め,志賀直貴・樋口時経・二条誠村らが戦死,
温岡茂頼も建康軍に捕らえられた。

連合軍は,太初帝の軍に殺到する。

手取広房は殿軍となって,太初帝を逃したが,壮絶な討死を遂げた。

陸上でも連合軍が太初軍に完勝したのであった。

美城神聖は,

「情勢は一変するであろう。

太初方は,中核となるべき将兵を失った。」

と言ったが,正にその通りであり,
建康方は,太初方に反攻を仕掛けて連戦連勝,破竹の勢いとなった。


安鳥恢復

太初帝は,篠原での大敗,その後の建康方による攻勢など心労が重なり,
病を得て,即位からわずか8か月で身罷った。

太初帝の後は,祥成皇子が即位(平明帝)したが,
建康軍の攻勢に抗いきれなかった。

建康軍は,百三十一世20年・建康2年(1559),平明帝の都 氷見へ迫る。

平明帝の軍は,氷見近郊の八橋(やばせ)に布陣したが,
建康軍に大破される。

平明帝は自害し,綾朝は,建康帝のもとに統一された。

日生国は,綾朝から安鳥諸島の割譲を受ける。

建康帝を支援した見返りである。

美城神聖は,

「千二百年ぶりに,我が国は発祥の地を取り戻した。

しかも,安鳥は南洋との交易の要地である。」

と安鳥恢復を喜んだ。

実際に日生国と南洋諸国との交流は,一層盛んとなり,
日生人による街が南洋諸国の各地に形成されていくようになる。

しかし,それはまた,南洋・東洋での勢力拡大を狙う,
西洋列強との摩擦にもつながっていく。

常盤では,日生国・綾朝・各務国の三国の国力がほぼ拮抗した状態となっていたが,
しかし,各務国は勢力拡大を図っており,
美城神聖の考えるいわゆる「協和主義」の実現には至っていなかった。

太初方が劣勢となって以降,藍原将真は太初方との和睦を破棄し,首北へなだれ込んで
広京を占領,さらに建康帝に属するようになっていた新名氏を攻撃して,
湾陰から追放すると,湖庭や首内への侵攻も再開した。

戊午の乱に勝利した建康帝にとって,藍原将真への対処が最初の懸案事項となった。

日生国は戊午の乱以来,建康帝への助勢を継続して,各務国とも戦った。


小康

百三十一世21年(1560),美城神聖は,建康帝の求めに応じ,
早良晟・沢渡玲らとともに自ら安宿諸島へ入って,
湾陽を窺う姿勢を見せ,また南海衆を動かして各務国の南岸を攻撃させた。

さらに,首内方面でも綾朝のために香耶秀治・御月高任らを派遣して,
新名氏の湾陰への復帰を支援する。

日生国本国の留守は高須陽視が預かり,
神聖の代理として良く国内を保ち,前線への補給も充実させた。

さて,首内方面では日生軍は奇しくも,安達智治と共闘することになった。

安達智治は,戊午の乱に乗じて手勢を率いて首内の春山を太初方から奪取し,
その後,片瀬に勢力を及ぼし,その所領を建康帝に献上して臣下の礼をとったのであった。

智治は,日生国への遺恨を表すことなく,この共闘は順調に進んでいく。

日生国による綾朝救援の結果,藍原将真は,綾朝への侵攻を中断する。

日生・綾朝・各務の三国による会談が,湾陰と首内の境にある瀬崎の地で行われ,
和睦と国境線の画定などについて約定が締結された。

日生国は,それまでの領土である海東と海西,南海諸島・安宿諸島・安鳥諸島に加え,
綾朝から救援の見返りとして,海陽の尾崎地方の割譲を受けた。

各務国は,湖庭地方の勢力圏を放棄し,
新名氏の湾陰東部への復帰を認めることとなったが,
首内の沼原を確保し,さらに首北の西半,広京以西は継続して領有を保った。

綾朝は戊午の乱以前の版図と比べると大きく国境を後退させる事になったが,
藍原将真の進撃を押しとどめて,傘下に入った新名氏を守りきることにも成功,面目を保った。

常盤には,ひとまず安息が訪れたが,美城神聖は,

「この平安は一時のこと。

各務国はもちろん,綾朝もさらなる野心を捨ててはいない。

泰平は遠い。」

と嘆息した。


宮前会戦

百三十一世22年(1561),綾朝建康帝の弟 雅成皇子が,
広京付近まで侵入したのを契機に,均衡が破れた。

この侵入は,各務国の将 朝倉壱任(あさくら・いちとう)の誘引策によるものとも言われるが,
その壱任の軍に雅成皇子は討たれてしまった。

この件により,綾朝と各務国は戦闘状態となる。

建康帝は,弟の仇討ちのために各務国への親征を開始,
朝倉壱任は,藍原将真とともに建康帝の親征軍を向原で大破した。

建康帝は態勢を立て直して,宮前に籠り,氷見からの救援軍を待つとともに,
日生国へも救援を要請した。

美城神聖は,高須陽視に本国の留守を預けると,早良晟・沢渡玲・御月高任ら海将,
香耶秀治・飛良遊暁・奈瀬能平ら陸将を従えて親征を敢行する。

日生軍は,広奈水道から宮前を救援した。

日綾連合,各務国双方が二十万近い軍勢を集めて水陸で対峙する。

長期対陣となり,断続的に宮前近郊の各所で戦闘が起こり,
綾朝は,雅成皇子の遺児 雅望王(まさもち)が戦死,各務国も朝倉壱任を失った。

結局,双方ともに決定的な勝利を得ることができない状況が継続する。

ここに至り,再度,和睦が成立する。

綾朝の国境は,宮前の眼前にまで後退,さらに湖庭も喪失した。新名氏は,湾陰を退去する。

日生国は,各務軍が放棄した北海の綱島を確保する。

広奈水道の東の入り口とも言える場所にある要衝である。

各務国は,河首・湾陰・湾陽・首北・首内の一部・湖庭の大半を領有することになり,その版図は光粛帝の再興以来最大となった。

ところが翌年には,藍原将真が病を得る。

藍原将真は,そのまま桐生で薨去した。

さて,外征でも成功を収め,国内も安定させていた美城神聖であるが,
かねてから後継者問題が,くすぶり続けていた。

神聖には,いまだ子がなく,
最も血縁が近いのが従叔父の千楽真季という状態だったからである。

側室を勧める声も多かったが,
神聖は,

「曽祖父の前例にならい,聖君家より嗣子を迎える。

千楽聖君家の久季(ながすえ)は,聡明で思慮深く,最も相応しい。」

として,百三十一世23年(1562),
ついに千楽真季の三男 久季(ながすえ)を養子として迎えた。

久季は,諱を和慈(かずちか)と改めた。


南洋

百三十一世24年(1563),南洋で事件が起こる。

ペルトナがマナ王国の継承騒動に介入したのである。

マナ王国には,日生国も商館を開設しており,日生人も居住していた。

ペルトナは,支援するケオラ王子を王位につけ,対立するカレア王子やその一党を追放する。

さらにペルトナは,カレア派として,日生国商館や日生人を襲撃した。

美城神聖は,

「ペルトナの凶行から,友邦と日生人(ひなせびと)を守る。」

として,南洋への艦隊派遣を考えたが,賛否が分かれた。

「ペルトナは強国であり,南洋へ艦隊を派遣したとして,必ずしもペルトナに勝てるという保証はなく,
また,勝っても,強力な報復を受けることになるでしょう。」

と,千楽元季や天羽理子(あもう・みちこ),中街行景らは,反対した。

一方で,後藤信暁や原政人,八坂結子らは,

「ペルトナは,多方面で列強と競合しており,また,本国は西の彼方にあります。

南洋での行動は,制限を受けたものにしかなりえません。

我が国は,百年に渡る戦力増強によって,外洋に適した水軍を養うことに成功しました。

今や,南洋は近く,多くの戦力,物資を南洋に投入することが可能です。

南洋を失えば,我が国は,常盤の片隅に逼塞するしかありません。」

と,南洋への艦隊派遣に賛成した。

神聖は,各方面から世界情勢について様々な情報を得ており,検討と分析を行っていたが,
賛成派の意見は,その分析に合致していた。

神聖は,高須陽視に最新鋭の艦隊を与えて南洋へ派遣する。

日生軍は,カレア王子の軍と合流して,マナのペルトナ軍に反攻を開始した。

高須陽視は,ペルトナ艦隊を大破してマナに入ると,カレア王子を即位させ,
商館を復興し,現地の情勢安定に尽力した。

ペルトナ側では,日生国への報復を訴える勢力もあった。

しかし,ペルトナは,当時,新興国リーフランドと南洋で海上覇権を争っていたが,
次第に劣勢になり始めていた。

新たに日生国への報復のために戦力を投入することは現実的ではなかった。

ペルトナからの報復はなかった。

ペルトナの勢力は,以後,マナ海方面から駆逐されていくようになり,
南洋での列強の覇権争いから一足先に脱落することになる。