各務国崩壊

百三十一世25年(1564),各務国から亡き藍原将真の妻子が日生国へ亡命してきた。

藍原将真の薨去後,各務国内では,権力闘争が起こった。

将真の子 泰真は幼く,派内を主導することは不可能であった。

各務国では,新たに菊川由雅という人物が権力を掌握し,
藍原派との抗争に勝利して,藍原派の粛清を始める。

危機に陥った将真の妻子は,亡命を余儀なくされたのであった。

美城神聖は,泰真とその母 恵子(よしこ)を歓迎し,保護した。

後に,泰真は,日生国の要職を歴任することになる。

ところで,神聖は,諸国の情勢収集に熱心であり,
各務国内の政争などについても多くの情報を得ていたが,

「菊川由雅では,藍原将真の真似はできまい。

各務国は,内より崩れるであろうが,それは,我が国にとっても一大事となる。」

と述べた。

事態は神聖の予想通りとなり,各務国は崩壊していく。

各務国では,菊川由雅の専権に反発した結城広成・友成父子が,
湾陽・湾陰で自立した。

菊川派の攻撃を受けた結城父子は,やむを得ず,綾朝に誼を通じる。

百三十一世26年・綾朝の建康8年(1565),綾朝の建康帝は,20万の軍を率いて各務国へ親征した。

菊川由雅は,湾陰の要衝 有帆に籠って綾朝軍の進撃を阻止したが,
綾朝の調略により,有帆の内部では反乱が発生する。

有帆の士気は低下し,菊川由雅は疑心暗鬼に陥った。

ここに至って各務国朝廷は,旧藍原派の緒川誠智の主導によって,綾朝への降伏を決定した。

各務国は滅亡,皇帝は,緒川誠智の尽力により,河首道の小諸侯として存続することとなる。

菊川由雅は,有帆での綾朝への抵抗を咎められて,多くの側近とともに処刑された。

さて,各務国滅亡のこの年,美城神聖と后 翔子の間には,男子 敬慈聖君が誕生した。

美城神聖が千楽家より迎えた養子 和慈聖君は,

「神聖の御位は,神聖の実子が継ぐべきです。」

と,後継者の地位を自ら辞した。

神聖は,和慈聖君に長岡聖君家を立てさせている。


建康帝崩御

綾朝は,各務国を呑み込み,日生国には一大事が近づいていた。

綾朝内部には,依然として親日生派と反日生派が存在していた。

建康帝は,即位時より高齢であったから,
美城神聖は,綾朝の次の世代を見据えて親日生派との連携を深めてきた。

百三十一世27年・綾朝の建康9年(1566),
63歳で建康帝が崩御した。

新たに皇帝となったのは,皇太子 弘成皇子であり,
治世中の元号が光有であったため,光有帝と称される。

光有帝は聡明であったが,病気がちであったから,
建康帝を支えた早智季や泉晴鷹,上村晴生らが政治・軍事を主導した。

そのため,

「当面,日生国との友好を維持する。」

という,建康帝時代からの綾朝の政策は維持された。

とはいえ,神聖は,

「予断を許さない情勢である。」

と考えていた。

綾朝は,常盤全土の統一を諦めたわけではなく,
だからこそ,日生国との友好は「当面」保っておく,
という態度なのである。

仮に日生国に隙があれば,遠慮会釈なく,
綾朝は,矛先を向ける。

また,「当面,日生国との友好を維持」する方針の
光有帝は体が弱く,しかも,後継者となるべき男子がいない。

「仮に,早々に光有帝に万一のことがあれば。」

と美城神聖が考えを巡らせた時,
その脳裏に浮かんだのは,

光有帝の二人の弟 開成(はるなり)皇子と宣成(のぶなり)皇子である。

神聖の側近,高須陽視は,

「宣成皇子が登極すれば,我が国と戦になりましょう。」

と指摘したが,それは神聖の考えと一致した。

宣成皇子は,早い段階での常盤統一を目指していた。

また,神聖は,

「戊午の乱のような情勢となれば,いずれにせよ戦になる。」

とも思った。

つまり,開成皇子と宣成皇子が帝位を争う事態である。

光有帝の治世が継続すれば,綾朝との戦はひとまず遠のく。

けれども,安穏と光有帝の長寿を願ってばかりはいられない。

美城神聖は,綾朝内部の親日生派の影響力増大を目指して工作を行う一方,
さらなる富国強兵に邁進した。


入朝要求

百三十一世29年・綾朝の光有3年(1568),
綾朝の光有帝は重病となった。

この時点で,光有帝には依然として男子がおらず,
後継は,宣成皇子と開成皇子が候補であった。

開成皇子を推す動きが強かったが,その13歳という年齢が問題となった。

宣成皇子は,光有帝の二歳年下で21歳であった。

最終的に,光有帝は,宣成皇子を後継に定める。

光有帝は,一つの懸念を持っていた。

自身が病弱であるためにその治世は,重臣らによって主導されてきたが,
自身の後,若年の開成皇子では,引き続き重臣らの主導が続くこととなり,
皇帝権を弱めることになるのではないか。

そういう懸念である。

宣成皇子は,壮健であり成年に達している。

重臣らの影響力を抑えて,皇帝主導で政治を行うであろう。

光有帝は,そう考えて宣成皇子を自らの後継に選んだのであった。

開成皇子と違い,宣成皇子が光有帝の同母弟であったという事実も,
影響したのではないかとも言われる。

後継者決定からひと月後,光有帝は23歳という若さで崩御した。

新帝は,その元号から大成帝と呼ばれる。

大成帝は,自らの側近を重用し,
建康・光有年間の重臣の影響力排除を目指した。

百三十一世30年・綾朝の大成2年(1569),
早くも大成帝は,日生国へ入朝を要求する。

美城神聖は,

「我が国は,帝王を戴かない国である。皇帝の臣下となるつもりはない。」

として,入朝を拒否するとともに,

「綾朝は,我が国が要求を受け入れるとは思っていないであろう。

にもかかわらず,使者を送ってきてわざわざ,我が国を攻める口実を作った。

綾朝軍の侵攻は,相当に近い。」

と,開戦に備えた。


己巳・庚午の役

百三十一世30年・綾朝の大成2年(1569),入朝拒否を理由として,
綾朝軍35万が日生国へと侵攻を開始する。

初瀬口は,水陸より泉晴徴・二条誠興・重沢彰里・高屋敦綱(たかや・としつな)・
早若高(そう・なおたか)ら10万が侵入。

山吹口は,水陸より,里見泰経・志賀直尊・原瀬宗和・四方堂国顕ら6万。

泉口は,こちらも水陸より,大津喬元・大谷時景・川上紀泰・本宮利亮ら6万。

尾崎口は,司馬房之・長谷貞親・仁科高晴・豊県行尚(とよがた・ゆきひさ)ら5万。

海東でも,芳野口に,泉重斉・御風晴時・安東高広ら4万,
上平口に西井英孝・比奈良牧(ひな・よしひら)・朝霞師家ら4万が殺到した。

日生国は,総勢20万。

初瀬口は,神聖自ら指揮を執り,香耶秀治・飛良遊暁・原政人・鞠谷凌らが陸路を,
早良晟・沢渡玲らが水路を守った。

美城神聖の養子 長岡聖君も初陣を迎える。

山吹口は,奈瀬能平・瑞城亮・斎藤友成・緒方哲彰ら,
泉口は,高須陽視・後藤信暁・世礼集・沢木基・葉月誠世らが,
尾崎口は,御月高任・世礼健・浅宮尚臣・九識譲(くしき・ゆずる)らが守備に当たった。

海東では,千楽元季・安城密(あんじょう・ひそか)・里谷行晴が芳野口を,
上平口を姫路嘉景・松本敬古・雛上鏡(ひながみ・かがみ)が守った。

また,八坂結子(やさか・ゆうこ)が,美城にあって海西・海東の連携・補給を担当して,
前線に不足を生じさせることがなかった。

二年に渡る大戦の始まりであり,
両年の干支より己巳・庚午の役(きし・こうごのえき,つちのとみ・かのえうまのえき)と呼ばれる。

美城神聖は,また,

「綾朝も一枚岩ではない。」

として,かねてから親交のある綾朝内の親日生派に働きかけた。

「和平が成就すれば上出来であり,そうでなくとも綾朝に亀裂を生じさせることが出来れば,
我が国は,勝利に近づく。」

と考えてのことである。


初瀬の戦い

主戦場は,やはり神聖が自ら指揮する初瀬口であった。

日生側は,初瀬の城の外側に惣構を構築し,さらに惣構の外に出丸まで築いて防備を固めた。

綾朝も大砲を揃えて,惣構の内側を狙った。

さらに,綾朝は,坑道を掘って惣構の突破も図る。

けれども,大砲と砲手は日生軍の方がやや優秀であり,砲撃戦で動揺を生じたのは綾朝であった。

しかも坑道作戦も,日生側は,すぐに対応して阻止してみせた。

水上では,一時,兵力差から綾朝側が,初瀬沖の島嶼部を攻略した。

日生側では,戦力集中の観点から島嶼部の放棄を神聖に献策する者もあったが,

「敵兵に蹂躙される民を見捨てることなどできない。

民心の離反を招くことにもつながる。」

と,神聖は島嶼部への救援を決定,早良晟・沢渡玲は,島嶼部で抵抗を続ける藤真慶政を救援し,
綾朝軍を追い払った。

戦果は挙がらず,包囲が長引き始めると,綾朝軍の士気は急速に低下し始めた。

日生軍は攻勢に転じ,綾朝軍の包囲を分断した。

初瀬口の綾朝軍は,高屋敦綱を殿軍として撤退を始めた。

高屋隊は,次々と討ち取られ,敦綱自身も手傷を負った。

しかしそれでも,香耶秀治を銃撃で負傷させて日生側の追撃を止めてみせた。

秀治は傷の状態が思わしくなく,美城に戻っての療養を余儀なくされた。

一旦,追撃を止められた日生軍であるが,態勢の立て直しが遅れた綾朝への攻撃を開始し,
須堂を奪取した。

他の戦線でも日生軍は優勢に立った。

殊に山吹口では,綾朝軍の将 里見泰経・四方堂国顕を戦死させて,成平の手前まで侵攻した。

また,泉口・尾崎口でも,日生軍は士気は高く優勢であり,綾朝軍を高良まで押し戻した。

海東でも,芳野口・上平口で日生軍が猛攻をかけ,綾朝軍を敗走させている。

綾朝軍は,総崩れと言ってよかった。

日生国は,多数の捕虜を得たが,全て丁重に扱い,綾朝へと帰らせた。


綾朝再分裂

大勝した日生国であるが、大きな存在を失った。

香耶秀治が治療の甲斐なく薨去したのである。

秀治は、政治軍事双方で要職にあったが、政治では、秀治の左議政の地位を高須陽視が引き継ぎ、
軍事的な諸役職は、瑞城亮が引き継いだ。

この人事は、異例のものであった。

高須陽視は、元々、神聖家の直臣であって諸侯ではなく、
瑞城亮に至っては、元々、他国の臣だった者である。

しかし、この人事は、受け入れられた。

それは、日生国の常識がすでに相当、前時代から変化したことを意味していた。

貴族制は溶解し始めて厳格さを失い、諸侯も政治的影響力を低下させて、
日生国の政府が、諸侯に対して絶対的に優位に立つようになった。

日生国の体制は中央集権的近代国家へ足を踏み入れ始めていたのである。

さて、日生国は、前線の軍備もそのまま維持し、綾朝への警戒を続けていた。

他方、綾朝の大成帝は、日生国への再遠征を目論んでおり、
しかも今度は、親征するつもりであった。

大成帝は、左大臣 東条誠弘を始め穏健派の反対にもかかわらず、
再遠征の準備を進めようとする

そうした中で迎えた、百三十一世30年・綾朝の大成2年(1569),
大成帝の暗殺計画が露見する。

首謀者は大成帝の腹心の一人である大津喬康であった。

綾朝は、皇帝専制を支持する専制派と建康帝・光有帝以来の封建体制を望む封建派に分かれていたが、
専制派も穏健派と急進派に分かれていた。

穏健専制派は封建派と急進専制派の調整役とも言える役割を担っていたが、
大津喬康は、穏健専制派重鎮であった。

大津喬康始め、事件に加わった者、縁者など数百名が処刑されたが、
大成帝は、満足せず、さらなる事件関係者の洗い出しを行わせる。

それは、急進専制派による恣意的なものとなっていく。

大津喬康を中心とした一部の穏健専制派の背後には、封建派がいるとされ、
封建派諸侯へも処罰は広がろうとしていた。

そして、封建派と急進専制派の調整役であった、
穏健専制派は、ごく少数を除いて要職から遠ざけられ影響力を失っていたから、
綾朝の分裂は、避けられない情勢となる。

封建派は、ついに開成皇子を奉戴して、挙兵した。

開成皇子は、即位して建安の元号を建てた。

綾朝を統一し、各務国を制した建康帝の治世を意識した元号である。

建安帝側は、兵力で大成帝の軍に及ばず、劣勢に立たされることが予想されたが、
建安帝の軍師 上村晴生は、建康帝の先例を挙げながら日生国との連携を進言した。

日生国では、奈瀬能平、周藤千広(すどう・ゆきひろ)、
乾薫(いぬい・かおる)、沢木基を始めとして、綾朝の内乱への干渉を反対する声も出た。

「勝った方はいずれ、また我が国を侵すはずであり、

どちらが勝っても、我が国に利益がない。」

といった声である。

一方で、高須陽視や原政人、早良晟を始めとして、

「大成帝と建安帝では、より大成帝の方が、我が国へ野心を見せている。

大成帝はこのままいけば建安帝を制して綾朝を再々統一するはずである。

そうなれば、今度は大成帝は、強固に統一を保った体制で我が国へ侵攻してくることになる。

我が国が綾朝に関わるか否かにかかわらず、いずれ綾朝は統一されるに違いなく、そうであるならば、

より我が国に危険な大成帝の方を除くべきである。」

といった声をあげる者もあった。

神聖は、後者を採用し、日生国は建安帝と連携して、大成帝の打倒を目指すこととなった。


己巳・庚午の役終結

大成帝は,まず建安帝討伐のため,10万の軍を建安帝の本拠 花岡へ向けて進発させ,
建安軍は,大成軍を井口の地で迎撃した。

しかし,大成帝の陣営は,大成帝暗殺未遂の一件が尾を引き、まとまりを欠いていた。

井口は要衝でもあり,防備が固かった。

しかも井口攻略に関し,作戦をめぐって対立を生じた大成軍は、
有効な打撃を建安軍に与えることができない。

日生軍は,須藤から7万の軍を進発させ,大成方の勢力圏へ侵攻した。

その勢いは大成帝の予想よりも強く,大成方の前線は、次第に後退してゆく。

軍事的に小さな建安帝よりも,日生軍への対処が最大の懸案となった大成帝は,
井口から軍を引かせその戦力を日生国へ向けた。

建安軍は,桐城まで占領して勢力を拡大,さらに広京へ向けて進軍を続けた。

とはいえ,兵数でまさる大成軍は,要衝 松下を固守して建安軍の進撃を止めた。

日生軍も河口の地で,進撃を止められた。

日生軍は,持久戦の構えを採る。

松下から押し戻された建安方は,桐城まで撤退する。

危機に陥ったかに見えた建安帝であるが,早智季の尽力が実り,
新名氏が大成軍から建安軍へと鞍替えしたことで情勢が変化した。

大成方は,東西からの攻撃に加えて,南からの新名氏の圧力にも対処を余儀なくされる。

他方,建安方は,南からの新名氏の圧力がなくなり,戦力の集中が可能になった。

建安軍は再度,松下へ進撃,大成軍を撃破する。

日生軍も,広奈水道を制圧しつつあり,大成軍の主力は,首北に孤立し始めていた。

日生軍は完全に河口を包囲し,大成軍による救援軍を寄せ付けない。

ついに,河口は開城を選択した。

松下を突破した建安軍は,広奈水道の東半を制し,広京を包囲した。

孤立した広京は,援軍も望めなかった。

三か月の包囲の後,大成帝は自害,建安軍は広京を陥落させて,綾朝を再統一した。

戦後,日生国と綾朝は、国境を画定して互いの不可侵を誓約する。

日生国は,須藤以東の首北は、綾朝へ返還したが、替わりに海陽地方の西半を獲得した。

美城神聖は,しかし,

「いつの世にも不測の事態は、生じるもの。万事に備えが肝要である。」

と,綾朝への警戒を緩めなかった。

ともあれ,二年に渡る 己巳・庚午の役は,終結した。


リュイト人来航

ひとまず、綾朝との不可侵を約して後背の安全を確保したことにより、
日生国の目は海外へ向いた。

百三十一世32年(1571)、美城神聖は、草野司(くさの・つかさ)を南洋へ遣わした。

草野司は、南洋諸国に到って、商館の開設に成功し、さらに百三十一世33年(1572)には、
南洋の大国ソロ王国へ到り、大王より許可されてここでも商館を開設した。

百三十一世34年(1573)、無事、美城に帰還した司は、神聖より

「我が国の将来を開く大功である。」

と賞され参議へ進んだ。

美城神聖は、

「西洋では数か国の強大な国が並び立って争っている。

だがこれらの国々は、宗教・肌の色を同じくしていること、
共通した歴史・文化を持っていることによって、
互いに親近感も持っている。

いざという時には協力するであろう。

その時、東洋の諸国が協力できなければ、各個撃破されるのみである。

東洋にも強大な数か国が生まれ、互いに親交を深め、
いざという時に協力できるようにしておかなくてはならない。」

と考えていたが、草野司による成功は、正にその礎となるものであった。

ところで南洋との通商は、新たな局面をもたらす。

司の到達したソロ王国は、かつて日生国がペルトナから救ったマナ王国のさらに東南に存在する。

日東洋に東西に長く伸びる勢力圏を持っており、日東洋各所の島嶼国家とつながりがあった。

そのさらに東には、リュイト大陸がある。

リュイト大陸では、かつて4千万の人口を抱え、大陸の西半分を有した超大国リュイト帝国が、
西洋列強の侵攻をうけて分裂し、山岳と大河に頼って細々と命脈を保つ状況へと追い込まれていた。

今や、リュイト文明の滅亡は時間の問題である。

追い詰められたリュイト人の中には、日東洋の島々へ亡命するものもあった。

亡命リュイト人にある噂が立ち始める。

「海の西に、白人を打ち破った英雄が有り、世界を再び平穏にする。」

というものである。

実は、この噂は事実に基いて沸き起こったものであった。

百三十一世24年(1563)、ペルトナの侵攻を受けたマナ王国を日生国が救い、
ペルトナの勢力をマナ諸島から追い払ったという事実である。

そんな「西の英雄」の伝説が流れる大洋へ、
日生国の交易船が頻繁に来航するようになったのである。

日生人は、白人達と同じような武器や船を持っており、亡命リュイト人達の期待を集め始めた。

百三十一世35年(1574)、リュイト人 クルト・ノエリーセ・エリュイーセは、
日生国に興味を持ってついに、日生国の商船に乗って美城にまで到った。

エリュイーセは、皇族から分かれでた名門の出身であり、リュイト復興へ並々ならぬ執念を燃やしていた。

神聖は、エリュイーセの話を聞いて、リュイトに大いに興味を持ち、
草野司を北リュイトに派遣することにした。


新天地

エリュイーセを案内人にして草野司は、亡命リュイト人の住むクールメーの地へ到達。

クールメーの地では、北部リュイトでイストラ勢力に抵抗を続けるアルタメセル皇帝家の将 セヴィネ・クレガンの知人  ジュシークを乗せ、リュイト大陸へ向けて出航した。

百三十一世36年(1575)、ジュシークの口利きにより、草野司の船団はついに北部リュイトの港 ミュセラセルヴへ無事入港、その後、セヴィネ・クレガンの歓待を受ける。

クレガンの計らいにより、司は、リュイト皇帝 リュセリークに拝謁することができた。

リュセリーク帝は、リュイトと日生国の通商を許可し、ミュセラセルヴに商館を開設させる。

また、リュセリーク帝は、司に、イストラ人に対抗するすべを尋ねた。

司は、

「イストラ人は、銃火器を備え、集団戦法に優れています。

こちらも、戦法と装備を新しくする必要があります。」

と説き、リュセリーク帝に日生産の武器・弾薬を献上し、
さらに部下や技術者を指南役として一時リュイトに残すことにした。

司は、百三十一世37年(1576)、美城へ復命した。

日生・リュイトの通商は、美城神聖の意向もあって盛んになり、日東洋の島々には、日生人の街がいくつも築かれていく。

リュイト国内では、日生人が顧問として招聘され、富国強兵が行われ、
イストラ人に対する「レコンキスタ」が進展してゆく。

また、司の復命から十年の内に、日生国は、日東洋島嶼部の港を拠点として、
リュイト大陸のイストラ人に対抗するようになった。

さて、草野司は、日生国の交易圏のさらなる拡大を目指して、
百三十一世38年(1577)には、またも美城を出航した。

司は今度は、前回とは反対に西廻りに航行し、西南洋諸国を回って、サラスのはるか沖を過ぎ、
テルメ大陸南端、スピネラ大陸、リュイト大陸南岸を経る。

リュイト大陸南岸から日東洋を渡った司は、
ソロ諸島の最南端メラ島まで来た際に南の沖に海岸線を見出してさらに南下、新天地に到達する。

これは、新州(後の南洋大陸)、レイアではノトス大陸と呼ばれる大陸であった。

司は、これを半年をかけて巡り、海図を作成しその地の習俗を記録した後、
百三十一世41年(1580)、二年八か月ぶりに美城へ戻った。

世界周航を達成したのである。

神聖は、

「先年の大功も未曾有のものであったが、今回は、それを上回る大功である。

生涯に、二度も国の礎となる偉業を成したのは、前代未聞の中の前代未聞といえる。」

と賞賛し、爵位を男爵に進めた。男爵以上は貴族の爵位であり、
平民出身者としては異例のことであった。

ところで、南洋大陸には、その後、多くの日生人のみならず、
綾朝からも多くの人が押し寄せ開拓がすすむことになった。


南洋の擾乱

南洋大陸の開拓,リュイトや中洋(東南アリア・サラス方面)諸国との通交の進展によって,
日生国の勢力圏は拡大し,西洋列強との摩擦が次第に大きくなっていく。

中でも,イストラ・ペルトナを南洋から追い払いつつあった,
リーフランドとの対決は不可避になりつつあった。

リーフランドは,ソロ王国の西に隣り合うマドゥラ王国内に,
都市 ニューローランドを建設,ここを拠点に勢力を拡大,香料貿易独占を目指して,
南洋に勢力を張っていたペルトナを追い払った。

さらに,綏盤島をも占領して対常盤貿易の独占をも目論んだ。

また,日生国が海外進出において消極策を採るように誘導しようと企図する。

ところが,日生国は,リーフランドの意図には乗らず,南洋への影響力を拡大し始めたのである。

リーフランドは,マナ王国,ソロ王国,マドゥラ王国三国の覇権争いを扇動し、
さらに各国内部の主流派と非主流派の抗争をも煽った。

マナ王国で内乱が発生し,ソロ王国がこれに介入すると、
今度はマドゥラ王国が,ソロ王国を狙って攻撃を加え,三つ巴の戦いとなる。

リーフランドはその影で暗躍し,漁夫の利を得始める。

美城神聖は,

「南洋は,理国(リュイト)と新州(南洋大陸)と我が国のちょうど真ん中にある。

ここを葉国(リーフランド)に抑えられると理国や新州との連携が絶たれ,それぞれに孤立することになる。」

と懸念した。

環日東洋諸国の和親による西洋列強への対抗,それが神聖の構想であり,
その完成のためにも,南洋諸国の安定は絶対条件であった。

美城神聖は,その絶対条件である南洋安定のために,
沢渡玲・草野司に軍を与え南洋へ向かわせた。

また,三国の抗争がリーフランドの勢力拡大の原動力となっていることから,
三国間の抗争の調停を内密に推し進める。

かつて,日生国はマナ王国の現国王カレア王の即位を助けたが,
その際に,マナ王国の主流派,非主流派双方との間に人脈が形成されていた。

ソロ王国でも,草野司などは,国王を始めとして多くの有力者と懇意であった。

さらに,マドゥラ王国内でも,従前より親日生派の形成を急ぐなど調略が進められていた。

百三十一世42年(1581)には,マナ王国で,
さらに翌43年(1582)には,相次いで日生軍はリーフランド人を打ち破り,
さらに,百三十一世44年(1583)には、リーフランドの拠点ニューローランドをも陥落させた。

綏盤島のリーフランド軍は孤立無援となり,日生軍の侵攻の前に敗北する。

南洋からリーフランドは去ったのである。

さて,列強の内,レーヴェスマルクは,日生国が南洋で勢力盛んとなった状況を見て、
サラス方面の経営を重視し,南洋進出を諦めた。


協和万邦

日生国は繁栄を謳歌していた。

美城神聖の総攬就任時から比べて,
人口も版図も4倍に膨れ上がり,
交易圏も日東洋全域,南洋・中洋にまで及んだ。

美城神聖の時代に入って経済は常に上昇基調で,
町人層も豊かになった。

神聖は,洋の東西・国の内外を問わず,
多くの優秀な学者・文化人を招き優遇した。

洋学も従来からの学問も盛んとなり,身分問わず広く門戸を開いた
学問所は拡大し,大学として整備される。

百三十一世36年(1575)には,美城に,同40年(1579)には,伯台・久礼の
学問所が西洋・東洋双方の学問を取り入れた大学としてその歩みが始まった。

さらに,伯台・久礼に大学が設けられた年,
美城には洋式の天文台もおかれている。

ところで,この時代には町人文化も大いに華やいだ。

経済的に町人層が豊かになったことが背景である。

順風満帆であるが,

神聖は,

「私の目指すところは,万邦が協和することである。

未だ万邦が協和するには程遠く,隣国綾朝ですら,
我が国への野心を完全には捨てていない。」

と述べた。

「万邦が協和する。」それは,大陸の古典にある

「百姓昭明,協和万邦」という言葉から来ている。

百姓昭明とは,人々がその徳を明らかにするということであり,
それによって,協和万邦,つまりあらゆる国々が和親して泰平となるということである。

そのために,神聖は,善政を心がけ,学問を盛んにし,
国中の人々が,各々の徳を明らかに出来るように心がけたのであった。

とはいえ,戦乱の世は,理想通りにはいかず,
国内の動乱が収まっても隣国や列強との争いは収まっていなかった。

綾朝の日生国への野心――

実際,綾朝側は,
日生国の代替わりの隙を狙おうと考えていた。

綾朝の建安帝は,即位時13歳でありその時,美城神聖は46歳,
建安帝が壮年を迎える頃,日生国は代替わりを迎えるであろう。

その頃には,建安帝の政権は,充分に統治経験を積んだ成熟した政権となり,
他方,日生国は,統治未経験の新政権となっている。

綾朝側としては,日生国を狙う絶好の機会となり得る。

美城神聖にとって,次代への代替わりを,
いかに混乱なく成し遂げるかが懸案となっていた。


世代交代

南洋から列強の勢力が去った頃,
日生国には世代交代の波が押し寄せ始めていた。

百三十一世48年(1587)には,安宿総督を務めていた御月高任が薨去,
翌々年(1589)には,原政人も薨去した。

神聖は,長岡聖君を御月高任の後任に,
姫村七緒(きむら・ななお)を原政人の後任とした。

原政人の薨去から数か月,
神聖自らも病を得,ついには意識が混濁するなど,極めて危険な状態となる。

にわかに,日生国全体が緊迫した。

日生国は今や全盛期を迎えていたが,
それは他でもなく美城神聖が現出したものである。

その神聖に万一のことが起これば,再び日生国に危難が訪れかねない。

「綾朝はどう出るであろうか……」

諸侯・諸将は,脳裏に浮かぶ「万一」を必死に打ち消しながら,
神聖の回復を祈る。

結論から言えば,幸いなことにその祈りは通じた。

神聖は,明確な意識を取り戻し,
徐々にではあったが,健康を取り戻した。

この頃,齢九十を越えてなお健在であった後藤信暁は,

「この世に暇乞いをするならば私の方が先でなくてはなりますまい。

よくぞお戻りくだされました。」

と神聖の回復を喜んだ。

日生国全体も祝賀の熱気に包まれた。

しかし,その熱気も覚めやらぬ中,神聖は,

「総攬に就いて五十年を越え,私も今や,齢六十七を迎えた。

次代の体制を今から作っておかなくてはならない。

私が健康な内に,次の代に国を引き継いでおきたい。」

として,神聖譲位と総攬引退の意思を示した。

周囲には引き止める声が非常に多かったが,神聖の決意は堅かった。

百三十一世51年(1590),神聖は,聖太子である敬慈(たかちか)聖君に神聖位を譲った。

新神聖は,清泉神聖(さやいずみのしんせい)と称される。

また,美城神聖は,総攬からも引退し,
元老院は,清泉神聖を百三十二世総攬に選出した。

神聖は譲位により,上聖と称されるようになる。

美城神聖から清泉神聖への緩やかな世代交代が,
その後の日生国と綾朝の関係を決定づける一因となった。


傘寿

混乱のない,代替わり――

清泉神聖は,美城上聖の後見を受けながらとはいえ,
見事に政権を引き継いだ。

新神聖は,よく周囲に耳を傾けるひとであり,
美城神聖時代からの賢人・賢将をよく用いた。

また,一時は美城神聖の太子であった義兄 長岡聖君との関係も良好であり,
綾朝が代替わりの際に二度も大乱を起こしたのとは対照的であった。

綾朝の目論見は完全にあてが外れたと言える。

そして――

美城上聖が傘寿を迎えた年,
日生国の百三十二世14年・綾朝の建安36年(1603),
綾朝を大災害が襲った。

建安の畿内大地震である。

かつて,広奈国順正帝のころに大地震が畿内を襲ったが,
それを上回る未曾有の被害が出たという。

順正の大地震の前は,前各務国の時代,福延9年(1227)にも
畿内で大地震が起こっているが,
ほぼ200年周期で畿内は大地震に見舞われていることがわかる。

甚大な被害は,畿内のみならず,湾陰・湾陽,首内にも及んだ。

また,綾朝では,地震で左大臣 天堂成彦が重傷を負ったにも関わらず,
復興のために激務にあたって体調を悪化させ薨去してしまった。

日生国も被害と無縁ではなかった。

安宿諸島には津波が押し寄せ,多くの人家が流出し,
死傷者も相当の数に上ったという。

とはいえ,日生国本土は,綾朝に比べれば被害は軽かった。

上聖も清泉神聖も,

「直ちに綾朝へ救援を送るべきである。」

として,多くの人員を派遣し,物資を送った。

綾朝では,「上下歓呼して」日生国からの支援を迎えたと言われている。


遠征

ところで,リュイトでは,日生国の支援を受けたリュイト人による,
イストラからの領土回復が進展していた。

イストラは,旧リュイト帝国領からは追い払われたが,
それより南,特に北緯31度線以南のアウグスタ植民地には確固とした勢力を持っており,
アウグスタ西海岸のサン・カルロと南洋のマナン島と,
華大陸を結ぶ貿易路を確保していた。

マナン諸島は,イストラにとって華大陸や常盤を窺う重要拠点であった。

美城上聖は,

「マナンは,南洋の東の端にあって,常盤にも近く,
また理国(リュイト)との中間にある。

イストラが我らの喉元に突きつけた刃のようなものである。

彼の地がイストラの手を離れ,マナンの島民の手に戻らない限り,
引き続き常盤も南洋もイストラに狙われ続けることになる。」

との懸念を示し,マナン遠征を企図し,調略がすすめられた。

現地の首長たちが反乱を計画したが,その背後には無論,
日生国の存在があった。

百三十二世19年(1608),日生国はマナンへ大艦隊を派遣する。

上聖自身も85歳という高齢を押して,清泉神聖とともに,
マナンに最も近い日生領の島 打音島(うちねとう)に入り,指揮を採った。

もちろん,上聖の出陣に反対の声は大きかったが,上聖は,

「これは,私の代でなすべきことの総仕上げである。」

として,固い決意の下,打音島に入ったのである。

イストラ側も支配下での反乱の動きを察知して,首謀者を捕縛・処刑して対処したが,
全ての反乱計画を潰すことはできなかった。

マナン諸島各地で現地民の反乱が発生すると,
呼応して,日生軍がイストラ側に攻撃を仕掛けた。

日生軍の沢渡周の艦隊は,イストラ艦隊を打ち破り,
内外の攻撃にさらされたイストラ側は混乱を来した。

ついに日生軍は,イストラのマナン経営の拠点であるカヤの街を攻略した。

その後も日生軍は,イストラ側の反攻を退けて,
マナン全土から,イストラ勢力を駆逐した。

日生国は,カヤの郊外に列強に対処するための軍事拠点と,
交易のための商館を築いた他は,マナン各地を現地首長の統治に任せた。


近代世界の父

百三十二世21年(1610)の末ころより,美城上聖は,食が細り,
眠ることが多くなり始める。

明けて百三十二世22年(1611)には,
一層,食が細り,眠って過ごす時間もさらに長くなっていった。

明らかに老衰が進行していた。

上聖は,

「自分は,徳が少なく,何も成さず,未だ『百姓昭明,協和万邦』には程遠い。

私が亡くなったら,葬儀は簡素にして,

皆,平生の通りに働き,備えを怠ってはならない。」

と遺言した。

盛大な葬儀も喪に服することすらもいらないと言ったのである。

百三十二世22年(1611),3月始め,美城において上聖はついに徂落した。

88歳であった。

日生国中,老若男女が上聖の徂落を大いに悼んだ。

上聖の徂落が伝わると,
上聖の時代に救援を受けた南洋の諸国やリュイトなど環日東洋諸国,
また,友好国であったレーヴェスマルクなど海外からも哀悼の意が表された。

日生国は今や,現代まで続く全盛期に入っていた。

上聖の長寿と緩やかな代替わり,綾朝での大地震によって,
綾朝は,日生国攻撃の企図を捨てざるをえない状況となった。

その後,幾度か綾朝には日生国への野心を見せる権力者が現れたが,
現実に両国の抗争に発展する事例は存在しなかった。

常盤にはついに泰平が訪れた。

さらに日生国は,列強を東洋から退けて,独自の交易圏を形成した。

現代に至るまで日東洋を取り巻く諸国は,
日生国を軸として連携し,列強の進出を退け続けた。

上聖は,後世,「近代世界の父」と評されることとなる。

近代以降の世界情勢は,美城上聖が構想した世界の姿を後追いするものと言って良く,
上聖の先見の明は明らかであった。

自身の遺言に見られる「何も成さず」の言葉とは裏腹に,
正に「近代世界の父」と言うに相応しい業績をのこしたのである。